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25、逃れられぬ過去〈景目線〉

   その数日後、仕事を終えた景は、館内にあるカフェスペースで一人休憩をとっていた。  もう夜も遅いこともあり、廊下もカフェも、必要最低限の小さなライトしか灯っていない。ひと気もなく、薄暗いその場所は、本来ならば危険を感じずにはいられない雰囲気かもしれないが、景の所属する事務所はすぐ向かいだ。何人か残業している同僚もいる。その気楽さも手伝って、景は一人の時間を過ごしていた。  政策立案室は思いの外居心地が良い。卓越した頭脳を持つオメガに囲まれているという環境にあるおかげで、自分本来の明晰さを発揮できているように思う。それは、景にとってはありがたいものだった。  アルファが少ないことも、落ち着く。景に色のついた視線を送ってくるアルファたちの存在など、気にかけているつもりもなかったが、そういった類の男たちが周囲にいない環境に来て初めて、自分がいかに虚勢を張っていたかということに気づかされる。  保護局は人数の多い部署だ。アルファも、ベータも、オメガも、たくさんいた。常に人の出入りが多く、景自身も方々と連絡を取り合わねばならない案件が多かったため、それなりに気疲れもしたものだ。しかも、数多くの傷ついたオメガたちを相手にすることもあって、自分自身の傷を思い出すこともしばしばだった。  その傷に触れ、生々しいものが溢れてしまわぬよう、心を硬くすることにも慣れたつもりだった。多忙な職場はそれなりに、不遇な時代を忘れさせてはくれた。けれどやはり、忘れようと思えば思うほど、痛みを伴う過去は景の心を蝕んだ。 「……はぁ」  だが、今は純粋に仕事に集中できている気がする。理人との関係を取り戻すことも、できた。いつになく落ち着いた心持ちではあるものの、心の片隅には常に、黒い膿が(こご)っているように感じる。  ――他の男と寝るな、か。……理人がそんなことを言うなんて、驚きだな……。  必死の表情で訴えてきたときの理人の顔を思い出し、景はふっと微笑んだ。だがすぐに、その笑みは霞のように消えて行く。  美園優一からの執拗な誘いは、今も続いているからだ。  あの男は景の過去を知っている上、高科良知の罪についても把握している。今後、理人に対して妙な接触の仕方をしてきやしないかと、不安が募った。  現に今も、美園からの連絡を無視している状況だ。『お話したいことがあります』という誘い文句に、どんな意味がこめられているのかということは、景はじゅうぶん理解している。  ――いやだ……もう、あんなことをされるのは……。  夜に沈んだ窓の向こうに、青ざめた自分の姿が見える。景は手にしたコーヒーの空き缶を握りしめ、ぐしゃ、と手のひらの中で握りつぶした。 「……こんなとこで何してんだ、夜神。一人か?」 「……!」  不意に背後から声をかけられ、弾かれたように振りかえった。  スラックスのポケットに手を突っ込んで佇んでいるのは、見慣れた同僚の顔だった。 「あ……芦屋さん。まだいたんですか」 「まぁな。今日もトラブルの連続だ。朝まで帰れねーだろうな」  芦屋はそう言って肩をすくめると、コーヒーメーカーから飴色の液体をカップに注ぐ。そして景の座る窓際の席にやってくると、椅子を一つ空けたその隣に、腰を下ろす。 「……その……。うまくいってんのか、彼とは」 「理人のことですか? ……ええ、おかげさまで」 「そっか……なら、いいんだけどな」  窓の外をじっと見据えながら、芦屋は淡々とした口調でそう言った。芦屋の匂いにはすっかり慣れているせいか、かつては暑苦しいと感じていたそのアルファフェロモンでさえ、なんだかとても落ち着いた。 「……あと、あの、蛇野郎のこと。大丈夫なのか」 「……蛇?」 「お前に情報提供した、あの……クソ野郎のことだよ」 「……ええ、大丈夫ですよ」 「本当か?」  突然の強い口調に、景ははっとして芦屋の方を見た。芦屋は真剣な眼差しで、じっと景を見つめていた。 「……え?」 「本当に、大丈夫なのか?」 「え、ええ、もちろんですよ。な、何なんですか、急に……」 「……心配なんだよ、お前が。決まってんだろ」  芦屋はぐ……と苦しげに目を細め、立ち上がって景との距離を詰めてきた。思わず見上げる格好になり、上目遣いになる。 「とっくに分かってんだろ、俺の……俺の……」  絞り出すような声で、芦屋はそう呟いた。そっと持ち上がった大きな手が、景の頬に触れるか触れないかの距離で、微かに震えている。  芦屋からの好意には、とっくの昔に気づいていた。だが、ずっと気づかないふりをしていた。  おそらく、芦屋は全て分かっていただろう。自分の感情が景に筒抜けていることも、それに気づかぬふりをしている景の態度も……。  だが、互いにそれを口にすることもなく、保護局で一年、先輩と後輩の距離を保ってやってきた。だが芦屋は、景の過去を知った。美園というアルファに、身売り同然のことをしていた事実まで。  きっとそのせいで、芦屋の中のリミッターが外れてしまったのだろう。理人とのことを理解しつつも、こうしてアルファの顔をして景に近づいてくる芦屋の姿に、景は戸惑いつつも申し訳なさを感じてしまう。 「……分かっています」 「理人くんのことは、理解できる。応援だって、してやりたい。でも……もっと、もっと早く、自分の気持ちを伝えていればと……」 「いいえ、たとえ言葉にされていたとしても、俺たちの関係は変わらなかったと思います。……俺には応えようがないことなので」 「でも……! そうすりゃ、お前はもっと早くに俺の手を借りようと思えたかもしれないだろ!? あんなクソみたいなアルファに身体を許す前に、俺が……っ」 「言ったでしょう、あなたには無理だ」  景はぴしりとそう言い切って、目に力を込め芦屋を見上げる。 「もうやめましょう。……芦屋さんには、もっと、素直で可愛いオメガが似合いますよ」 「夜神っ……!」  立ち上がってその場から離れようとした途端、ぎゅっと手首を掴まれた。芦屋の顔を見ることができず、景はただただ目を伏せて、スツールの背もたれを睨みつけることしかできなかった。 「そんなに俺は、頼りないか」 「……あなたを巻き込みたくないんです。美園に目をつけられたら、面倒ですよ」 「だからこそだよ! ……夜神、俺で力になれることがあるなら、何でも、」 「おやおや、こんなところでラブシーンですか?」  芦屋の必死な声を割いて、粘着質な猫なで声がカフェスペースに響いた。  ぴく、と景の手首を握った芦屋の手が震える。  美園優一が、悠然と立っている。消灯された廊下から、こちらを眺めている。 「まったくお返事をいただけないものですから、体調でも崩されているのかと思いましたよ。……ふふ、元気そうじゃないですか」 「……てめぇ……、何でこんなところにいやがんだ」  と、芦屋が景の前に立ちはだかり、美園に凄んでいる。景は慌てて芦屋の腕を引き、余計なことをするなと睨みつけた。 「いいから。芦屋さんは、もう行ってください」 「はぁ!? んなことできるわけねぇだろうが!」 「おやおや、さすがは美貌のオメガさんだ。こんなところでも、アルファに言い寄られてお困りのようだ」 「……どうでもいいだろ。というか、もう俺は、あんたとは何の関係ないはずだ。こんなところまで押しかけられるのは、迷惑ですね」  精一杯の毅然とした表情で、景は美園を睨めつけた。だが、美園はそんなことにひるむ様子もなく、いたいけな子猫でもあやすような目つきで、景の全身を眺めている。 「私がここにいるのは、れっきとした仕事ですよ。今日は大臣に用事がありましてね」 「大臣に……?」 「ふ……何を驚いているのです? 法務省と警察庁は、切っても切れない密な間柄だ。私がここにいるのは、至って自然なことでしょう」 「……」  そんなことを超然と述べながら、美園は二人の方へと歩み寄ってきた。そして、同じ高さに目線のある芦屋のすぐそばまで近づくと、長い指で芦屋の顎をちょっと持ち上げる。  当然、芦屋はそれをすぐに払いのけた。美園はククッと喉で笑い、勝ち誇ったような表情を浮かべている。 「……そのご様子ですと、僕とそこの夜神くんとの関係について、知ってしまわれたということですかね」 「……ああ、その通りだよ」 「ふふ、それでそんな顔を。そりゃそうですよね。こんなにも愛らしいオメガがすぐそばにいるのに、手を出せないなんて苦行でしょう」 「何だと……!?」  芦屋が美園に掴みかかろうとするのを、景はとっさに押しとどめた。ここで問題を起こしては、芦屋に多大な迷惑がかかるに決まっている。 「芦屋さん……!! だめだ!」 「何で止めるんだよ!!」 「もういいって言ってるだろ!! 俺のことは放っておいてくださいよ!! お願いですから……!」 「……っ……」  景の訴えに、芦屋の表情が歪む。芦屋は悔しげに唇を噛み、射殺しそうに鋭い目つきで美園を睨みつけている。だが、美園はいたって涼しい顔だ。優越感の滲む微笑みを湛え、美園は景の方へ目線をうつした。 「異動されたそうですね。お忙しいのは分かりますが、僕はそう気の長い方ではありませんよ」 「……どうでもいい。俺はもう……」 「傷ついた可愛い恋人のためにも、あなたは僕の言うことを聞いておいたほうがいいと思いますが?」 「!」  理人の存在を持ち出され、景の表情がぴりりと引きつる。その反応に満足したのか、美園はくるりと踵を返し、片手を上げてカフェスペースから遠ざかっていく。 「では、連絡お待ちしていますよ。夜神くん」 「待っ……!!」  再び美園に追いすがろうとする芦屋の腕を掴んで、強引にその場に押しとどめる。だが芦屋も、今度ばかりは何も言葉を口にせず、たただただ荒い呼吸に胸を上下させるばかりであった。  ――くそッ……っ……!!  浅はかだった自分の行動に、心底、腹が立つ。  あまりにも非力な己に対して、怒りしか感じない。  景は無言で芦屋の腕を離し、早足にその場を立ち去った。  追いかけてくるかに思えた芦屋の声は、聞こえてはこなかった。

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