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第161話 箱根の朝

「……あれ?」  朝、榛名が覚醒した現在の時刻はまだ5時を回ったばかりだった。隣の布団では亜衣乃がすうすうと軽い寝息を立てており、更にその向こうで寝ている霧咲は死んでいるかのように静かだ。  昨夜は早寝をしたわけではないのに、どうしてこんなに早く目が覚めたのだろう。再び目を瞑ればまた気持ちよく眠れそうだったが、頭は妙にスッキリしている。  昨日、霧咲がずっと言葉にならなかった不安を解消してくれたおかげだろうか。  とりあえずせっかく早く起きたのだから、温泉に入ろうとすぐに思い立ち、布団から出た。 「さっっむぅぅ!」  箱根の山の寒さは朝から容赦なく榛名を襲った。昨日同様に掛け湯もそこそこに、源泉かけ流しの露天風呂へと飛び込んだ。 「ふう……朝風呂とか気持ちいいなー」  昨日ここで霧咲と静かに愛し合ったが、その跡はもうすっかり綺麗に流されてしまったらしい。見える景色の所々に雪が積もっており、朝陽に反射してキラキラと光っていた。  その時だ。 「……アキちゃん」 「えっ!?」  バシャッと水音を立てながら声のした方を見ると、亜衣乃が脱衣所から顔を半分覗かせてこちらを伺っていた。 「あ、亜衣乃ちゃん!?おはよう、どうしたの?」 「亜衣乃も一緒にお風呂入っていい?」 「え!?そりゃ、俺はかまわないけど……」  10歳の壁はどうしたのだろうか。母親になると宣言したものの、自分の性別は一応、男なのだけども。 (んー、壁は誠人さん限定なのかな……?)  そう思うと、ますます霧咲が不憫に思えてくる。父親『役』と言えど、ずっと亜衣乃を育ててきたのは霧咲なのに。  そんなことを考えながら待っていると、亜衣乃はタオルで微妙に身体を隠しながら、先程の自分のように寒さに耐えながら急いで掛け湯をしたあと湯船に飛び込んできた。 「あーっ寒かったぁぁ!」 「亜衣乃ちゃん、ここ入るの初めてだっけ?」 「うん!アキちゃんもでしょ?」 「俺は昨日亜衣乃ちゃんが寝てから2回入ったから、これで3回目だよ」 「えーっ、入りすぎじゃない!?」 「そう?でも俺は温泉目的の旅行だしなー」 「ふぅぅん。アキちゃん、ほんとに温泉が好きなんだねぇ……そんなに何度もお風呂に入って楽しいの?」  小学生の亜衣乃には全く理解できないらしく、げんなりとした顔で見つめられたのだった。 「そういえば亜衣乃ちゃん、話があるんだ」 「話?なぁに?」  亜衣乃はキョトンとした顔で榛名を見た。  亜衣乃の長い黒髪は飾り付きのゴムで器用に纏められており、亜衣乃が自分で結った髪型を見る度に榛名は感心してしまう。 「俺と誠人さん……籍入れるの、少し保留することにしたんだ」 「えェ!?」 「あ、別にケンカしたとかそういうんじゃないから安心して。入れようと思えばいつだって入れられるから、別に急がなくてもいいかなって……それだけだから」 「………」  亜衣乃はぽかんと口を開けたまま、言葉が出ないようだった。自分には理解出来ない大人の事情がある、ということだけは分かっているようだが。  しかし。 「……亜衣乃がいるせい……?」 「え?」  榛名は一瞬、自分の耳を疑った。しかし亜衣乃は悲しげな表情をして、もう一度榛名にハッキリと疑問を投げかけた。 「アキちゃんがまこおじさんと結婚しないのは、亜衣乃がいるせいなの?」 「何言ってるの?違うよ!」  思わず身体の向きを亜衣乃の正面に変えると、パシャンとお湯が跳ねた。 「アキちゃん、亜衣乃のママになるのが嫌になったんじゃないの?亜衣乃は、まこおじさんのほんとの子じゃないから……」  それどころか、昔の恋人の子どもなのだから。  榛名には嫌われて当然の……。亜衣乃はそこまでは言ってないのだが、榛名の脳内にははっきりとそう聞こえた。  あまり子どもらしくない、悲しげな顔で俯いている亜衣乃を思わず抱きしめたくなったが、裸なので榛名は一応自重した。 「亜衣乃ちゃん、そんなこと気にしてたの?」 「そんなこと、じゃないよ。アキちゃん」  亜衣乃は年始に蓉子と霧咲宅を訪れた際、自分の出生について聞いていたのだろう。聞いていなければ、蓉子が榛名を殴ろうとしたあのタイミングで乱入出来るはずもない。  亜衣乃が榛名に対してずっと遠慮気味だった原因は単なる人見知りなどではなく、そのことが引っかかっていたのだと榛名はやっと理解した。  少しの間、沈黙が流れた。暫くしたのち、榛名の方から口を開いた。不用意に亜衣乃を傷付けないよう、言葉を選びながら話す。 「……亜衣乃ちゃんは、俺のこと好き?」  榛名のその問い掛けに、亜衣乃はコクンと頷いた。その反応に、榛名から自然に笑みが零れる。 「俺も亜衣乃ちゃんのこと大好きだよ。誠人さんと同じくらいね」 「……ほんと?」 「本当だよ。何回も言ってるだろ?誰の子とか関係ないよ。……それに亜衣乃ちゃんは誠人さんの娘じゃなくても、姪っ子ではあるんだし。好きじゃなきゃ家族になろうなんて思わないし、最初から言わない。まあ……お互いまだまだ知らない部分もあるから不安がないわけじゃないけど、それは亜衣乃ちゃんだって同じだし。っていうか、きっと俺よりも亜衣乃ちゃんのほうが不安だよね?男のママなんて大丈夫なのかなって」 「そんなことないよ!」 「そう?ありがとう。……でも、不安に思ったっていいんだよ。それが普通なんだから」 これは昨日、霧咲が自分に言ってくれた言葉だ。 「………」 「今回のことは本当に俺達の問題だから、亜衣乃ちゃんは何も悪くないんだ。俺達っていうか、俺の問題かなぁ」 「アキちゃんの?」 「うん。詳しい事は言えないけど……亜衣乃ちゃんがお嫁にいくとき、今の俺の気持ちが分かるかもね」 「え!?」 「ふふっ」 「アキちゃん、それって……」  亜衣乃が言いかけたその時、浴室のドアが勢いよくガラッと開かれた。そしてそこには、全裸で何故か仁王立ちの――下半身はタオルで隠してあるが――霧咲がいた。 「誠人さん!?おはようございます、よく一人で起きれましたね」  霧咲は意外と朝が弱いのだ。なので一緒に寝た日の朝は、スマホのアラームが鳴る前にいつも榛名が起こしている。 「おはよう、暁哉……それと亜衣乃、おまえ昨日俺達と風呂に入るのを嫌がっていたくせに、何で暁哉だけならいいんだ」  霧咲は榛名への挨拶はそこそこに、亜衣乃の方を軽く睨みながらそう質問した。亜衣乃は特に恥ずかしがる様子もなく、シレッとした顔で答える。 「アキちゃんはママだからいいんだもーん」 「なんだそりゃ……暁哉だって男だぞ、ああ寒い!それと目が覚めた時に知らない場所で一人ぼっちだった俺の気持ちを少しは考えてくれ二人とも!寒い!」 「さみしがりやですか」  ブツブツ文句を言いながら、霧咲も露天風呂へと入って来る。 「あーっまこおじさん、10歳の壁を壊したわね!」 「そんなもの俺には見えない。また何度でも建設し直してくれ」 「もぉぉ!」  三人が一緒に入ってもまだ余裕のある湯船に浸かりながら、これって結局家族風呂だなぁ、と榛名は思う。そして、幸せな気持ちに浸るのだった。 *  豆腐が中心の豪勢な朝食を食べて、3人は10時にホテルをチェックアウトした。今日は、昨日行きそびれた観光地と、もともと予定していた観光地へと向かう予定だ。  ちなみに観光場所をチョイスしたのは、すべて亜衣乃である。そんな彼女は榛名がチェックアウトギリギリ前にも温泉に入ってるのを見て、少々呆れ気味だった。 「アキちゃん、お風呂入りすぎぃ……身体ふやけちゃうよ?」 「え?えへへ。いや、どうにも勿体なくて」 「君がそんなに温泉好きだったとは知らなかったな……。今度の旅行は本格的な温泉巡りツアーにしようか。立ち寄り湯が多いところの」 「それ、亜衣乃が一番つまんないやつじゃん!ひとりだし!」 「まあまあ誠人さん、温泉巡りは定年後もできますから」    霧咲も榛名も、定年は関係ない職業なのだが。それに亜衣乃が自分たちの旅行についてくるのも、あと2~3年だけのことだろう。  もしかすると、その時はもっと早く来るかもしれない。  そう思うと榛名は少し寂しくなり、やはり今は亜衣乃の行きたいところを優先してあげたくなるのだった。 「ま、暁哉がそう言うなら……」  霧咲もそのことに気付いたのか分からないが、納得したように言った。  その後に『亜衣乃、転校先で旅行に同伴してくれる友達を作ったらどうなんだ』と余計なことを言い、後ろから足を思いっきり蹴られていたが。 *  昼食を交えながら、美術館を中心とした観光地を三つほど廻ると、いい時間になっていた。 「そろそろ電車の時間があるから、箱根湯本駅に戻るぞ」  霧咲が腕時計を見て言った。  亜衣乃がまだ遊びたそうな声を出して文句を言う。 「え~もう?」 「おまえはともかく、俺と暁哉は明日からまた仕事だからな。早く帰って休みたいんだ」 「亜衣乃だって学校あるもん!」 「小学校なんて休んでも誰も困らないだろう」 「大人のくせにそういうこと言う?ほんっと信じらんない!」  霧咲の言い草に榛名が注意する前に亜衣乃が呆れたので、とりあえず榛名は何も言わずに苦笑した。もちろん、霧咲は本気ではないのだろうけど。  少し後ろでそんな二人の会話を聞いていると、もっと気楽に構えててもいいのもな……と、少し気が抜けた榛名だった。 「暁哉、何してるんだ?」 「アキちゃん早くー。あの変な色のソフトクリーム食べるんでしょー?」 「あ、そうだったね」  行くときに見かけた奇抜な色のソフトクリームを、亜衣乃は諦めていなかったらしい。 「この寒い中アイス食うとか正気か……?腹を壊しても知らないからな」 「電車の中はあったかいもん。それに、まこおじさんにはあげないし」 「おまえ……誰の金で買って貰おうと……」 「今回の旅行のスポンサー、まこおじさんに決まってるじゃない!」 いけしゃあしゃあと亜衣乃は言い、霧咲はわざとらしく頭を抱えて溜息をつく。 「はぁ、育て方を間違えた……」 「気付くのおっそ!」 「はいはい、2人ともそこまでね~」  榛名は言い合いを続ける二人の間に割って入って、それぞれの手をぎゅっと繋いだ。榛名が間に入った途端に二人は大人しくなって、それぞれ頬を緩ませる。 「せっかく初の家族旅行なんですから、ケンカしないでくださいよ」 「ケンカ……ではないかな?」 「亜衣乃たちケンカなんてしてないよ、アキちゃん!」 「そうなの?」  なら良かった、と榛名はふんわりと笑った。榛名の笑顔に、霧咲と亜衣乃は少しわざとらしく笑い返す。本当に似た者親子だな、と榛名は思った。  そしてまだ東京にも帰りついていないのだが、 (いい旅行だったなぁ……)  なんて空を眺めてしみじみと思いを馳せながら、駅方面へと向かったのだった。

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