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29、再び、綾世院長と
その時、理人は綾世とともに、院長室にいた。
ガラステーブルの上に置かれたスマートフォンからは、スピーカーを通して景の声が聞こえてくる。
そして、卑しい男の声で明かされてゆく、おぞましい真実の数々。
ぐるぐると胸の内に巻く憎しみの感情で、吐き気がした。理人はぐっと口を押さえつつ、一言たりとも聞き逃さぬようにと息を潜め、景と美園の会話を聞いていた。
そして、景からの通話が終わり、あとは彼の戻りを待つだけとなった。
だが、理人はなおも両手で口を押さえたまま、石のように硬直していた。
「香乃くん。もう、大丈夫ですよ」
ふわ……と、理人を包み込むのは、院長の綾世律だ。応接用のソファで全身を強張らせる理人を隣から抱き寄せて、とんとんと背中を撫でる。
「そんなに唇を噛んではいけません。ほら……血が出てる」
「っ…………は……」
そっと手首を掴まれ、見下ろした手のひらは、かすかに血で汚れていた。唇を舐めると、血の味がする。
のろのろと綾世を見上げると、たおやかな美貌に憂いを浮かべ、そっとハンカチで口元を拭われた。
「大丈夫。事態はもう、これ以上悪くなることはありません。同じオメガとして、あんな邪悪なアルファを放置しておくことはできない。これから、全てが正しい方向へ向かうことでしょう」
「……はい……」
ネックガードからマイクロチップが見つかった日から、今日で一週間が経過している。
そこから出てきた情報はあまりにも衝撃的で、到底、二人だけの手に負えるものではなかった。
オメガ人身売買の真相、警察組織の腐敗……それらを扇動している男が、景を脅迫し、支配しているという現実……。
途方に暮れかけていた理人だが、その時不意に、綾世院長のことを思い出した。綾世は今、理人が誰よりも信頼している人物だからだ。
綾世の名を出すとすぐに、景ははっと閃いたように目を見張った。綾世の背後にある、何より強大な権力者の存在について、景は知っていたらしい。
そこからは、綾世が迅速に動いてくれた。
理人と景から話を聞き、隠されていた情報を確認した綾世は、すぐに旧友である国城財閥現当主・国城 葵に連絡を取ってくれたのだ。
そして、景が美園と相対している今この時、すでに美園一族の暗躍はニュースというニュースで取り上げられ、世間を大騒ぎさせ始めている最中であった。
「……でも、俺の両親を殺した罪は、もうとっくに時効です。裁かれることはないんでしょうね……」
「ええ、そうですね。……ですが、あの美園優一という人物とその一族のやってきたことは、オメガ保護法に対する重大な違反行為です。おそらく、彼らはもう二度と日の下を歩くことはないでしょう」
「そうですか。……」
「でも、悔しいですね」
そう言って、綾世はそっと理人の頭を肩口に抱き寄せた。理人はされるがままになりながら、ゆっくりと首を振る。
「いいんです。……これで景も、俺の親も、俺の番も、やっと過去から解放された。そう思うと……俺もやっと、きちんと前を向けそうな気がしてます」
「そうですか」
ネックガードに収められていたビデオデータ。
両親が殺害される瞬間を映像で見て初めて、理人は両親の存在をはっきりと思い出したのだ。
それはあまりに残酷な映像だ。
目の当たりにした瞬間、脳内が真っ赤に染まるほどの激しい怒りが破裂した。我を忘れ、気が狂いそうになった。
叫び出す理人を、景は咄嗟に抱きしめた。けれど、理人は彼の胸さえも激しく殴りつけてしまった。自分でもコントロール出来ない憎悪の感情に呑まれていた理人を、景は全身で受け止めてくれた。
激情が少しなりを潜めた頃、理人はただただ力無く泣くことしかできなかった。理不尽な暴力に散らされた両親の命も、そのせいで孤独に追いやられた己の過去も、美園の犯罪を隠匿しつづけることへの罪悪感に、心を削られた高科の無念も……何もかもがやるせなくて。
だが、今は泣いている時ではない。ひとしきり泣いたあと、理人の頭は妙に醒めていた。
高科の残したものは、理人の悲嘆の材料となるために、ここに在るものではない……と。
「院長先生……」
「はい?」
「あの……ありがとうございました。色々、便宜を図っていただいて」
「何を言うんです。君は、私の大切な部下なんですよ? それに、同じオメガとして、ああいった手合いのアルファを許すことはできません。それは、国城家の……いえ、世間の多くの人だって、皆同じ意見です」
「……はい」
「マスコミ対策も、こちらで何とかしましょう。もっとも、君はまだ当局の保護下にあるので、接触されることはないでしょうけど」
「景は……大丈夫でしょうか」
綾世はそっと理人から身体を離し、理知的な瞳でこちらを見つめた。
「彼は、色々と事情を聞かれる可能性はありますね。……ただ、彼自身も被害者の一人なので、それなりの対応をしてもらえるよう、留意してもらいましょう」
「ありがとうございます」
何から何まで頼りっぱなしで、頭の上げ方を忘れてしまいそうだった。だが、こうしてようやく、これまで凝っていたものが流れ始めた。
過去から今へ、ようやく。
「そろそろ、夜神くんもここへ戻る頃ですね。今夜は、二人で君の自宅にいてください。ゆっくり休むんですよ」
「……はい」
ぽん、と頭を撫でられて、理人はようやく、薄く唇に笑みを浮かべた。
ちょうどその時、院長室のドアがノックされた。
そして武知に伴われた景が、ドアの向こうから姿を見せる。理人は思わず立ち上がり、すぐさま景に抱きついた。
「景……!!」
「わっ……理人」
景はやや面食らった表情を浮かべつつも、ぎゅっと理人を抱き返した。
こうして改めて景の体温を感じることができた安堵感で、理人は深く深く息をつく。腰に回った景の手にも、力がこもった。
「よかった、ちゃんと帰ってきてくれて、よかった……!」
「当然だろ。外に武知もいたんだ、大丈夫だって」
「でも、もしものことがあったらと思うと……心配で、心配で」
すっと、背後で綾世が立ち上がる気配がした。景が姿勢を正したことで、理人はハッとして身体を離す。院長や武知の目の前で景に抱きついてしまったことが気恥ずかしく、顔が赤くなる。
「綾世先生。ありがとうございました」
と、景が礼儀正しく一礼する。すると綾世は微笑んで、ゆっくりと首を振った。
「なに、私はただ、連絡役になっただけです。全ては、国城葵様が取り計らってくれたことですから」
「……はい、すぐにでもご挨拶とお礼に窺おうと思っています」
「そう焦らなくてもいいと思いますよ? あなたがそう言っていた、ということは私からお伝えしておきますので、まずはゆっくり休んでください」
「あ……はい。ありがとうございます」
綾世は二人の前に立ち、景と理人を見比べる。そして、それぞれの肩に手を置いた。
「オメガ同士で番うということは、易しいことばかりじゃないかもしれませんね」
「ええ、分かっています。覚悟の上です」
と、景が迷いない口調でそう言った。理人もまた、傍らに立つ景の横顔を見つめながら、深く頷く。
すると綾世はたおやかな笑みを浮かべて、ぽんぽんと力を込めるように肩を叩いた。
「お二人は大丈夫そうですね。もし何か困ったことがあれば、いつでも気軽に私を頼ってください。相談に乗りますよ」
「はい……! ありがとうございます」
力強い言葉が、じんわりと全身に染み渡る。
理人は景とともに、深々と頭を下げた。
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