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⑮
山下は何も言わず俯いて、妻と二宮の会話を聞いている。反論があればそのうち口を開くだろうと思って、二宮は敢えて山下を無視した。
「どうしてその……、かなり差し出がましいですけど、普通は離婚を選ぶんじゃ?」
「私、セックス自体そんなに好きじゃないので。夫がしたくなければしなくても全然いいですし、余所で発散してくれるならそれで構わないんです。今はこの子のことしか考えられないですし」
「はあ……」
(別に夫がゲイでも構わないということか。女と浮気されるよりはマシ、みたいな感じか? それにしたって……)
夫婦揃って潔すぎるだろ、と思った。ある意味すごくお似合いなような……。
「──二宮さんには今、恋人がいらっしゃると聞きました」
「あ、はい」
「なのに夫がしつこく迫って申し訳ありませんでした。今日はそれを謝りたくて来ました」
どうやら山下の妻はかなり話の分かる人物らしい。特に変な誤解はしていないようだし、二宮のことを疎ましいと思っている様子もない。山下がすべて正直に話したというのには驚いたが。
――でも、だからと言って今回のことを『ああ良かった』で終わらせられるとは思っていない。二宮は昔、山下に酷いことをしたのだ。自分がやらかしたことをずっと知らずにいたツケを、今払っているのだから。
「あの、俺は昔……」
「二宮さんが夫に引け目があることは分かっています。それをネタに、夫が貴方を脅したことも」
「!」
「あなた……、」
何故か妻に促されて、山下はそっと口を開いた。
「二宮君、ごめんなさい……」
「?」
「僕はずっと……一方的に君にやられたみたいな言い方をしていたけど、本当は……あの夜に君を誘ったのは、僕の方なんだ」
「え!?」
二宮の目が点になる。多分これは坂口も知らない、山下だけが覚えているあの夜の真実なのだろう。山下は涙をこらえながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「あの日はライブの打ち上げで……二宮君は初めてウイスキーを飲んだみたいでひどく酔っぱらってて……坂口君でも手に負えなくって、僕は片づけを手伝う体で残ったんだ。最後に飲んでたのは二宮君の部屋だったし、こんなチャンスは二度とないだろうと思って。……なかば冗談で『僕を抱いてよ』って言ったら、本当に抱いてくれたんだ。二宮君は面白半分だったと思うし、気持ちよくはなかったけど……本当に嬉しかった。でも次の日冷静になって、二宮君はゲイじゃないからもし覚えてたら絶対嫌われると思って、怖くなって僕は逃げだしたんだ……」
「山下……」
そうだったのか。しかし同意だったにせよ、やはり酷いことをしたのは間違いないらしい。頼まれたとはいえ、面白半分で山下の処女を奪ってしまったのは最低だ。二宮はがっくりと肩を落とした。
「僕も酔ってたし、同意だから二宮くんに落ち度はないよ。……なのに僕は、もしかしたら二宮君が気にしてくれるかもしれないと思って坂口君に嘘を吐いたんだ」
「そうだったのか……」
山下の最大の誤算は、坂口があの夜に起こったことを一切二宮に言わなかったことだろう。ただ『今後一切ウイスキーは飲むな』と忠告しただけで。
その心中は不器用な友人を思ってか、単に面倒ごとに巻き込まれたくなかったのかは分からないが。もし相談したのが坂口ではなくて仁科だったのなら、また過去は変わっていたのかもしれない。
「だから二宮君は何も悪くない。悪いのは卑怯だった僕だ……」
「いやでも、俺は多分ひどくしたと思うし……お互い様だろ?」
そう言ったら、山下はクスッと笑った。目のふちに涙が溜まっているのか、照明に反射してキラッと光った。
「やっぱり二宮君は優しいな。態度はぶっきらぼうだけど、昔から優しい……」
「……悪いけど俺、お前にそんな優しくした記憶ないぞ?」
むしろ適当にあしらっていた記憶しかないのに、そんなふうに言われるとなんだかひどく心が痛む。自業自得だが。
「君が覚えてなくても僕は覚えてるよ。大学生にもなって知らない人からカツアゲされかかっていた僕を、通りかかった二宮君がサラッと助けてくれたり……僕はタバコを吸わないから、吸うときはわざわざ遠くに行ったり」
「……」
そんなことがあったのかもしれないが、やはり記憶にない。煙草に関しては、最低限のマナーだと思っているだけだ。
「でもやっぱり、ベースを弾いてる姿が一番カッコよかったな……。僕、毎回最前列にいたの覚えてる?」
「それは……まあ」
「君が気まぐれに投げてくれたピック、今でも大事に持ってるよ」
「マジか。なんか恥ずいな……プロでもねぇ癖にそんなマネして」
「ふふ」
二宮はちらりと山下の妻を見た。彼女は意外にも、夫の昔話を微笑ましいと言った様子で聞いている。そろそろ本題に戻らなければならない。
「えっと……離婚をしない、というのは分かりました。でも、奥さんはそれでいいんですか? あ、もちろん俺たちは付き合いませんけど!」
山下は今度も別の男と浮気をするだろうし、妻公認だとしても――本当にいいのか二宮にはさっぱり理解できなくて、しつこく聞いてしまった。
「あの、おかしいと思われるかもしれませんが……お見合い結婚でしたけど、私この人のこと、凄く好きなんです」
「!」
「え……!?」
二宮以上に驚いた反応を見せたのは、山下だった。いつもそんな様子は見せないので信じられない――と言った風な表情だ。
「子供もまだ小さいですし、今私は働いてないのでシングルマザーになるのも抵抗があって……たとえ私自身は愛されてなくっても、この人、この子のことはすごく可愛がってくれてるんですよ」
「あ……」
山下の視線が、すやすやと眠っている赤子へと注がれる。二宮に写真を見せてくれた時といい、自分の子どもを大事に思っているのは疑いようがなかった。簡単に『二宮のためなら妻子を捨てられる』なんて言っていたが、きっとその場の勢いで本心ではなかったのだろう。
「凄く優しいですし、私の体調がすぐれないときは仕事帰りでも残っている家事をしてくれるし……本当、誰もが羨むような理想の旦那様なんです。私を愛せないことを悪いと思って、無理にそう振舞ってくれているのかもしれないですけど……」
「……」
「それでも子どもに父親はいてくれたほうがいいですし、普通の夫婦みたいにはなれないかもしれませんけど、せめて友人みたいな――そんな関係を、これから築いていきたいんです。だから、離婚には同意しません」
妻の言葉を聞いて、二宮は胸が熱くなった。山下はボロボロに泣いて、小さく『ごめん』と繰り返していた。
*
結局夫妻は何も頼まず、居酒屋を出た。どうやら車で来ていたらしく、二宮も家の近くまで送ろうかと言われたが丁重にお断りした。
山下が子どもをチャイルドシートに乗せて、妻は助手席に乗り込む。運転席の隣で、二宮と山下は最後に立ち話をした。
「二宮君……また、会ってくれる? もちろん、これからはただの友人として……」
「いいけど、二人では会わねぇぞ。会うときは仁科夫妻と、坂口カップルと、お前たち家族、そして俺の恋人も同伴だ」
「大所帯だね……」
「夏になったらバーベキューでもするか」
「二宮君がバーベキューって似合わないな……」
「分かってるけどほっとけ。坂口がそういうの得意だから頼もう」
「うん……」
二宮はまだ友人二人にカミングアウトしていないし、山下の子供はまだ小さいし、仁科たちは新婚だから、その日はずっと来ないかもしれない。
でも、先のことは誰にも分からないのだ。
会話が途切れ、山下が車のドアに手を掛けた。その後ろ姿を見ながら、二宮はぼそっと言った。
「俺からこんなこと言うのは、どうかと思うけど……」
「え?」
「幸せになってほしい、山下」
「……ッ、にのみや、くん……」
「じゃあな」
山下はコクンと頷き、目を擦りながら運転席へと乗り込みエンジンを掛けた。二宮は少し場所を移動して、山下の車が夜の街へ遠ざかっていくのをじっと見つめていた。
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