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3、見覚えのある瞳
「……乃さん」
「……」
「香乃さーん、大丈夫?」
「あっ……はい、すみません」
ぼうっとしていた。
視界に映るのは、温かみのあるクリーム色の壁紙と、白いソファ。
ここは、綾世総合病院の中にある心療内科である。救済プログラムを受ける上で、対象者は自ら病院を選択することができる。そこで理人は、迷わずここを選んだ。おかげで職場や自宅からの行き来も楽なのだ。
ちなみに、少し受付から再三理人の名前を呼んでいるのは、顔馴染みのベテラン女性看護師・久坂だ。ちなみに彼女はベータである。
ここは完全予約制で、普段から他の患者と合わせることは少ない。そして今日は診療終了時間ギリギリであったため、待合室は理人一人きりである。
診察を先延ばしにすることも面倒だったし、まっすぐ帰宅することにもなんとなく抵抗があったため、理人はその日のうちに診察の予約を入れたのだ。
「お薬出てますので、もらって帰ってね」
「はい、ありがとうございます」
「顔色、あんまり良くないね。ちゃんと食べてんの?」
「んー……まぁ、できる限りって感じですかね」
理人が苦笑しながらそう言うと、久坂はため息を吐きながら受付のカウンターに肘をつき、やれやれと首を振る。
「プログラムで家事代行サービスも受けられるでしょ? もっと人の手を借りていいんだから、ご飯くらいちゃんと食べなさいな」
「んー、まぁ、分かってるんですけど。家に他人が来るってのも、なんとなく、ちょっと……」
「そう……。まぁ、分からなくはないけど……。たまには友達と外食してみるとかさ、できるようなら気晴らしに出かけて見てもいいんじゃないの?」
「友達かぁ……」
「友達いないの?」
「いや、いないことはない……けど。みんなに気を遣わせるのも気が引けて」
「やれやれ……ほんっと真面目だねぇ」
久坂はもう一度盛大にため息をつき、どん、とカウンターの上に保冷袋を置いた。理人が面食らっていると、久坂はぶっきらぼうな口調でこんなことを言った。
「息子の夜食、いっぱい作りすぎたのよ。持って帰って食べてちょうだい」
「え……いいんですか?」
「いいのいいの。あ、ほら、薬局閉まっちゃうよ! さっさと行って行って!」
「あ、ありがとうございます」
保冷袋を抱えつつぺこりと頭を下げると、久坂は丸い身体で窮屈そうに腕組みをしてにんまりと笑った。すると、自然と理人の顔にも笑みが浮かぶ。
何となく、心の奥が軽くなったような気がした。
+
薬を受け取り、中央玄関から外へ出ると、理人は夜色に染まった空を見上げた。
初夏の夜風が気持ちよく、胸の奥まで届くように、深く息を吸い込む。
そういえば、いつの間に季節は移り変わったのだろうか。夜とはいえ、湿気を孕んだ空気はもったりと暑い。着ている上着と季節がまるで噛み合っていないことにようやく気づき、理人は上着を脱いで腕にひっかけた。
病院から自宅までは徒歩十分程度だが、特に具合が悪かった頃は、歩いて帰ることさえ難しかった。だが、今日は身体が軽い。理人は人気の失せたロータリーを横切りながら、腕時計に目を落とした。
すると、突然ぽんと肩を叩かれた。
理人は仰天し、足を止めて顔を上げる。
「は……袴田さん。お疲れ様です」
「香乃さん、こんな時間に一人で出歩いてちゃ危ないでしょう? さっき薬局の方でお姿をお見かけしたので、お待ちしてたんですよ」
そこにいたのは、綾世総合病院に出入りするMR・袴田であった。ずんぐりとした巨体の重たげなベータ男性である。
理人は、この男の距離感が苦手だった。何度か顔を合わせたことがあるとはいえ、親しい間柄でも何でもないのに、いつもグッと距離を詰めて話しかけて来るのである。なるべく不自然に見えないように距離を取るも、袴田はにこやかな笑みを浮かべながら、ポンポンと理人の背中を撫でるように叩いてきた。
「体調不良でお休みがちなんですって? この間、新薬完成のお祝いにと、臨床研究部さんのほうにもご挨拶に伺ったんですが。残念ながらあなたはご不在で」
「まぁ、ちょっとね」
「ヒートだったんですか? 大変ですねぇ」
「……は?」
生ぬるい目つきと粘つくような口調で、袴田はそんなことを言い放った。いいようのない嫌悪感が、胃の不快感となって理人をしくしくと苛み始める。
理人はため息をつき、「ま、そんなとこです」と素っ気なく言い捨てながら、タクシー乗り場へと方向転換した。十数メートル先には、数台の列をなすタクシーが見えている。
だが袴田は、ひょこひょこと後ろをついて歩いて来るではないか。ぞっとするような忌々しさに、背筋を冷や汗が流れ始める。だが理人は毅然とした様子を保ってつんと前を向いたまま、まっすぐに歩いた。
「もしお身体の具合が良くないのなら、僕がいつでも手助けしますよ? お宅までお送りしましょう」
「いいえ、結構です。体調の方も、特に問題はありませんので」
「番のアルファがお亡くなりになったんでしょう? どうしてるんですか? ヒートの時」
「……。あんたには関係ないでしょう」
「そんな冷たいこと言わないでくださいよ。色々と協力しあって、新薬発売までこぎつけた仲じゃないですか。……寂しいんでしょ? ……特に、後ろが」
「っ……!!」
あまりにも下品な物言いに、理人はとうとうカチンときた。
足を止めてキッと袴田を振り返り、きつい目つきで睨め付ける。
「そんなこと、赤の他人に心配される筋合いはないですね。それに俺、あんたが思ってるほど飢えてないです」
「へぇ〜、本当に? 別に強がる必要なんていないですよ? 僕とあなたの仲じゃないですか」
「仲……?」
袴田はニタリといやらしい笑みを浮かべて、理人の尻のほうへと手のひらを下げてくる。かすかに指先が触れる感触でさえおぞましく、理人はばしっとその手を払いのけた。
「触るな!!」
「おやおやおや、かわいいですねぇ。僕のことが怖いんですか?」
「は? 怖い? 違いますね。俺は、下品なクソ野郎が嫌いなだけです」
「クソって……へぇ、結構口が悪いんですね。可愛い顔をして、それがあなたの本性ですか?」
突然ガシッと肩を抱き込まれ、強制的に歩く方向を変えさせられた。袴田が向かおうとしているのは、正面玄関脇にある駐車場だ。煌々とライトが灯った明るい場所だとはいえ、車に押し込まれでもしては分が悪い。
――この野郎……俺をバカにしやがって……!!
唐突に湧き上がった怒りの感情に任せて、拳を固める。丸い顎を下から殴り上げてやろうと身構えた瞬間、ぴたりと袴田の足が止まった。
「私の連れに、何をしているんです」
きりりとした、怜悧な声が響き渡った。ぐいっと理人から引き剥がされた袴田が、勢い余ってその場に尻餅をついている。
高級そうな光沢を湛えたブラックスーツを一部の隙もなく着こなした長身の男が、冷ややかに袴田を睥睨していた。緩やかな癖っ毛は柔らかそうな色を湛えて優しげだが、切れ長の流麗な目元は、鋭く尖った刃を思わせる。光の加減か、男の目が金色に光り輝いているように見え、理人は思わず目を瞠った。
「な、なんなんですか……!! 僕はただ、この人と仕事の話を……!!」
と、袴田がずれた眼鏡をくいくいと忙しく直しながら、男に食ってかかっている。だが、スーツの男は袴田に目をくれることもなく、すっと理人のそばへ来て、優しい手つきで肩を抱く。間近でふわりと香る甘い匂に、理人はどういうわけか懐かしさを覚えた。
「行こうか。待たせて悪かったね」
「……えっ、いえ、あの」
「武知。そこのセクハラ男を警備室に突き出しておけ」
「はい」
すっと影のように現れた大柄な男が、アスファルトにへたりこんだままの袴田を強引に立ち上がらせる。有無を言わさぬ力で引きずられながら、袴田は「ま、待ってください!! 私はなにも!!」「香乃さん!! 何とか言ってやってください!!」と大声で喚いている。
理人はちらりとブラックスーツの男を見上げた。男は唇に薄笑みを浮かべ、どことなく残忍な目つきで、無様に連れてゆかれる袴田の姿を見送っていた。
理人より、10センチほど背が高いだろうか。その横顔ははっとするほどに端正で、美しい顔立ちだ。鼻梁はすっと通っていて、まばたきするたび長い睫毛が優雅に上下している。白い肌には曇りがなく、まるで少年のように若々しい。
――この男、アルファ……なのか? なんで俺を助けてくれたんだろう……。
「あの……」
「まったく、相変わらず間抜けだな」
「………………えっ?」
初対面でいきなり間抜け呼ばわりをされ、理人は仰天のあまり腹を立てることさえ忘れていた。目をまん丸にして男を見上げていると、男の顔から、つい先ほどまで見せていた冷ややかなものが消えていく。そして、まるで艶 やかな花が開くように、表情を綻ばせた。
「俺が誰だか分からないの? 理人」
「…………へ?」
「薄情だな。子どもの頃、あんなに仲良くしてたじゃないか」
そう言って笑う男の瞳の色は、よくよく見ると、明るい蜂蜜色だった。その澄んだ色彩を目の当たりにした瞬間、理人の記憶の奥底から、高揚感が湧き上がってくる。
理人はまっすぐにその男の顔を指差して、「あーー!!」と大声をあげた。
「景……!? ひょっとして、景、なのか!?」
くりっとした目をさらに大きく見開く理人に向かって、夜神 景は懐かしげな笑みを浮かべた。
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