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20、過去
景は厚手の白いTシャツを着て、淡いベージュのパンツを履き、いたってシンプルな格好だ。だが、キッチンでコーヒーを入れている後ろ姿にさえ、どこか気品が漂っているように見える。
綺麗に整えられた襟足や、シャツから覗くほっそりとしたうなじを眺めているだけで、なんだかそわそわと落ち着かない気分になった。いつもはワイシャツの襟で隠れているシルバーのネックガードが、今日は何に覆われるでもなく露わになっているせいかもしれない。
――オメガ、だよなぁ……。実はアルファでした、みたいなオチがあるのかと思ってたけど……。
正真正銘のアルファである芦屋がそばにいると、景はやはりオメガなのだと実感させられる。芦屋は今日もきちんと抑制剤を服用してくれているようで、フェロモンの匂いは感じない。だが、二人の全身を取り巻く雰囲気は、それぞれ明確に違う何かがある。体格といった外見的なものだけではなく、内から溢れ出す空気が違うのだ。
「どうぞ」
「あ……サンキュ……」
「すまんな、俺の分まで」
「ついでですよ」
四人がけのダイニングテーブルに座っていた理人と芦屋の前に、湯気のたつコーヒーがそっと置かれた。
当初、芦屋は『車で待っていようか』と提案したのだが、景がそれを制止した。『全部知ってるなら、別にこれ以上隠す必要もないですし』と言って。
正直、理人は芦屋の存在に救いを感じていた。どんな話が出て来るかも分からないのに、ここで景と二人きりというのは、理人にとってもいささか心もとない状況だったからだ。利害関係のない誰かがそこにいてくれるだけで、雰囲気が随分と軽くなるものである。
「理人、その首……」
「え? ああ。お前のせいで発作が出たんだよ」
もうこれ以上何を遠慮することがあるのかと思い、理人はきっぱりとそう言った。強気な理人の反応位、景はちょっと意外そうに目を瞬きつつも、やはり罪悪感には気持ちが暗くなるらしい。申し訳なさそうに項垂れて、重い口調で謝罪した。
「……そっか、そうだよね。ごめん」
「ったくお前は。保護局勤めのくせに、今の俺がどんなナイーブな存在か全然分かってないだろ。あ、あ……あんなことした次の瞬間に色々言い捨てて帰りやがって」
「……うん、全くその通り……」
「いい加減にしろよな。俺を散々動揺させた分、今度はお前のことを全部話してもらうぞ」
「……」
理人に説教されてへこんでいる景のことを、芦屋が物珍しげに眺めている。ふと、そんな芦屋の視線に気づいた景が、ちらりと目線を上げた。
「……何です?」
「いや……しおらしいお前を初めて見たから、びっくりしてんだよ」
「俺はいつでもしおらしいと思いますが」
「は? しおらしいの意味分かって言ってる?」
と、自然と口喧嘩モードに入りそうになっている二人である。理人はパンパンと手を叩いた。
「芦屋さん、今は黙っててくださいね」
「……いや、悪い悪い」
芦屋を黙らせ、理人は改めて景に向き直った。マグカップを弄ぶ景の指先を見つめつつ、理人はまず、こう尋ねてみた。
「さっき、お前の実家に行ったんだけど。……景なんて人間はいない、って言われた」
「……」
「どういうことなんだよ。お前、ガキの頃はあそこの家から学校通ってたよな」
「理人といた頃は、そうだったね。……まぁ、色々あって、もう十年以上……いや、十五年か。俺はあの家の敷居を跨いでない」
「な、何で……? お前さぁ、俺と離れてる間、マジで何があったんだよ。俺には言えないことなのか?」
「……そうだなぁ」
必死に縋り付いてくる理人を見つめつつ、景はふと思わせぶりな笑みを浮かべた。何度も見て来たこの薄笑みは、『これ以上自分の中に入ってくれるな』というやんわりとした拒絶を感じる。だが、理人はこれ以上引き下がるつもりはなかった。
「どうなんだよ」
「……正直、今、理人がこんなに必死になって俺の過去を知ろうとしてくれてることが、嬉しくてたまらないよ」
「は、はぁ!? お前、またそうやって俺をはぐらかそうとしてんのか!?」
「ううん、もうそんなことしない。……理人には、いつか話そうと思ってたし」
自分の両腕を掴む理人の手首にそっと触れ、景は静かに微笑んだ。そしてちらりと芦屋のほうを見据える。
「俺はいない方がいい、ってことか?」
「……いいえ。いてくださって結構ですよ。面白い話ではないと思いますが」
景はそう言うと、また理人の方へ顔を向けた。
そして、ゆっくりとこう言った。
「……あのね、理人。俺も、理人とおんなじなんだ」
「え……? な、何が?」
「俺も、『棄てられたオメガ』だ。けど理人と違って、一生番を持つことはできない」
「へ……?」
――『棄てられたオメガ』……? 景が? いつ、誰と番って、誰に棄てられたって言うんだ……!?
混乱するあまり呆然となる理人から目をそらし、景は一口コーヒーを飲んだ。
そして、まるで他人事のような口調で、流れるように語り始める。
あまりに不幸な、出来事を。
「理人と最後に会った日……あの日の放課後、中等部の先輩に、生徒会室に呼び出されてたんだ。来年、生徒会に入って欲しいから、話がしたいんだって」
「……うん」
「そこで俺、三人のアルファにレイプされた」
「えっ…………!?」
あまりにも信じがたい言葉が、景の唇からこぼれ落ちる。
一瞬、幼かった頃の景が、複数の男たちからの暴力に晒される場面を想像してしまった理人は、そのあまりのおぞましさと恐ろしさに、突き上げるような吐き気を感じた。あたかも自分が、それを経験してしまったかのように。
「あの頃の俺、割と生意気だっただろ? だからさ、目障りだったんだって」
「そ……そんな、理由で……?」
「まぁ、単に俺とヤってみたいってだけのやつも混じってたかもしれないけどな。……しかも運の悪いことに、その時、俺にオメガ性が出現したんだ。暴行がきっかけなのかなんなのか分からないけど、俺は、襲われながら初めてのヒートに狂わされた。相手のアルファ達も、俺のオメガフェロモンにあてられたみたいでさ、そりゃ激しくヤられたもんだったよ。しかもさらに運の悪いことに、俺はそのうちの誰かにうなじを噛まれて、事故のように番が成立してしまったんだ」
景はそっと、自分の首筋に触れた。そしてぐっとネックガードを下にずらして、白い首筋を理人に晒す。もう薄く消えかけているけれど、そこにある痣のようなものは、確かに人の歯型のように見える。
理人が息を飲むと、景はすっと首を隠して、淡々と話を続けた。
「当時俺は、まだ十二歳だった。一般的に第二性の出現には早い時期だが、俺、身体の発育は良かっただろ。そうなる一週間前くらいからさ、何だか頭がぼうっとして、何だか無性に気が迅るような感じがしてて、自分でも何か変化があるかもしれないって思ってたんだ。二人の兄貴はどっちもアルファだし、俺もてっきり、アルファになれると思ってた。でも結果は違った。俺はレイプの最中にオメガフェロモン撒き散らして、アルファどもを余計に盛らせて、挙げ句の果てに、訳わかんないやつと番ってしまった……ってことだ」
ふ、と景の唇に自嘲めいた笑みが滲む。唇の片端を吊り上げて、景は喉の奥を低く鳴らした。
「俺ね、初めて会った時から、理人のことが好きだったよ。理人もさ、俺といて楽しそうで、『あぁ、理人は俺のことが好きなのかもなぁ』って、なんとなく感じてた。だから……俺がアルファで、もし、理人がオメガだったら、すぐにでも自分のものにしよう。すぐにでも番の契りを申し込もうって、思ってた。……なのに、こんなことになって」
「……そんな」
「幸い、といっていいのか分からないけど、この強姦事件はすぐに教師たちに見つかって、止められた。俺はとっくに意識を失っていたけど、アルファたちは代わる代わる、狂ったように俺を犯していたらしいよ。……だが、事件を起こしたアルファどもは名家のアルファだ。そいつらの家にとっても、夜神家にとっても、この事件は最悪の汚点。両家の間でこの一件はなかったことにされ、俺はすぐ、相手の男から番の契約を破棄された」
「破棄……」
番の契約は、アルファ側からのみ解除することができるという噂があることは、理人も知っていた。
そうなると、オメガは終わりだ。理人もすでに経験済みだが、引き剥がされたショックが重いストレスとなり、オメガは心身ともに狂ってしまう。どうしてオメガばかりがこうも弱い立場に置かれなければならないのかと、運命を呪いたくもなるだろう。
理人は無意識のうちに、自分の首をぎゅっと掴んでいたらしい。景にそっとその手を外され、動揺に震えていた視線を、のろのろと景のほうへと持ち上げた。
「……そこからもまた、地獄だった。俺を犯した憎たらしいアルファなのに、棄てられた瞬間は悲しくて、痛くて、苦しくて、俺は派手にパニックを起こした。無様に相手に縋ろうとして、使用人に抑え込まれた。相手は中三で、生徒会長をやってる奴だった。そいつがちょっとこっちを振り返っただけで、もう一回番にしてもらえるんじゃないかって期待して、泣き喚きながら声を上げて、そいつの名前を呼んだ。俺を嵌めた最悪のクソ野郎なのに、悲しくて悲しくて仕方がなかったよ」
「……ひどい、そんな……」
「そこからすぐ、俺はフランスの療養所へ送られたんだ。環境が変われば、きっと治療がうまく進むだろうって」
「だから景は……俺の前から急に、いなくなった……」
「そういうこと」
あの日、必死で景を探し回った日のことが、理人の脳裏で駆け巡る。
あのときは、考えつくこともなかった。まさかこんなにも最悪な事態が、景の身に起こっていようとは――
「夜神家に汚点を作った俺は、あの家から縁を切られた。ただ、父は武知を俺から取り上げることはしなかった。あいつは今も父と繋がってて、色々と俺の状況を監視してるわけだけど」
「ああ、あの人……」
「武知は当時、夜神の家に入ったばかりの若い使用人だった。それで、俺の付き人としてフランスに来てくれたんだ。あいつだけが、俺と社会をつなぐ架け橋だった。……ある日さ、武知が言ったんだ。『香乃理人さまが、景さまを探しておられるようですね』って」
「……あ」
「情けないことに、その頃の俺は、契約破棄のショックが大きすぎて、理人のことさえ忘れていた。唐突に理人のことを思い出して、大事なお前のことを忘れていたことに罪悪感を感じて、何日も泣いたよ。……それだけじゃない、理人が懐かしくて、恋しくて、会いたくて、会いたくて、会いたくて…………そこからはずっと、会えもしない理人のことを心の支えにしてたんだ」
「景……」
そこまで話をして、景はようやくいつもの笑みを浮かべた。過去に溺れていた景が、ようやく現在に戻って来たかのように。
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