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prologue
「なぁ、オメガと、アルファと、ベータ。どれになりたい?」
香乃 理人 は、芝生の庭に寝転ぶ親友・夜神 景 にそう尋ねた。
すると景は重たげに閉じていたまぶたを開き、鮮やかな蜂蜜色の瞳をくるりと理人に向けた。
恥ずかしくて言葉にはしないけれど、理人は景の目が好きだった。はっきりとした二重まぶたを縁取るまつ毛は艶やかだし、瞳は宝石のように綺麗な色。その眼差しを受け止めるたび、どういうわけか心が浮つき、少し気恥ずかしくなってしまう。
黒髪に黒い瞳という、いかにもパッとしない容姿の自分とは違い、景の美貌は学内外でも評判だ。しかも景は成績も良く、スポーツもよくできる。だが性格の方は若干トゲトゲしたところがあり、街で絡まれれば喧嘩もする。そういう荒っぽい評判から、下級生からは恐れられているらしい。
だが理人と二人でいるときは、景は少しおとなしい。施設育ちという理由で理人が馬鹿にされていると、決まって景が助け舟を出してくれたりもする。
どうして、景が自分みたいな親なしと一緒にいるのか、理人にはよく分からなかった。だが、たまに二人きりで過ごす時間は心地よく、とても楽しい。景も、きっと自分と同じ気持ちでいてくれているのだろうと思うと、誇らしいような、むずがゆいような気持ちで、不思議と胸が弾んだ。
青々とした芝の上で一つ伸びをすると、景はひょいと起き上がった。制服のハーフパンツから伸びる二人の脚を眺めつつ、景は物思いにふけるようにひとつ唸る。
「父さんと母さんは、アルファがいいと思ってるみたいだけど。……俺はよく分からない」
「……そうだよなぁ」
「なんで、急にそんなこと聞くの?」
理人は口を閉じ、つい先日起こった出来事を反芻した。
同じ施設で育った仲間の一人が、アルファであるということが判明したのである。
理人が暮らすのは、児童養護施設『光の園』。親のいない子どもたちたちが生活をともにする、小さな施設だ。田舎町の片隅にあるこの施設からアルファが現れるのは、かなり稀なことだった。
アルファと判明したほんの数日のうちに、その仲間は『光の園』から去っていった。なんでも、子どものない裕福な家庭に引き取られたというのである。
アルファは裕福な家庭の養子となり、ベータはそのまま『光の園』で十八歳まで過ごす。そしてそこから、自立の道を探してゆく。
一方、オメガだと判明した場合、その子どもはオメガ専用の保護施設に移されることとなる。オメガは唯一、アルファの子を産むことができる身体だ。だが相対的に人数が少ないため、大切に保護されている。
その施設は、まるできらびやかな宮殿のようなところであるらしい。行動を制限されることもなく、進路や学びに関しても本人の意思が最優先され、いくらでもやりたいことをやらせてもらえる。きめ細やかに整えられた環境ゆえに、そこは世間から、『温室』と呼ばれている。
だが『温室』育ちのオメガには、心の自由はないときく。
彼らは、いつか優れたアルファの番となるために、『温室』で育てられているのだ。磨き抜かれた知性も、教養も、肉体さえも、いずれ迎えに来るアルファのためのものなのだ。妙齢のアルファ達が『番』を選ぶためにやって来て、一方的にオメガを選別し、『番』にすべく連れていく――『温室』とはそういう場所だ。
そういった話を、今日、理人は授業で聞いたばかりなのだ。
自分がオメガだったなら、どんなに心細いことだろう……と、理人は妙に不安な気持ちになり、心がざわついて仕方がなかった。十二歳になったばかりの理人にとって、第二性の決定は、遠いようで、近い未来の話である。すぐそばで寝起きを共にしていた仲間がアルファと分かり、どこか遠くへ連れて行かれてしまったという出来事は、理人をひどく落ち着かない気分にさせている。
「なるほどね〜……」
理人のそんな話を聞き、景は白魚のような指で自分の顎を撫でた。瞳と同じ色の艶やかな髪の毛が、初夏の風を抱いてふわりと揺れた。
施設育ちの理人とは違い、景は由緒正しき家柄の子息である。夜神家は代々、アルファを多く輩出する家系であり、長きにわたって政治と経済の中心に関わり続けている。そして当然のように、景にもそれが期待されている。
景のそういう事情も、理人はそろそろ理解できる年齢になっていた。
精神的にはまだまだ幼いところが多いけれど、勉学を好む理人は、施設出身ながらもこの名門校に通っている。高校までの学費は全て免除されているため、親はなくとも未来は広く開かれているのだ。
「で、理人はどれになりたいの? ま、なりたいっていっても、望んでなれるわけじゃないけどさ」
「んー……よく分かんないけど、オメガって色々大変そうだし、オメガは嫌だ」
「そうは言っても、アルファが楽とは限らないじゃん?」
「んー……そっか、そうだよな。じゃあ、ベータかな」
「そうだなぁ、ベータになるのが一番平和かもね。フェロモンだなんだっていう訳わかんないものに振り回されないで済むし」
「そうだね。うん、ベータがいい。ベータになりたいなぁ、俺」
理人がのほほんとした声でそう言うと、景は白い膝小僧の上に肘をつき、どことなく意味深な目つきで理人を見ている。理人は目を瞬いて、小首を傾げた。
「え、なに?」
「でもベータだとさ、アルファやオメガと家族にはなれないんだぞ」
「え? うん、そうだよな。ベータはベータ同士でしか結婚できないんだもんね」
「じゃあもし、俺がアルファかオメガだったら、どうするの?」
「……へ」
質問の意味が分からず、理人はきょとんとして景を見つめた。
景は唇をかすかに歪ませて笑みのような表情を作ると、白い手を、そっと理人の膝の上に乗せる。そしてもう一度、「どうすんの?」と口にした。
「どっ、どうするって……それ、ど、どういう……?」
見慣れない景の目つきに、どういうわけか胸がドキドキと高鳴った。理人が戸惑いのあまり目をぱちぱちさせていると、景がぷっと吹き出して、腹を抱えて笑い始めた。
「はっ!? な、何だよ! 何笑ってんだよ!?」
「あはははっ……、ううん、なんでもない。なんでもないよ」
「つーか、何なんだよさっきの質問は!?」
「別に。ちょっと聞いてみただけ」
「はぁ〜!? 一人でげらげら笑っちゃってさぁ、感じ悪っ!」
むきになる理人を相手に、景は肩を揺すって可笑しげに笑っている。理人はむうっと頬を膨らませて、笑い続ける景の肩をばしばしと叩いた。
「ごめんごめん。だって、あんまりにも間の抜けた顔してるから」
「誰がマヌケだ!」
「痛い、痛いってば! もう、ごめんって言ってんだから叩くのやめろ」
「うるさいうるさい!」
そうして押し問答をしていると、いつもの喧嘩になってしまう。景のジャブを避けようとした拍子に、理人はバランスを崩してしまった。景の拳を握りこんだままだったため、ふたりは一緒になって後ろにひっくり返ってしまい……。
――あ……。
思いがけず、景に押し倒されるような格好になってしまった。
ざぁっと吹いた強い風が、傍にそびえる木の樹冠をざわめかせ、景の栗毛を乱してゆく。
蜂蜜色の澄んだ瞳が、じっと理人を見下ろしていた。その眼差しがあまりにもきれいで、まっすぐで、理人は景から目を離すことができなかった。
すると景が、ゆっくりと瞬きをした。そしてほんのりと寂しそうな色を瞳に浮かべ、硬い口調でこう言った。
「俺は、今のままがいい。アルファとか、オメガとか、ベータとか……そんなの分かんなくていい。今みたいな生活がずっと続いて欲しい」
「で、でも……もうすぐ俺たちにだって、第二性が出てきて……」
「……分かってる。分かってるんだ。でも俺は」
「?」
「俺は、理人と……」
景はふと口を噤み、ぎゅっと唇を噛み締めた。数秒ののち、景は何かをこらえるような表情を浮かべて、すっと理人の上から身体をどけた。
不思議と騒がしい胸を押さえつつ、理人はゆっくりと起き上がった。景は体育座りをして、数十メートル先に佇む煉瓦造りの学び舎の方へ視線を向けている。
「景……?」
「あ……予鈴。教室戻らなきゃな」
景に声をかけようとすると同時に、のびりとしたチャイムが鳴り響く。こっちを向いた景の表情は、普段と変わらないように見えたけれど。
――景は、どうしてあんなことを言ったんだろう……?
胸に浮かんだかすかな疑問は、いつでも解消できると思っていた。
今日の帰り道でも、明日の休憩時間にでも、景と話をして、何を考えているのか聞いてみればいいのだと。
だが、その疑問を、理人は景に問いかけることはできなかった。
翌日、景は忽然と、この街から姿を消した。
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