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2、綾世院長の言葉

  「失礼します……」  院長室に入ると、大きな窓を背に置かれたデスクで、一人の男がゆっくりと顔をあげた。ノンフレームの眼鏡をスッとおろし、肩につくほどのさらりとした髪をさっと搔きあげているのは、この病院の院長・綾世律である。 「香乃くん、具合は? まぁ座って」 「……はぁ、すみません。失礼します」 「何謝ってるの。さぁ」  勧められた応接セットのソファは、しっかりとした皮張りのソファだ。座ってもあまり沈まず、しっかりと身体を支えてくれる。今の理人には、居心地のいい椅子だった。  しかも、院長が直々に紅茶を淹れてくれているではないか。理人はしきりに恐縮したが、綾世は「まぁまぁ」とにこやかで、飄々としたものである。  確か、年齢は三十五、六であるはずだ。年齢の割に若く見えるが、綾世の全身を包み込むどっしりとしたオーラには、そこはかとなく安心感をくすぐられる。この若さでこれだけの大病院を経営し、多くのスタッフを抱えているにも関わらず、こうして一研究者でしかない理人にまでお茶を勧めてくれる鷹揚さには頭が下がる。  テーブルの上に並んだティカップを手にして、理人は「ありがとうございます」と丁寧に礼を述べた。 「あ、そうそう。君が四年前に開発した抑制剤、来月から市販されることになったよ。おめでとう」 「え……あ、そうなんですね。ありがとうございます」 「大学時代の研究が、こうして形になったんだ。素晴らしいことだね」 「はい……おかげさまで。この病院の研究設備がなければ、きっと夢物語で終わっていたと思います。ありがとうございます」 「まぁ、うちには強力な後ろ盾があるからね。秀でた研究には、いくらでも金を出してくださるんだ。実際、君の開発した新薬で、多くのオメガが安定した生活を送れるようになるだろう」 「……はい」  開発した当人が、今は底なしの情緒不安定だけどな……と、理人は内心そう付け加えた。  理人は学生時代の全てを、『突発的かつ急速なフェロモン放出を速やかに抑え、かつ、薬効をより長く持続できる抑制剤の開発』に注いでいた。  従来品にも、予定外に起きたヒートを抑えるものはいくつかある。タブレットや粉薬を頓服し、一時的にヒートを抑え、その間に身の安全を確保するというものだ。  だがその効果は一時的であり、個人差がとても大きい。しかもかなり高額とあって、一般庶民の中で暮らすオメガの中には流通しにくい薬であった。  だが理人の開発したものは、従来品の三分の一までコストを削減することができた。これまでよりもかなり低価格で提供できる。その成果を期待され、かなりの研究費を投じてもらえたのだ。  それがようやく、薬を必要とする誰かの手に届くのかと思うと、ここ一週間の鬱々した気持ちが、ようやく上向きになってくるように感じた。  呼び出されたのは、その件についてだろうか。和やかに研究の話をしている綾世の表情をちらりと窺い、理人はカップに口をつける。 「ちなみに、僕は君を解雇するつもりなんかないから、安心してください」 「……ぅぐっ、げほっ!!」  まるで心を読んでいるかのように、綾世は表情も変えずにそう言った。紅茶に噎せている理人をニコニコと見守りつつ、綾世は優雅な動きで紅茶を飲んでいる。 「顔色があまり良くないね。カウンセリング、ちゃんと受けてますか?」 「あ……はい、一応……」 「一応、ね。薬は飲んでる?」 「ええ、飲むとだいぶ気分が楽になるので。でも最近は、薬に依存しすぎているような気がしていて……」 「今は依存したっていいですよ。徐々に量を減らしていけば、うまくやめられる薬です。今はそうして、君がちゃんと生き延びていてくれることが、大事なことですよ」 「……はい」  ありがたい言葉なのだろうが、若干生に関して億劫になっている理人にとって、その台詞はやや心に重いものだった。ふとおし黙る理人の反応を見て、綾世はゆっくりとした口調で、こう付け加えた。 「君は優秀な研究者です。僕は、君を放り出すつもりはありません。働きながらでも、ゆっくり治療を進めて行きましょう」 「……あ……はい。ありがとうございます」 「それに、同じオメガとして、君が人々に貢献する仕事で成果を挙げていることを、僕は誇りに感じていますよ」 「はい……僕もです」  そう、綾世律はオメガでありながら、大規模な総合病院を動かしている。噂によると、彼に番はいないらしい。こんなにも優秀で見目麗しいオメガであるのに、どうして独り身なのだろうと、病院中のスタッフが疑問を抱えている。  優秀すぎて、アルファのほうが引け目を感じるのだろうか……と、理人はちょっと首をひねった。  +  綾世と話したおかげか、その日は仕事が捗った。    といっても、溜まっていたものを処理しただけだ。だが、自分の手でサクサクと仕事が片付いていくのは、単純に気持ちがいい。このままこの調子でいられるのなら、どんなにいいだろうと理人は思う。 「香乃さん、明日の会議は出られそうですか?」 と、無表情の菅田に訊かれても、今は不思議と責められているような気がしない。理人は微笑んで、「ああ、大丈夫。資料まとめてくれたんだね、ありがとう」と礼を言った。 「……いえ。では、お先に失礼します」 「はい、また明日」  理人の調子が良かろうが悪かろうが、菅田は全くもっていつも通りだ。キビキビと帰宅していく菅田の後ろ姿を見送って、理人はもう一度パソコンの画面に向き直った。  その時、ぴこん、と音がした。画面の端に置いてあるメールソフトのアイコンに、通知マークが灯っている。何の気なしにメールを開いて、理人はちょっと、息を飲む。  この一年世話になっている心療内科医からの、予約確認メールである。 「……はぁ……またか」  医師との面談および、カウンセリング。ここ最近頻度は減ってきているものの、それでも二週間に一度は呼び出される。これをブッチしようものなら、自宅にまで押しかけてくるという始末なのだ。あちらも仕事で、国からの命令でそうしているのだとは分かっているが、彼の名を見ると何となく、気持ちに翳りが生まれるのもまた事実だ。  ――俺はいつ、この感情から解放されるんだろう……。  それは当分無理だろう、当たり前だ。と、頭の片隅でもう一人の自分が囁く。  一生を心を病むオメガもいるというのだから、一年やそこらで気が晴れるわけがない。それに加え、理人の番の事故死については、まだ明確な解決をみていないのだ。  理人の番は、普段は立ち寄らないはずの場所で、車ごと崖下へ転落していた。それは地元の人間でさえ近づかない辺鄙な場所だった。そのせいもあり、車と遺体が発見されたのは、事故後二日経ってから。遺書もなく、他殺か事故か、はたまた自殺か……それさえもはっきりしていない。  彼が亡くなった直後、何度も刑事に事情を聞かれた。暗に自分が疑われ、責められているような気分になった。  そして実際、事故の直前、番と言い争いをしてしまったこともまた事実だった。  それが何らかのトリガーとなってしまったのかもしれない、自分が何かいらぬことを言ってしまったから、番は死んでしまったのかもしれない……という不安が募り、罪悪感に苛まれ、理人の不調は加速した。 「……はぁ……」  人気のなくなった研究室の中で、理人は顔を覆った。  今夜も一人で眠るのかと思うと、家に帰るのが、何だか無性に恐ろしかった。

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