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23、銀色の首輪
「ねぇ菅田さん。この間お願いしていた試薬のことなんだけど」
「ああ、はい、あれでしたらすでに到着済みです。リストをお渡ししていませんでしたね」
「ありがとう。助かる」
堅物ベータ女性部下・菅田から試薬リストを受け取り、理人は自然な笑みを浮かべて礼を言った。
この二週間、理人は一度も欠勤することなく仕事をすることができている。
現在の主だった仕事内容は後輩のサポートとあって、一時期はプライドを傷つけられているような気もしたが、今はさほど、そういった卑屈な思いは感じない。
むしろその空いた時間で、これまで形にできていなかった研究データを、論文としてまとめる作業に取りかかることができている。高科が亡くなって以降、自分の研究テーマに関する実験は一切できていないため、実験ノートは真っ白だ。だが、それまでにいくつか試行していた実験結果について考察した結果、あらたな実験ルート構築の可能性が見えてきたのだ。
後輩のサポートにも精を出しつつ、自分の研究にも時間を割くことが出来るようになってくると、現状もさほど悪いものではないように思えてきた。
それもこれも、今は景という存在がすぐそばにあるからかもしれない。
十五年を経て、ようやく互いに想いを通わせることが叶ったのだ。
とはいえ、この二週間、景とはメールのやり取りだけである。
理人への急激な接近が保護局内で問題となり、景は結局、別の部署へ異動となったのだ。
異動先は、法務省大臣官房付の秘書課だ。しかも『政策立案・情報管理室』という最もお堅い部署である。そこは頭脳明晰なオメガとベータが大半を占める部署で、アルファは一割にも満たないらしい。そこで景は日々、厳しい先輩たちに知識を叩き込まれているのである。そのため、なんだかんだと時間が取れず、なかなか会うことができていない。
だが、今夜は久しぶりに景と会える。理人は高揚と緊張でそわそわ落ち着かない気持ちを抱えつつも、努めて冷静に仕事をこなしていた。
自分のデスクに戻り、リストをチェックしている理人に向かって、珍しく菅田が声をかけてきた。
「……最近、少し元の調子に戻られているようですね」
「え? あ……うん、まぁね。おかげさまで」
「落ち着いたかと思ったら、また欠勤が続かれたりしていましたが……」
「んー、ちょっとね、色々ごたついてたんだけど、それが落ち着いたからさ」
「……そうですか。何よりです」
菅田はシルバーフレームの眼鏡をくいと押し上げ、再びパソコンのモニターを睨みつけはじめた。生真面目で堅物な女性部下からの、不器用な言葉かけが嬉しくて、理人はにっこりと笑顔になった。
「心配かけてごめん。いつもありがとう」
「えっ」
すると、菅田の顔がボボッと真っ赤に染まった。そしてさっき以上に鋭い目つきでモニター画面を射殺しながら、「べ、別に心配なんて。元気になったんなら、早く仕事に戻ってください!」と早口に言った。
「そうだね、ごめんごめん」
理人は苦笑し、改めて仕事に向かい合う。
いつしか季節は盛夏となり、ぎらぎらと照りつける真夏の太陽が、窓越しに理人を照らしている。
+
「遅くなってごめん、理人」
「いや……全然。ど、どうぞ……」
景が理人の自宅に顔を出したのは、二十三時過ぎだった。
玄関を開けると、ぱりっとした白いワイシャツを身につけた景が、麗しいまでに優しい表情で微笑んでいる。
嬉しいのに気恥ずかしくて、ついついそっけない口調になってしまう。だが景はそんなことを気にする様子もなく、「お邪魔します」と言って理人の部屋へ入ってきた。
「仕事、慣れたか?」
理人は、ベッドに腰掛けネクタイを外している景に向かって、そう声をかけた。すると景は、キッチンにいる理人の方へ目線をくれながら、穏やかな笑みをひとつ浮かべた。
「まぁね。騒がしい保護局よりも、今の方が俺には向いてるかもしれない。オメガも多いしな」
「そっか、よかった。でも、芦屋さんに会えないのは寂しいんじゃないのか?」
「別に、寂しいとは思わないけど。一応同じビル内だし、会おうと思えばいつでも会えるしさ」
「ふうん、仲良さそうだったから、寂しがってるかと思ったのに」
世間話としてそんなことを口にしながら、理人はローテーブルに冷えた緑茶のグラスを置いた。すると、ぱしっと景に手首を掴まれ、じっと顔を覗き込まれた。
「……え? な、何?」
「久々に会ったんだ。芦屋さんの話は、もういいだろ」
「えっ……あっ」
ぐっと景に腕を引かれて、気づけば理人はベッドの上に横たわっていた。景はひらりと理人の上に覆い被さり、真上からじっと見つめてくる。きし……とベッドがかすかに軋む音が、理人の耳に小さく響いた。
「会いたかったよ、理人」
「ちょっ……いきなり! ……ふ、ン」
いきなり唇を奪われて、理人は思わず景のシャツをぐっと握りしめた。弾力を確かめるように触れ合う唇が、戯れのように下唇を啄むたび、リップ音が軽やかに弾ける。
「景っ……待っ、」
「あぁ……理人の匂い、落ち着く……。……好きだよ」
「っ、あっ……」
うっとりするような甘いキスが、唇や頬、耳たぶや顎にまで降り注ぐ。だが理人がのけぞった拍子に、不意打ちで喉仏のあたりをかりりと噛まれ、理人は思わず「いてっ!!」と大声を出した。
「こら! 噛むなってーの!!」
「ふふっ、ごめんごめん。……冗談だよ、いきなりしたりしないから」
「はぁ? もう、なんなだよお前……」
景はすっと起き上がり、ベッドの脇に置いていたビジネスバッグから、細長い箱を取り出した。高級感漂う黒い包装紙に、ダークグリーンの細いリボンがかかっている。景はそれを、すっと理人の方へと差し出した。
「え? 何?」
「ずっと、理人に贈りたかったものがあるんだ」
「……あ、ありがと。なんだろ」
理人ももぞりと起き上がり、ベッドの上であぐらをかく。いかにも高そうな贈り物におっかなびっくりしつつ、理人は指でリボンをほどき、ゆっくりと箱を開いた。
「……あ、これ……」
箱の中に敷き詰められたクッションの上には、銀色の、ほっそりとしたネックガードが収められていた。今、景が首に巻いているものと、それはとてもよく似ている。
「これ……俺に?」
「そう。今、理人がつけてるネックガードは外して、これをつけて欲しいんだ」
「……あ、お、おう……それはいいけど。これ、今のやつ、どうやって外せばいいのか……」
高科から贈られたものを、何の前触れもなくすぐにでも外させようとする景の性急さに怯みつつ、理人は戸惑いがちにそう言った。すると景はまたカバンから一枚のカードを取り出し、すっと理人に手渡した。
「ん?」
「メーカーに問い合わせてみた。理人の承認とサインがあれば、すぐにでも製造元から解除用のキーコードが送られてくる」
「そ、そうなんだ」
「メールを送ればすぐに済む。だから、」
「ちょ! ちょっと待って!」
理人は両手を顔の前に上げると、マイペースにことを運んで行こうとする景を制した。景は怪訝な表情を浮かべて、小さく首を傾げている。
「?」
「あ、あのさ……それは自分で、時間あるときにやるから。……とりあえず、新しいネックガードは、ありがとう」
「……うん」
「景のと、おそろい? きれいだなって思ってたんだ」
「デザインは少し違うけど、フランスの老舗メーカーが扱ってる一級品だよ。セキュリティも万全だ」
「へぇ……」
確かに、日本ではあまり見ない形をしたネックガードだ。日本のものは幅広なものが多く、色味も地味で、材質も光沢を抑えた革のようなものが多い。だが、景が身につけているものは、女性用の腕時計ほどの太さでほっそりとしている。普段は襟の中に隠れているが、ちらりと輝きが垣間見える瞬間がとてもきれいだ。オメガであることの誇りを示すかのように、まるで宝飾品のように、輝いている。
「理人には、こういうタイプのほうが絶対に合うよ。こんな無骨なデザインのものは似合わない」
「う、うん……でも待ってよ。こういうのはさ、俺のタイミングで外したいから」
「……え?」
ぐいぐいと主張してくる景を宥めるように、理人はゆっくりとそう言った。
高科の過去がああいったものだったにせよ、理人にとって、これは初めて番から贈られたネックガードだ。発作を起こした時は無理やり外そうともしたけれど、やはり、思い入れだってある。そう簡単に、新しいものに替えられるわけではない。
だが、かといって、その心情をどう景に伝えればいいか分からない。
すると景はどことなく不穏な表情を浮かべて眉を寄せ、綺麗に整った双眸で理人を見据えた。
「……高科のこと、まだ吹っ切れたわけじゃない、ってことか」
「い、いや……そういうわけじゃないけどさ。……でも、この何年もの間、ずっと身につけていたものなんだ。愛着だってあるし……」
「……なるほどね」
長い睫毛をゆっくりと瞬いたかと思うと、景はいきなり、理人をベッドに押し倒した。
突然の猛々しい行動に仰天し、理人は思わず目を見開く。
「景っ……!」
「……どうすれば、忘れられる? もっともっと、理人のことを抱いたらいいの?」
「は、はぁ!? いやだから、そういうんじゃなくて……!!」
「あいつを、今も愛してるってこと? 俺のことよりも」
「違っ……!! そういうんじゃねーって!!」
「じゃあ、どうすればいい? どうすれば、俺のことだけ見てくれるんだ、理人」
「見てるよ! 今の俺には、お前しか……」
「嘘だ」
ぐっと部屋着の襟を広げられたかと思うと、突き刺すような痛みが肩口に走った。景の犬歯が、理人の肌を突き破っている。
「うぁあっ……!!」
「早く、俺だけのものにしたいんだ。ねぇ、理人、わかるだろ?」
「ばかっ……!! なんてことしやがんだ……!!」
つう……と肌の上を、生暖かいものが伝う感触。
怖いほどに鋭い眼差しで理人を見据える景の瞳の奥には、今も嫉妬の炎が赤黒く燻っているように見えた。景の内に潜んだ激情に、気を抜けば竦みそうになるけれど、このまま景の言いなりになっていてはいけない気がする。
理人はきつい目つきで、景を見上げた。
「お前だって、俺の気持ち、信じてないってことじゃねーかよ……!」
「……そんなことはないよ」
「いいや、俺が信じられないから、さっさと俺を首輪で繋いでやろうって思ってるんだろ!」
「……」
「でもな、何でもかんでもお前の思い通りには行かねーんだよ!! 俺にだって、まだ整理のつかない感情は残ってるんだ! それを無視されて平気でいられるほど、俺は素直じゃねぇからな!」
理人の怒声に、景の表情が痛ましげに歪んでいく。
苦しげに眉根を寄せ、目を細める景の表情には苦悶が溢れているけれど、その表情さえ美しいと理人は思った。
一心不乱に理人を求め、あまつさえ苦しげな表情を浮かべる景の姿に、理人はふと、いいようのない悦びを感じている自分に気づく。
「いいよ……やれよ」
「え……?」
「さっき景、言ってたじゃん。もっともっと俺を抱けばいいのかって」
「……ああ、言った」
「……もっと、俺を抱いてよ。それで、俺が景のものなんだってこと、もっともっと身体に教え込ませてよ」
理人はそう言って、唇に笑みを浮かべた。
そしてするりと首に腕を絡めて、上目遣いで景を見つめる。
「……俺は、景が好きだよ」
「理人……」
「好きだよ、景。……愛してる」
「っ……」
ぐっと腕に力を込めて景を引き寄せ、自分から唇を重ねる。すると、すぐに景はキスに応えて、薄く唇を開いた。自ら舌を挿し入れ、景のそれとねっとりと絡め合えば、互いの唾液で唇は濡れ、淫靡な水音が生まれてゆく。
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