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⑥
二宮は山下から目を逸らし、氷でだいぶ薄まった酒を一口飲んだ。
「……こればっかりは説明しても分からないと思う。あいつと同じ立場だった山下としては、複雑な気持ちだろうけど……」
「…………」
「でも山下はノンケなんだから、俺とそういう事になる可能性はほぼなかったと──」
「ノンケなんかじゃないよ……」
「え?」
二宮は俯いていた顔を上げて、もう一度山下を見た。山下はどこか冷めたような瞳で二宮を見つめている。
「僕はゲイなんだ」
「え? でも、山下は結婚していて、子どもも……」
可愛い男の子が生まれたばかりだとつい先程スマホで写真を二宮に見せて、幸せそうにはにかんでいたのに。
「妻とは親同士が決めたお見合い結婚なんだ。うちは昔から親が厳しくて、カミングアウトなんかとても出来る環境じゃなかったっていうか、今まで誰にも話したことないからさ……」
「じゃあ奥さんのことは、愛してないのか?」
「一応愛しているふりはしているけど、女を抱くのは毎回ひどく苦痛だよ。彼女が妊娠してからは解放されたからいいんだけど」
「……」
二宮はさっきはとても家族想いに見えた山下の冷たい言い草に、言葉が出なかった。
「そんなに驚くこと? カモフラ婚してるゲイなんて僕以外にもたくさんいるよ。正直珍しくもなんともない。堂々と男同士で付き合ってますって宣言して一緒にいる方がおかしいだろ、こんな差別だらけの世の中でさ……。まあ、正直言うとそういう人たちが羨ましいんだけどね。でも僕は家族も会社も捨てられない弱い人間だから、そんな生き方は到底無理だったんだ」
山下の言葉は、二宮にはどれも衝撃的だった。元々ゲイじゃない二宮はそういった事情に疎いし、元々の性指向が《《そう》》なら女性との結婚なんて普通しないだろう、と表面でしか物事を捉えていなかったのだ。
「僕のコト、軽蔑した?」
「……してない、と言ったらウソになるけど。俺は山下を軽蔑できるような、立派な人間じゃないから」
冷静に考えればそういった人たちは実際にいるのだろう。それは分かる。しかし目の前の山下が実際にそういうことをしている、という事実が二宮には衝撃だったのだ。顔も名前も知らない人間の話なら、『そういう人もいるんだな』と冷めた頭で納得していたに違いない。
『――二宮くん……』
大学時代、そっけない態度の二宮にいつも甘い声で、耳触りのいい言葉だけをくれていた山下。
『二宮君、今日もカッコ良かったよ』
憶えていなかったはずなのに、何故か当時の彼の声が脳内でリフレインした。
同性しか好きになれず、でも誰にも言えなくて、周囲の望むままに好きでもない相手と結婚し、一児の父親になった山下。
山下は昔二宮に抱かれたことを全く恨んでいなかった。それどころか、いい思い出だとも言ってくれた。
自惚れじゃなくて、山下は二宮を好いていてくれたのだろう。そして二宮は酒に酔った勢いでそんな彼を抱いた。
翌朝驚いて逃げ出したという山下の存在と、自分が彼にしたことを知ったのはいったい何年越しだったのか。
「もう分かってると思うけど、僕は二宮君のことがファン以上に好きだった」
「……山下、俺は……」
「だから今、君から逃げたことをひどく後悔してるよ。僕も君の恋人みたいに責任を取ってって迫っていたら、ワンチャン付き合って貰えたのかなぁって」
「………」
そんなことは分からない。
二宮は堂島にただ闇雲に迫られたから付き合ったのではなくて、自分から堂島にキスをしたいと思ったのだから。
たとえ同じことをあのあと山下にされて、あの頃の自分がそうしたのかなんて──
考えるのは、無意味だ。
「ねえ、今からでも遅くないかな」
「――は?」
いつの間にか山下の左手が、グラスを握ったままの二宮の手の甲に触れていた。
「もう一度僕を抱いてくれない? 二宮君」
薬指のプラチナリングが、照明に反射してキラリと存在を主張している。
「――っ!?」
二宮は反射的にバッとグラスから手を離し、山下の手強く跳ね除けた。その拍子にグラスが倒れて、氷が溶けきった焼酎がカウンターを濡らした。
「あっ!」
「大変、手拭き手拭き」
山下は焦る二宮とは対照的に、冷静な態度でこぼれた焼酎を自分の手拭きと二宮の手拭きを使って綺麗に拭った。半分以上飲んでいたので被害はそんなに大きくなく、バーテンダーに「お客様、大丈夫でしたか?」と声を掛けられても二宮はいつものポーカーフェイスで「大丈夫です」と冷静に返した。
もう飲むつもりはなかったのに、山下はそのバーテンダーに『同じものをもう二つください』と二宮と自分の分を素早く注文していた。
すぐに新しい焼酎が届き、山下はくいっとそれを煽った。
「ねえ二宮君、さっきの話の続きだけど」
「断る」
「断るのが早いなぁ」
二宮はクスクスと笑う山下をぎろりと睨みつけた。
昔の自分がやらかしたことに対する謝罪ならいくらでもする。けど、愛情がないとはいえ浮気の片棒を担ぐのは絶対にゴメンだ。それこそ嫌悪している父親と同じになり、そんなことをしたら二宮は自分で自分を許せない。
それに、堂島を裏切ることは考えられない……それが一番の理由だ。
「別に女の子とするわけじゃないんだし、スポーツみたいなものだと思えばよくない? 妊娠するわけでもないんだから」
「……山下は、結婚後に何度もこういうことをしているのか?」
「そりゃそうだよ、僕はゲイなんだから。しかもネコだから抱かれないと満足できないんだ。初めて抱かれたのは、二宮君にだけど。僕が目覚めたのはあれがきっかけだよ」
「っ……」
それを言われると、途端に二宮は山下を責めることができなくなる。
若かった自分の迂闊な行いが山下の人生をも変えて、今現在山下に妻子を裏切らせているのかと思うと──
「じゃあこうしようか。もう一度僕のことを抱いてくれたら、あの時のことを許すよ。今後一切話題にもしないし、僕の大事なハジメテだけど……犬に噛まれたと思って忘れてあげる」
「……山下」
「二宮君は僕に対してすごく悪いことをしたと思ってるんだよね? でも生憎僕はちっとも君を殴りたくなんかないし、お金も別にいらないんだ。もう一度抱いてくれるだけでいい、君にとってもそっちの方が良くない? それに年下で元ノンケの君の恋人より、僕のほうが気持ちよくしてあげられると思うよ。もしかしたら今度は二宮君の方が、僕から離れられなくなるかもね」
「山下、」
「そうなってくれたら僕には嬉しい誤算だなぁ。だって僕は今でも二宮君のこと――」
「山下!!」
二宮は強めに山下の名を呼んで立ちあがり、『それ以上喋るな』と言わんばかりに上から睨みつけた。
「お、お客様、どうしましたか?」
「……………チェックお願いします」
今にも喧嘩が始まりそうな雰囲気を察したのか、すぐにバーテンダーが来た。二宮は山下からプイッと目線を外すと、自分の分だけ会計を頼んだ。三次会は貸切じゃないので、各自飲んだだけ自腹で払うことになっているのだ。
すると坂口が慌てた様子で二宮のところに飛んで来て、「おい二宮、何があった?」と尋ねる。しかし二宮は坂口に何も言えず、貝のように黙って踵を返し、早歩きで出口へと向かった。
「──今の声って二宮か? あいつあんな大声出せたんだな~」
「山下もどうしたんだろうな、あいつら仲悪かったっけ……ていうか友達だったっけな?」
「親友とバンド仲間が自分の結婚式の三次会でケンカとか、仁科のやつが気の毒だな……」
「――二宮君、また連絡するから」
店を出る直前、知人たちの声の中から山下の声を背中で拾ってしまったことを、二宮は後悔した。
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