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第140話 榛名一行、温泉へ行く

忙しい日々を送っていると、週末は思ったよりも早くやってくる。それは毎日同じような業務を繰り返していると、余計に感じるものだ。 もっとも何かしらのトラブルは毎日起きてはいるのだが、榛名はそれすらももう日常的に感じているのだった。 そして今週末はあるイベントが待っているため、普段よりも浮かれた気持ちで過ごしていた。 木曜日にT病院に回診に訪れた霧咲に『主任さん、なんだかウキウキしていますね』とワザとらしくからかわれるほどに。 何せこの週末、榛名は霧咲と亜衣乃と初めて旅行に行くのだ。楽しみじゃないワケがない。 木曜の夜に、既に準備は終えてしまっていた。それは土曜の朝早くに出発するため、金曜日は霧咲宅に泊まるからなのだが。 そして現在、金曜の夜だ。今夜は榛名が夕食を作ろうと思ったが、材料が余ったところで霧咲がそれをどうにかできるとは思えないため、霧咲の行きつけのラーメン屋へ行くことになった。榛名がそこへ行くのは霧咲と再会した時以来で、何故か少し緊張してしまった。今日は、亜衣乃も一緒だというのに。 「あー美味しかったぁ!亜衣乃、ラーメンとか久しぶりに食べたよ~」 「俺も久しぶりに来たな……。最近麺類は控えていたんだ」 「え、ダイエットですか?」 霧咲の言葉に榛名は意外だ、という反応をした。 「そんなところかな。明日は沢山食べて飲む予定だしね」 「あはは、まるで透析患者さんみたいな節制の仕方ですね」 「まあね、やっぱり人に言ってばっかりなのは悪いじゃないか?」 「まあ、それは俺も分かります」 かと言って、水分や塩分まで節制しようという気にはならないのだが。 「まこおじさんもアキちゃんもお仕事の話はやめてよぉ!明日から楽しい旅行なのにーっ!」 「あ、ごめんね」 一番目に見えて浮かれているのは亜衣乃だろうが、榛名も内心は負けていないと思った。 「それにしても、そろそろ車を買い替えないといけないな……俺のポルシェは二人乗りだし」 このラーメン屋は霧咲のマンションから少し離れた住宅街の中にあるので、今日はわざわざタクシーを利用していた。おかげで霧咲も榛名もビールを飲めたのだが、やはり贅沢なのは否めない。 「じゃあ俺が軽自動車でも買いましょうか?」 「別に君がそんなことする必要は無いよ。都内だし、一家に一台で十分だ」 「でも勿体ないじゃないですか……ブラックバードさんに憧れて買ったんでしょう?」 「まあ、そうだけど……でも、君が車を買ったら必然的に俺がポルシェで君と亜衣乃は軽に乗るだろ。一人だけ別とか、そんな淋しい目に遭うくらいなら俺が買い替えた方がマシだよ」 「俺はペーパードライバーですから、運転は誠人さんに任せますけど……」 「それでもね」 まあ、霧咲が良いと言うなら良いのだろう。それにしても、そんな理由で自慢の愛車を手放してもいいと言うことに榛名は少し驚いた。 「ミニバンでも買おうか、家族っぽく」 「え、ポルシェ乗ってた人が?似合わないですよ」 「そうかな?」 ミニバンを運転する霧咲を想像するとなんだか少しおかしくて、クスクス笑ってしまった。 まだ、本当の家族ではないけれど。それを前提に霧咲が話をしてくれることが、今の榛名には何より嬉しかった。 「まこおじさーん!アキちゃーん!タクシー捕まえたから早く来てー!」 「えっ、亜衣乃ちゃんすごい……」 「亜衣乃、運転手に姿が見えなくて轢かれたらどうするんだ!そういうのはおじさんに任せなさい!」 「だって、二人ともお話してるんだもん」 確かに危ないが、まだ小学生なのにタクシーを自然に捕まえられる亜衣乃を凄い、と素直に感心する榛名だった。 明日の旅行先は箱根の予定だ。比較的近場なのに榛名は行ったことがない。しかしそれは亜衣乃も同じのようで、ガイドブックを霧咲に買ってもらったらしく、マンションに帰ったあとは榛名と一緒に眺めていた。 「ねぇねぇアキちゃん、明日どこ行きたい?亜衣乃はねー、海賊船は絶対乗って、ロープウェイも乗って、そんでもって星の王子様ミュージアムに行きたいの!」 「へえ、海賊船とかあるんだ……湖なのに。んー、俺は温泉が一番楽しみかなぁ……観光場所は亜衣乃ちゃんの行きたいところでいいよ」 多分霧咲もそのつもりで亜衣乃にガイドブックを買ってあげたんだろうと榛名は思う。二人だけの旅行なら、きっと霧咲が完璧にプランを練ったのだろう。 榛名は、さっきからこっちを微笑ましい目で見ている霧咲の方をちらりと見た。そして目が合い、確信する。 「え~アキちゃんも温泉が一番楽しみなの?そんなのまこおじさんと一緒じゃない……アキちゃんの方が若いのに」 「亜衣乃ちゃん、大人になったら誰でも温泉を欲するものなんだよ……多分」 「それと亜衣乃は俺をおっさん扱いしすぎだ」 「だってまこおじさんはおじさんじゃない」 10歳の亜衣乃にとって、29の自分だって立派なおっさんだと榛名は思う。しかし霧咲はおっさん扱いされるのが嫌なのか、大人げなく言い返す。 「それを言うならサザエさんに出てくるカツオくん、彼はタラちゃんのおじさんだけど別におっさんじゃないぞ。伯父とおっさんを一緒に分類しないでくれないか」 「でもまこおじさん、もう38でしょ?」 「まだ38だ、まだ」 「誠人さん、もうやめましょうよ……」 なんだか必死な霧咲が少し可哀想になってきて、間に入って止める榛名だった。 * 亜衣乃を先に寝かせたあと、霧咲と榛名は二人でリビングで話す。 「暁哉、君のための旅行なんだから、行きたいところを全部亜衣乃に合わせなくていいんだぞ?美術館とか興味ないか?」 「そうですねえ……でも本当に俺は、貴方と亜衣乃ちゃんが一緒ならどこでも楽しいと思いますけどね」 そう言いながら、榛名は亜衣乃のガイドブックをペラペラと捲る。 「あ、この黒い卵とか食べてみたいですね」 「大涌谷の名物だな。亜衣乃がロープウェイに乗りたがってたから食べようか」 「やっぱり燻製みたいな味がするんですか?」 「それは……食べてからのお楽しみかな」 「ふふ、じゃあ楽しみにしておきますね」 本当に楽しみのようで、霧咲から見ても終始榛名は浮かれていた。こんな彼を見るのは初めてで、霧咲はこの先何度も旅行に榛名を連れて行ってあげたい、と思った。勿論、亜衣乃も一緒に。

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