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第110話 榛名、逆上する
しかし次の瞬間、また蓉子の顔は先程同様の冷めた目つきに戻った。榛名は一連の蓉子の表情を見ていて、まるでお芝居でも見ているような感じがした。
「……でもあの人、あたしが子どもができたのって言った時は凄く喜んでくれたのに、それからはどんどん素っ気なくなっていって……もしかしたら浮気してるんじゃないかって疑ったわ。止めときゃよかったのに、わざわざ浮気専門の探偵を雇った」
「…………」
「そんなことしなきゃ、あの人と兄さんが大学生の時からずっと付き合ってたなんて事実、知ることはなかったのにね。それに……」
『俺はお前に女にされたから、もう自分が女を抱くなんて無理だと思ってた。けどお前が女になったと想像したら割と自然に抱くことができたよ。すぐに子どもも出来て良かった……できたとはいえ、何回もできることじゃあないからね。女なんて、たとえお前の妹でも気持ち悪い。子供も男の子だったらいいなぁ』
「探偵にあいつと兄さんの会話の録音を聞かされて……あたしなんて、最初から中原に一人の人間とすら思われてなかったんだってことを知ることもなかった」
「蓉子、もうやめろ……」
「それまではお腹の子供が愛おしくてたまらなかったのに、それを聞いてからは何かエイリアンでも身ごもってるような気分になってねぇ……あたしは何度もお腹の赤ん坊を殺そうとしたわ。ことごとく失敗したけど……両親と、兄さんに邪魔されてね!」
「………!」
そう言った蓉子の目を見て、榛名は背筋に寒いものが走った。夫と兄の関係がショックだったとはいえ、自分の中に生まれた新しい命を自ら殺そうとするなんて。
榛名は男だし、妊娠したこともないからえらそうなことは言えないが、信じられない。
しかし、望まない妊娠で堕胎をする女性は多いのだと産婦人科に勤めている同級生に聞いたことがある。蓉子のようなケースも、彼女に言わせればよくあることなのだろうか?
それでも、よくあることだとは思いたくない。
蓉子は狂気に満ちた顔で話を続ける。霧咲の制止など聞こえていないようだ。
「臨月だったあたしを精神病院に無理矢理入院させたのよね!それで拘束して、薬を使って予定日よりも早く産ませて……頼むから腹ん中で死んでてくれって願ってたけど、あたしのことなんか生まれる前から聞きゃしないのよねぇ、あの子。本当に可愛くない」
蓉子はチッと激しく舌打ちをした。榛名は我慢できずに立ち上がり、蓉子に言った。
「あ……あなたは今まで亜衣乃ちゃんと一緒に暮らしていたんでしょう!?なのにそんな!全然可愛くないなんて、そんなの嘘だ!現にあなたはクリスマスに靴を買ってあげたって!あの子は、すごく喜んでましたよ!?」
「は?靴?……何よそれ、あたしが亜衣乃になんか買ってあげたことなんてないわよ」
「え……?」
『ねぇこの靴可愛い?空港で買ってもらったの!ママからのクリスマスプレゼントだって!』
嬉しそうにそう言っていた亜衣乃の姿は、まだ記憶に新しい。榛名が初めて空港で亜衣乃と会ったときのことだ。
「言っとくけどあたし、あの子の世話なんかまともにしたことないから。5歳までは親が面倒見てたし、親が死んでからはベビーシッターと、兄さんが面倒みてたし。ま、金のムダだからベビーシッターは数年で解雇したけど。あたし、あの子にはお金しか渡したことないの。だから服も靴も食べるもんも全部自分でなんとかしてるんでしょ」
「な……!!」
(それじゃあ、亜衣乃ちゃんは今まで……)
「何よあの子、勝手なウソついて。あたしがあの子にモノなんか買ってあげるわけないでしょ!オトコじゃあるまいし」
あまりにもネグレストな蓉子の発言に、榛名は自然と握った拳にぎりぎりと力が入っていた。そんな榛名の後ろから、霧咲が声を掛ける。
「暁哉、座りなさい。熱くならなくていい。君が怒鳴ったところでこいつは……」
「これが黙っていられるわけないでしょう!」
榛名はその勢いのまま、霧咲にも怒鳴った。霧咲はその瞬間、『やっぱり会わせるんじゃなかった』というような表情をした。
榛名は、別室に亜衣乃がいることもすっかり忘れて逆上した。霧咲の言ってたことも忘れたわけではないが、ここで黙っているのは絶対にダメだと思った。
自分のためにも。そして、亜衣乃のためにも。
「俺が母親になりたいのが笑えるとか、あなたの方がよっぽど母親失格じゃないか!!あなたに比べたら誰だって、男の俺の方がよっぽど立派な母親ができるよ!!文字通り産んだだけのくせに、図々しく母親ヅラしてるのはそっちだ!!」
「あ、あきちか」
「アハハ!ついに本性を現したわね!!産んだだけですって?随分と簡単に言ってくれんじゃない!こっちはね、命掛けてんのよ!!種付けするだけの男なんかがエラソーに言うんじゃないわ!!ああ、でもあんたは男の癖に種付けられる方だったわね、それも絶対に育たない種をね!!」
「今はそんなことどうでもいいだろ!!育てる気がないなら産むなって言ってんだよ!!ほっとくのだってネグレストっていう立派な虐待だって知らないのか!?」
「二人とも落ち着、」
「妊娠したのはあたしが望んだわけじゃないわよ!!全部あの男が、あいつがあたしを騙したから!あいつが兄さんの恋人だったから!!」
「誠人さんは関係ないだろ!!子どもを作ったときはあなた達は既に大人で、夫婦で、合意の上だったんだからそんな子どもみたいな言い訳が通用するか!!」
「おい、」
「アンタなんかに何がわかんのよ!!部外者がゴチャゴチャと口出しすんじゃないわよ!!」
「部外者じゃない!!俺をここに呼んだのはあなたのくせに!!」
「……二人とも、落ち着けっ!!亜衣乃に聞こえるだろう!!」
霧咲が一際大きな声を出して、とりあえず2人の言い合いはピタリと止まった。霧咲の言葉に、榛名はさーっと蒼くなる。
いくら榛名が蓉子のことを母親失格だと思っているとはいえ、亜衣乃の母親に変わりはない。そして亜衣乃は、蓉子のことが大好きなのだ。
(たとえどんな親でも、悪く言われて傷つかない子はいないよな……)
遊園地に行ったときに、母親を馬鹿にした男子たちに亜衣乃が怒ったことも思い出した。
「ったく、大人しそうな顔して結構なこと言ってくれんじゃない。兄さん、こんな猫被ってる奴のどこがいいの?床上手とか?」
「それも含めて、全部だよ」
「ちょっ!!」
何ナチュラルにノロけてんだ!と榛名は霧咲に突っ込もうとしたが、
「はっ……馬っ鹿みたい」
蓉子にまた鼻で笑われたので、出来なかった。
「……今まであの子を手放さなかったのは、本当にお金のためだけなんですか」
榛名は神妙な顔で、蓉子に聞いた。たとえ何度否定されても、金のためだけに蓉子が亜衣乃と一緒にいたとは思いたくない。それが真実では、亜衣乃が可哀想すぎる。
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