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epilogue

  「へぇ、夜神の家に戻れたのか。良かったじゃねぇか」 「ええ、ありがとうございます」  数ヶ月後。  夕方、ひとり中庭で休憩をとっていた景は、芦屋とばったり出くわした。  季節はすっかり冬めいて、吐く息もふわふわと白くなってくる時期だ。しかも今日は朝からぐっと気温が下がり、日が陰ったこの時間は、凍てつくように冷え込んでいる。そんな日に、外で休憩を取ろうとする人間など自分以外にはいないだろうと思っていた。  なので、芦屋がふらりと現れた時、景は素直に驚いてしまった。芦屋もまたぎょっとしたような顔で景を見つめていたけれど、無視するのも憚られたのか、静かな足取りで景のそばへやってきた。  そして、並んで缶コーヒーを飲んでいる。 「……理人くんとは、仲良くやってんのか?」 「ええ、おかげさまで。彼もすっかり元気ですよ」 「そうか、何よりだ」  芦屋は笑みを浮かべたが、その横顔は暮れゆく冬空の色と同じくらい寂しげだった。景はそっと目を伏せる。  すると、芦屋がぽつりと、こう呟いた。 「……俺は、本当に、お前には何もしてやれなかったな」 「え?」 「お前を助けてやりたかったけど……俺は何の役にも立てなかった。権力もなけりゃ、家柄もない。お前の隣にいるために必要なものを、俺は何一つ持ってなかったってことだ」 「……いいえ、そんなことはありませんよ」  景はからっぽになった缶を手のひらで弄びながら、しっかりとした口調でそう言った。しかし芦屋は「慰めてもらわなくて結構だぜ」と言う。景は首を振った。 「芦屋さんは、俺を大事にしてくれた。先輩後輩としての距離をきちんと保って、俺にいろんなことを教えてくれた」 「……そんなの、当たり前のことじゃねーか」 「俺のまわりには、当たり前のことを当たり前に行うアルファなんていなかった。どいつもこいつもオメガを食い物にして、権力を振りかざして、都合の悪いことからは逃げ回る……クズみたいなアルファばかりだったんですよ」 「……」 「でも、芦屋さんは違った。あなたと仕事をしている時間は、安心できた。……結構、楽しかったですよ」 「夜神……」  芦屋は顔を上げ、景の方を見た。  その時ちょうど、庭の水銀燈がふっと灯って、二人の顔を明るく照らした。庭に明かりが入った途端、黄昏時の薄闇がさっと消え、何だか急に現実感が戻ってきたような感じがする。  それを合図とするように、景はいつものように勝気な笑みを浮かべた。 「芦屋さんには、俺以上のオメガを見つけて欲しいものですね。まぁ、そうそう現れないとは思いますが」 「はっ……はぁ? なんだその自信は。言っとくけどな、俺はこう見えて結構モテるんだよ。お前みたいなクソ生意気で可愛げのないオメガなんて、こっちから願い下げだったんだ」 「へぇ、そうなんです?」 「ええ、そうなんです。……お前の顔がちょっと好みだっただけだ。蓋を開けてみりゃ、口答えは多いわ面の皮は厚いわで、たまったもんじゃなかったよ。俺はな、素直で可愛い子が好きなんだ」 「……ふふっ」  芦屋が踏ん反り返ってそんなことを言うものだから、景は思わず笑ってしまった。景の笑顔を見てつられたのか、芦屋もまたふっと吹き出し、ふたりでしばらく声を立てて笑った。 「……さて、可愛げのない俺は仕事に戻りますよ。今度はあたたかいところでコーヒー、おごってくださいね」 「いやだね」 「ケチ」  そう言いながら空き缶をゴミ箱に放り、景は黒いコートのポケットに手を突っ込んだ。そして芦屋に軽く会釈をし、そのまま庁舎の中へと戻っていく。  その後ろ姿を、芦屋はずっと見つめていた。 「……ほんっとに……かわいくねーやつだったよ、お前は」  芦屋がこぼした小さな呟きは、白い吐息とともに、冴えた夜空へと消えていった。  + 「へぇ、芦屋さんと会ったんだ」  ことん、と目の前に出されたオムライスは、あちこち卵が破れていて、ちらちらとケチャップライスが顔を出している。破れてはいるものの、卵は景好みにふんわりと半熟で、鼻腔をくすぐる美味そうな香りが食欲をそそる。  景はきちんと手を合わせ、「いただきます」と言った。  二人で暮らし始めて、まだひとつきほど。毎日のように理人と食事をとり、寝起きを共にすることのできる今の生活は、景にとって何にも代え難い宝物のような日々だった。  家事は手の空いた方がするというゆるいルールを設けただけだが、不思議と二人の生活はうまく回っている。新しい生活を得たと言うよりも、元に戻ったと表現するほうがしっくりくる。それほどまでに、理人との暮らしは幸せなのだ。 「芦屋さん、元気してた?」 と、向かいに座りながら理人が尋ねた。景はもぐもぐ咀嚼していたオムライスを飲み込んで、「うん、元気なんじゃない?」と答える。 「元気なんじゃない、って何だそりゃ。適当だなぁ」 「そんなにゆっくり話してないしさ。……オムライス、美味しい」 「あ、ありがと」  素直に景が賛辞を述べると、理人は照れ臭そうに頬を染めた。たったそれだけのやりとりがむずがゆいほどに幸せで、景の顔も思わず緩む。 「そういえば、父さんがまた食事に来いって言ってるんだけど、どうする?」 「えっ、まじで。緊張すんなぁ……」 「確かにね。やめとこっか?」 「いやいやいや、行こうよ。次は景だって、もっと素直に話せるかもしれないじゃん」 「うーん」  ふた月ほど前に、景は理人を伴って、実に十五年ぶりに夜神の本宅を訪れたのだ。  どっしりとした門構えの豪邸を前にすると、『夜神家にふさわしい男になれ』と厳格に躾けられてきた思い出が脳裏を巡った。そして、あの忌まわしい事件の直後、一度ここへ運び込まれた時のことも。  ともすれば、すぐにでも回れ右をして逃げ帰りたい気持ちになった。だが、景はそうすることができなかった。  なんと、両親が直々に二人を出迎えに出てきたのである。  二人は目に涙を浮かべて景に歩み寄り、噛みしめるように「おかえり」と言った。  プライドの高い父と、何でも父の言いなりだった若い母。  昔は、そんな両親の力関係に、疑問ばかりを抱いていたものだった。子ども心に、こういう番にはなりたくないと思ったこともあったけれど、十五年ぶりに見る両親は、なんだか雰囲気がとても似ていて驚いた。ふたりが親しく暮らしていたことを表すかのように、表情や所作までそっくりだった。  景をおずおずと抱きしめる母は、景よりもずいぶんと小柄だった。幼い頃は見上げていた母の顔を、今は見下ろす格好になっている。ぽろぽろと白い頬を濡らしながら「ごめんね、景。本当にごめんなさい……!!」と謝罪の言葉を口にする母親を、景はそっと抱き返す。懐かしい匂いに、鼻の奥がツンと痛んだ。  父は、厳しい顔をしていた。  母親と同様、昔は見上げるように大きかった父親とも、目線の高さがあまり変わらなくなっていた。  身長が近づいたから、気づけたのか。父の瞳には驚くほどに情がこもって、真一文字に結ばれている唇はふるふると震えていた。白目はうっすらと充血し、目から感情が溢れ出してしまいそうに見えたのだ。激しさと繊細さがないまぜとなった父の表情に、景もまた、父の苦しみを感じた気がした。 「……ただいま」  父親は、景から目をそらすことなく、景は言った。  すると父は深く頷き、「……大きくなったな」とだけ口にして、ぎゅっと景と母親を抱きしめたのだ。  その時の自分が、どいう顔をしていたかは思い出せない。ただ、ようやく、自分は全てを取り戻すことができたのだと感じた。  痛いほどに強い父の抱擁を受けながら、景はそっと目を閉じる。  頬を滑るのは、一筋の熱い涙だった。  両親との再会の瞬間、理人は景以上に泣いていたものだった。  その時のことを思い出すと、ひときわ理人の存在が愛おしい。景は食べ終えた皿を洗った後、ソファで膝を抱えている理人の隣に腰を下ろした。 「父も母も、理人のことをすごく気に入ってるんだ。緊張する必要なんてないよ」 「う、うん……そうだな」 「息子が一人増えたわねって、母さん喜んでたし。俺もすごく嬉しかったな」 「……うん、俺も」  そっと肩を抱くと、理人はすとんと景のほうへ体重を預けた。柔らかな髪に頬ずりをしていると、くすぐったそうに笑う理人の吐息を感じる。 「今日病院行ってきたんだけど、カウンセリングは一旦終結、だってさ」 「え? そうなの?」 「うん。色んなことありすぎてドタバタしてたけど、それが逆に良かったのかもって、先生が」 「へぇ、そんなこともあるんだ。……一時は俺のせいで発作起こさせたりして、申し訳なかったけど……」 「ううん、いいんだ。今、俺、すげー幸せだもん」  景の腕の中で、上目遣いにこちらを見上げる理人の愛らしさに、拍動はばくばくと急上昇だ。  すぐさま景は、ぎゅっと理人を抱きしめる。  ぎゅうぎゅうと、力いっぱい。 「ちょっ……馬鹿力で抱きつくなって! くるし……っ」 「理人、可愛い。愛してるよ」 「わかった! わかったからっ! ……も、苦しいからやめろって!」  ジタバタ暴れるけれど、理人は景の腕から逃げていかない。  すると、今度は理人が景の首にするりと腕を回して、ちゅっと唇にキスをした。 「ねぇ、景。俺、明日休みなんだ」 「へぇ、奇遇だな、俺もだよ」 「……知ってる」  理人は妖艶に微笑んで、今度はゆっくりと、色っぽいキスで景の唇を塞ぐ。  景がしっかりと理人の腰を抱き寄せると、さらにキスが深くなり、二人の吐息が熱くなる。 「……愛してるよ、俺も」  キスの隙間で、理人がそう囁いた。  そうして素直な愛を言葉でもらうと、胸の奥がぽっと熱くなる。  外は凍てつくような寒さでも、こうしていればあたたかい。  互いのぬくもりに包まれながら、ふたりは飽きることもなく、確かな愛を伝え合うのだった。 『Forgiveness』 ・  終

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