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1、国の方針
番を失ったオメガの末路なんて、ロクなもんじゃない――
オメガに生まれなかった人間たちは、皆、笑い話のようにそんなことを口にする。
アルファにとっても、ベータにとっても、オメガにまつわる悲劇は、所詮すべて他人事だからだ。
良い番に恵まれて、幸せに生きるオメガたちにとっても、おそらくは他人事。
理人は震える腕を伸ばしてベッドサイドに放置されていたペットボトルを掴む。こぼれた水でシーツが濡れるのもかまわず、貪るように水分をとった。
今日も今日とて、身体が渇いてひどく苦しい。寝起きの気分は特に最悪だ。悪夢から醒めようとも、現実もまた悪夢の続き。鉛での飲み込んでしまったかのように重たい身体、霞みがかったように冴えない頭、そして、奈落のような気分の落ち込み。激しい自責の念に囚われて、苦しさのあまり叫び声をあげたくなる。
『番を失ったオメガは、重いストレスによって心身を蝕まれる』――オメガの性質について、子どもの頃にそう習った。まさか自分がそういう目に遭うなんて、思ってもみなかったけれど。
「……薬……どこ。飲まなきゃ……」
ぶるぶると震える指先で、白い錠剤をフィルムから外す。うまく動かない指先に苛立ちっていると、薬が床に転がった。埃っぽいフローリングに膝をつき、貪るように錠剤を口に放り込む。喉を流れる生温い水は、どういうわけか血の味がした。
薬なんて気休めだ。薬なんかで、この泥のような最悪の気分と、腹の底から湧き上がる渇きを、癒せるはずがない。
身体は今も求めているのだ。今は亡き、番のぬくもりと、甘い甘い体液の味を。
たとえそこに愛はなくとも、一度結ばれた番の結びつきは、オメガの魂の奥底にまで根を張るらしい。
「ぷはっ…………はぁっ…………」
カロン……とフローリングの床にからっぽのペットボトルが転がった。理人は再びベッドに倒れ伏し、薄ぼんやりと明るくなり始めた部屋の中を、ただただ呆然と眺めていた。
散らかり放題の、汚い部屋。昔はそこそこ綺麗好きだったのに、今はまるでゴミ屋敷。
腕をあげることさえ億劫なほどに身体が重く、何をする気にもなれない。散乱した衣服、コンビニの袋、酒の空き缶……。床のそこここにはふわふわと埃が漂って、汚くて、見苦しい。
それも、今はもう、どうでもいい。
あの人が死んでから、もうどれくらい経っただろう。
――どうして、どうして……どうして……?
問いかける相手はもはやなく、理人の疑問はただただ空を彷徨うばかり。考えれば考えるほど、全て自分が悪かったのではないかという気持ちに苛まれる。
――俺がもっとちゃんと、あの人を愛することができていれば、これとは違う形の未来があったのだろうか。
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「……おはようございます」
「あっ……おはよう。香乃くん、今日は大丈夫?」
「大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
「いいんだよ。……その、身体辛くなったら、いつでも休んでいいから」
「……すみません」
デスクの斜め前に座る上司に愛想笑いを見せ、貸与されている白衣を羽織る。
香乃 理人 は、二十七歳のオメガだ。
綾世総合病院の臨床研究部で、発情抑制剤の研究開発に携わって、五年になる。
研究室に加わった年から、理人は順調に研究成果を積み上げていたし、所内での評価も上々だった。何もなければ、理人はとっくに昇進し、開発チームの中心となって研究に関わっていたことだろう。
だが一年前。理人の番は、突然事故で亡くなってしまった。
そして、理人の昇進話とキャリアは、あっけなく途絶えた。
番を失ったことで、理人は心身ともに不安定な状態になり、まともに働ける状態ではなくなったからだ。
オメガとアルファの番契約は、アルファの方から解除が可能である。その場合、契約を破棄されたオメガは、もう二度と新たな番を作ることができない。だが発情 はなくならず、番を得ることも出来ぬまま、アルファを欲する身体を持て余さなければならなくなる。
しかし番が死を迎えた場合は話が別だ。番と死別した場合、オメガは再び、番を得ることが可能になる。うなじに刻まれた噛み跡が消え、心身の状態が快癒すれば、番を得ることができるようになり、安定的な関係性が築けるようになるという。
だがそれは数年後か、数十年後か……そうなるまでの期間には個人差が大きく、結局、新たな番を得ずに死んでゆくオメガが大多数を占める。
番を失ったオメガの大半は、心身を深く病むからだ。それこそ、己の半身を無理矢理引き千切られてしまったかのように。そこから完全に立ち直れるものは数少ない。大なり小なりの不調を抱えながら、社会生活を送ることを余儀なくされる。
かつては『棄てられたオメガ』という不名誉なレッテルを貼られ、虐げられる存在となる者が多かった。そういったオメガを集め、『発情中のオメガとセックスできる』、という下品な売り文句を使い、荒稼ぎをしていた集団がいくつもあった。そこで身も心も磨り減らされ、壊れていくオメガもたくさんいた。『棄てられたオメガ』の末路は、総じてひどいものであったのだ。
だが、十五年ほど前にオメガ保護法が施行されて以降は、番を失ったオメガは十分にケアを受けることができるようになった。人権を無視した悪徳業者らも、今はすっかり根絶やしにされたと聞いている。だが理人が知らないだけで、密かにそういう集団は今も存在しているのかもしれない。
しかし、いざ番を失ってみて、理人は思う。別に、虐げられるのもいいかもしれない……と。
何をする気にもなれず、ただ漫然と日々が過ぎてゆくのを待つばかり。なのに、唐突に湧き上がるヒートからは逃れられない。今はもう存在しない相手を思い、泣きながら自分を慰めるあの虚しさ……。嵐のような欲求が去ったあとの、虚しさと寂しさ、そして言いようのない喪失感で、理人は何度となく死を思った。
それならばいっそのこと、身売りでもなんでもしてしまえばいい。それで金がもらえるなら、それでいいじゃないか……そんなことを自然と考えてしまう程度には、理人は自暴自棄になっていた。
墜ちることなく踏みとどまれたのは、国の制度によって半強制的に課せられているカウンセリングのおかげかもしれない。理人が家に引きこもっていても、国から派遣されたカウンセラーが自宅にまでやってくる。オメガはただでさえ人数が少ない。国としても、生殖能力のある若いオメガを放置したくはないのだろう。
生きる意味を見失っている理人 を、力づくで生かそうとする国の方針に、最初は抵抗を感じていた。
だが、救済プログラムを受け始めて一年。
助けてもらっている、とは思う。だが同時に、放っておいてほしいという気持ちも、やはり今も強く感じる。
矛盾だらけの感情に支配されながらも、理人は今も、たった一人で生きている。
理人の場合は契約破棄ではなく、唐突な番の死。それを理人は、いまだに受け止めきれていない。
半ば形式的に結ばれた番の契約でも、五年も共に暮らせば情は湧く。三ヶ月に一度訪れる発情期も、番に深く慰められてきた――
ようやく、愛情を返したいと思えるようになり始めていた。
あまり自分のことを多く語らない番のことを、理解できるかもしれないと思い始めていた矢先のことだった。
「……はぁ」
理人はため息混じりにデスクにつくと、暗転しっぱなしのパソコンの電源を点けた。
唐突に訪れたヒートのせいで、一週間自宅休養していたのだ。
臨床研究部にアルファはないない。主に、頭脳明晰なベータたちが研究開発に携わっている。そういった意味でも気楽だし、周囲の気遣いはありがたい。仕事に出てこれたりこれなかったりの理人を放り出さず、今も同じ給料で雇い続けてくれるこの職場には、感謝しかない。
――でも、そろそろやばいよな。早く治さなきゃ……。このままじゃ、研究室にいられなくなるかもしれない。
番を失って以来、理人はまともな成果を上げることができていない。カウンセラーや上司からは『焦らなくていい』と言われているものの、理人は基本的に真面目な男だ。ろくに満足のいく仕事もできていないのに、以前と同じ待遇を享受し続けていることに、罪悪感を感じずにはいられないのである。
「はぁ…………」
再び深いため息をついていると、斜向かいのデスクを使うベータ女性・菅田結以が、ファイル片手にキビキビと戻ってきた。彼女は研究助手の職に就いており、いわば理人の部下にあたる人物である。
この一年、彼女には迷惑をかけっぱなしだ。文句を言われたことはないけれど、普段から常に無表情な彼女の顔を見ていると、なんだか責められているような気分になるのも事実である。まともに菅田の顔を見ることも難しく、理人は背筋を伸ばしてメールを確認し始めた。
だが、菅田は理人の動揺など気づく様子もなく、ハキハキと声をかけてきた。
「香乃さん」
「……え? 俺?」
「あなたの他に、香乃さんという方はおられません。院長先生がお呼びですよ」
「あ、うん、そうだよね〜……。すぐに行きます」
「そうしてください」
理人は白衣の襟を正して立ち上がり、ついに解雇を言い渡されるのではと恐怖しながら、研究室を後にした。
◆◇新連載開始のご挨拶◇◆
こんにちは、餡玉です。
本日より、新連載を開始しております。
以前から「書いてみたいな〜」と思っていたお話なのですが、いかんせんテーマが薄暗い(;´・ω・)その上、読者様によっては、地雷原かもしれないようなお話です。
なるべく湿っぽくならないようにと思っています(作者自身の精神衛生のためにも)ので、もしよろしければ、まったりお付き合いいただけると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします〜。
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