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21、懺悔

   景は指の背で理人の頬をさらりと撫で、どこか懐かしげな眼差しで理人を見つめた。 「理人は思った通り、オメガだった。それで『温室』に入ったってところまでは知ってたんだけど、そこを出てからのことは分からなくて、随分つらい思いをしたよ。オメガ保護法に基づき、『温室』は情報へのセキュリティが厳重だ。なかなか調べられなくて」 「……そうだったんだ」 「ああ。……理人にもう一度会いたい、理人の前に立った時、恥ずかしくない人間でいたい。その想いが俺を励まし、俺を回復へと導いた。死ぬ気で勉強して、アルファに負けないだけの知性と力を身に付けたくて、……ものすごく努力したよ。本当は、もっともっと上へ登って、どんなアルファにも負けない権力を手に入れてみたかった。でも、今の身分が精一杯だったけどね」  ちら、と景が芦屋のほうへと視線をやった。  理人もつられてそちらを見ると、芦屋は、傷ついたような表情で景のことを見つめている。 「芦屋さんまで、そんな顔しないでくださいよ」 「……ひでぇ話だ。お前をそんな目に合わせた奴らを、この手で半殺しにしてやりたいよ」 「……庶民出身のアルファであるあなたじゃ、到底無理な話ですよ」 「む……」  景は平坦な口調でそう言うと、再び理人の方へ視線を戻す。そして、そっと理人の頬を拭った。 「泣かないで。涙がもったいないよ」 「……でも……そんなの、おかしいじゃん、ひどすぎんだろ……! お前をそんな目に遭わせといて、そいつらは今ものうのうと生きてんだろ……!?」 「この世界じゃ、よくあることだ。俺はもう平気だよ、理人」 「そんなわけ……!!」  俯いて涙していた理人は、ガバリと顔を上げて景を見つめた。  すぐそばにある景の顔は薄笑みを浮かべているが、瞳の奥には深く昏い悲しみを湛えているようにしか見えなかった。 「……それに、のうのうとは生きていない。やつらは全員、今は人の手を借りなければ生きていられない状態だから」 「え……?」 「あの事件が起きた五年後、ほとぼりが冷めた頃に……彼らはクルージング中の事故で瀕死の状態に陥ったんだそうだ。一命は取り留めたみたいだけど、チューブやモニターに繋がれていなければ、呼吸も排泄も出来ない状態らしい」 「え……な、なんだよそれ。まさか……」 「そう、恐らくは、父の仕業だろうな。冷酷な父のことだ、夜神の家名に泥を塗ったやつらを、放っておくわけがない。……まぁもっとも、俺には何も聞かされてないし、薄汚れて使い物にならなくなった俺は、あの家から縁を切られたわけだけどさ」  ぞっとするようなことを、まるで世間話でもするかのように語る景の顔は、まるで作り物の人形のように冷たい。  しばし三人の間に沈黙が落ち、重い空気があたりを包んだ。  白を基調とした景の部屋は明るくて、清潔で、おぞましくも生々しい事件を語るには不似合いな空間に思える。だが景は何事もなかったかのように、小綺麗に整えられた風景の中、優雅な動きでコーヒーを飲んでいる。 「じゃあ……あのアルファは何者なんだ。昨日、お前を車に押し込もうとしていたあいつだよ」 と、芦屋が硬い声でそう尋ねた。景はちらりと芦屋のほうを見遣り、何事かを逡巡するかのように口を閉じる。  衝撃の事実を知ったばかりで、頭はうまく回ってはいなかったけれど、それも理人にとっても気にかかっていた事柄だ。理人は景の腕にもう一度手を添えて、重ねて尋ねた。 「さっき芦屋さんから聞いた。……景、昨日変なアルファに絡まれてたんだって?」 「まぁ……そうだね」 「その後様子が変だったって聞いてさ。……そいつは、お前の何?」 「そんなことも聞いたのか……。それならもう、いいかな」  ジロ、と芦屋をひと睨みした景は、くしゃっと自分の髪を乱してため息をついた。  そして椅子の背に体重を預けながら、天井を仰ぎ見る。 「そのアルファは、理人も知ってる男だ。……美園優一。あの嫌味ったらしい警官だよ」 「えっ……!? み、美園って、あの刑事……!?」 「そ。というか、あいつは刑事じゃなく警察官僚だ。普通なら取り調べなんかしないような立場だけど、理人の取り調べにやって来たあたり、なんかおかしいなと思ってはいたんだけど……」 「……警察官僚?」 「俺はあいつに、高科の過去を探ってもらったんだ。情報料は、俺の身体」 「…………え?」  あまりにもさらりとそんなことを言うものだから、理人は一瞬、景が何を言っているのか分からなかった。すると、隣に座る芦屋が、机に肘をついて片手で額を覆っている。 「……お前……。なんだよそれ、マジで言ってるのか……?」 「ええ、マジですよ。お代は十分に支払ったはずなのに、今もああしてしつこく迫ってくるんで、困ってるんですよね」  景は机に肘をつき、どことなく婀娜っぽい笑みを浮かべて芦屋を見た。小馬鹿にしたような景の表情にかちんときたのか、芦屋はばんと机に手をつき、声を荒げた。 「……っ……ふっざけんなよ。何だよそれ……!! 何でそんなことができるんだ!? お前の、身体でって……」 「俺にとって最も重要な要件のためなら、セックスを提供することなんて安いもんです。それに俺の身体はもうとっくに汚れてる。これくらいのこと、何でもないんですよ」 「何でもなくないだろ!! お前は……なんてことを……」  いきりたつ芦屋にも、景はどこまでも淡々とした口調だ。純真でまっすぐな芦屋の態度をせせら笑うように、景は肩を揺すってこう言った。 「……まぁ、提供された情報は、俺にとってはそこそこ刺激的な内容でしたけどね」 「お前……その情報は本物なのか!? あの蛇野郎が警察高官だってんなら、いくらだって捏造できる。お前の体目当ての、偽物だったかもしれねーだろうが!!」 「俺だってそれは疑いましたよ。だからこそ、高科にカマをかけたんです。……その時の彼の反応が、情報の正しさ証明してくれたと思っていますよ」 「……っ」  芦屋はぎゅっと唇を引き結び、はぁ、と苛立ちの滲むため息を吐き、立ち上がった。  そして「ちょっと、出てくる」と低い声で言い残し、景の部屋を出て行った。  景と二人きりになると、余計に今聞いたばかりの話が、リアルに肌を刺す。理人はゆっくりと瞬きをしながら目を上げて、ぎゅ、とテーブルの上で景の手を握った。心もとなくて、誰かに縋りたかったのだ。  これまでの出来事を聞き、今は自分が、あたかも景が見舞われた不幸の中に突き落とされているような気分だった。  集団でアルファに暴行される恐怖、契約破棄という身を千切られるような痛みさえ、自分のことのようにまざまざと感じてしまう。  そして、身体を売ってまで高科を貶めようとした景の、自分への執着——理人はもう片方の手を持ち上げて、さらに強く景の手を握りしめた。 「景……ごめん」 「え……何が?」 「俺が、泣いてちゃいけないのにな……つらかったのはお前なのに、なんで止まんないんだろ……涙……っ」 「ううん……いいんだ」 「でも、でもっ……どうして、そんなこと……っ。それに……美園のことだって、そこまでしなくても……っ……俺なんかのために……!!」 「俺がしたくてやったことだ。それに、『俺なんか』なんて寂しいこと、言わないでよ」  景は理人の頬を手のひらで包み込み、そっと上を向かせた。そして、嗚咽を漏らし、顔をぐしゃぐしゃにしている理人を見つめつつ、ふわりと唇にキスをする。 「俺は今、こうして理人が俺の腕の中にいてくれることが、何よりも幸せだ。……幸せだけど、すごく……つらい。何でかな……」  唇を離すと、景は不意に、泣き出しそうな顔をした。 「これまで理人を包み込んでいた幸せを壊したのは、俺だ。許されないことをした。理人も高科も、真実なんて知らなくてよかったかもしれないのに、俺は、二人の世界を壊したんだ」 「……景」 「理人を、あの男から取り戻したい。理人に、俺を求めて欲しいって……望んでいたことが叶ったはずなのに。全てうまく行ったはずなのに……どうして、こんな……」 「景、もういいから……」 「ごめん……理人。本当に、ごめん……」  掠れた声でそう言うと、景は理人を引き寄せて、ぎゅっと強く抱きしめた。ふわりと包み込まれるあたたかさと、景の優しい匂いに、理人の双眸からはさらに塩辛い涙が溢れ出す。

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