1 / 18
第1話
しなやかに胸骨にまとわりつき、そこそこに鍛え上げられた胸筋の上を、白く細い指が滑る。その細い指先にある自己主張の激しい赤い爪は、自分の上に跨る女の姿をそのまま表したようだ。わざとらしい喘ぎ声を上げながらしきりに体を揺さぶる姿を、皇 伊吹 は無表情のまま見つめていた。
先程までホテルのバーで酒を飲んでいた。そこでこの女に声を掛けられ、特に何を話したか覚えていないが、自分の部屋に行こうと誘われてベッドに雪崩れ込んだ。これは久しぶりに飲んだ酒のせいだ。20代前半の頃はこんなことを毎日のようにやっていたが、30代も半ばを過ぎた今は、そんな性生活もなりを潜めた。ところがやはり酒を飲むと悪い癖が出てしまうようで、気付いた時には女は自分の上にいた。
女も、酒も、久しぶりだった。
まぁ、どうせもうこの一回で会う事もないのだから…と思えば、女が勝手に自分の性器を咥えていようと、抵抗する気も起きない。流されるままに女に自分の性器を持たれ、女の秘所へ挿入をさせられても、それなりの快楽を得るだけで、心が動くことは微塵もなかった。
こんなにつまらないものだったか・・・さっさと吐き出して帰ってしまおう。
伊吹は女の細い腰を掴むと、下から乱暴に腰を打ち付けた。自分の割れた腹部のその更に下の方で、女は先ほどよりも大きな声で鳴いた。恍惚と言える表情を浮かべ、伊吹を見下ろしている。
・・・うるさい女だ。
いつの間にか、伊吹にとってセックスとはそういうものになっていた。
◆◆◆
賭けなんてしなければよかった。
顔に色んな方向から手が伸びてきて、あれやこれやと触られる。「目を閉じて」と言われたり、「口を薄く開けて」と言われたり。指示されるがままに蓮見 永遠 は顔のパーツを動かせる限りは動かした。髪も何をしているのか分からないが、ぐいぐいと引っ張られている。
これは少し痛い。
目を開けてもいいという許可が下りたので、重たくなった瞼をゆっくりと押し上げる。目の前の鏡に映る自分の姿は、彼これ1時間前にここに座った自分とは、性別までも変わってしまったようだ。
それを横でずっと見守っていた友人の神部蘭子が、笑いながら「いい、いい!最高!」と言ったが、永遠は全く喜べなかった。
何が良いものか。
男である永遠に「私が編集する女性ファッション誌のカバーガールをやってよ。」と蘭子が言い出した。それも一緒に飲んでいた居酒屋で、浴びるほど酒を飲んだ後にだ。間髪入れずに「やだよ。」と拒否した永遠だったが、蘭子は酔っていた事もあって、いくら永遠が嫌だといっても全然諦めなかった。
いや、元より諦めが悪い性質ではあったか。
「やってよ」「やだよ」のいたちごっこに、一緒に飲んでいたもう一人の友人が「じゃあ、賭けで決めれば?」と無責任な事を言った。「乗った!」と言ったのは蘭子だけで、永遠は「俺が勝っても何の得もない」と反論した。蘭子が「じゃあ、永遠が勝ったら今日は私が奢るわ」と言うので、「それならまぁ」と妥協したのが間違いだった。賭けと言えどとても簡単なコインゲームで、表が出れば蘭子の勝ち、裏が出れば永遠の勝ち、という昔ながらの単純な賭け事だった。
心のどこかで、「負けたとしても本当に雑誌の表紙になる事なんかないだろう」と永遠は思っていた。酒の回った酔いの席だ。次の日には忘れているか、冗談で終わっているかのどちらかだ。勝てば奢ってもらえるのだったら、損はないと思った。
だが、友人が親指で弾いたそのコインは、残念ながら表を向き、蘭子が酒を煽って喜んだ。「約束忘れないでね!」と蘭子に肩を叩かれて、心の中で舌打ちをしながら「あぁ」と短く返事を返した。
先述したとおり、冗談か、忘れるだろうと思ったのだ。
なのにそれから一週間ほどして蘭子から電話があった。その頃には永遠も、そんな約束をしていた事はすっかり忘れていたのだが、蘭子はしっかりと覚えていて「明日撮影するからスタジオまで来て」と言うのだ。何のことか分からないという反応をしたが、蘭子に「この前の賭けで負けたでしょ」と言われてサッと血の気が引き、「あれは飲んだ勢いで言った冗談でしょう」と誤魔化したが、蘭子は「そんなわけないじゃない。約束は守ってね。」と言った。
こんな事になるなら賭けなんてしなければよかった。
永遠は今回の件でそれを嫌という程痛感する事になったのだ。
衣装を着替え、カメラとライト、レフ版が向き合う場所に永遠は立たされた。
「蘭子、俺ポーズとか絶対とれないんだけど。」
「平気、平気。プロのカメラマンがちゃんと撮ってくれるから。永遠は立ってるだけでも絵になるから問題ないのよ。」
蘭子がそう言うとカメラマンの男が苦笑を浮かべながら「期待に応えられるように頑張ります」と言った。このカメラマンは蘭子が勤める出版社と専属契約をしているプロのカメラマンのようで、蘭子と仕事をするのが初めてではないのだろう。蘭子や他のスタッフとも親しげに話をしていた。だからカメラマンとしての腕を知っているし、それ故に永遠にも無理なポーズを求めてくることはなく、唯一、永遠にとって幸いなことだった。
「それにしても蓮見さんって本当に女の人みたいですね。」
永遠にカメラを向けて幾度となくシャッターを切りながらカメラマンが言った。
「でしょ。化粧のおかげもあるけど、永遠は元々線が細いし、顔の作りも体の隅々の造形も男っぽくないのよ。大きさも長さもある分、素の時に女に見える事はないけど、化粧をして衣装も来ちゃえば女にしか見えないわよね。」
「誉め言葉ではないよね」
「そう?でも雑誌の表紙なんてそうそうなる事ないじゃない。いい経験でしょ?」
蘭子がおどけたように言うが、永遠には笑えない。
「モデルになりたいわけでもないのにいい経験も何もないよ。それに、どうせなるなら女性誌じゃなくて男性誌の表紙だったら良かった。」
「それは無理よ。永遠は男の人がなりたい理想の男ではないもの。」
失礼な。
永遠は怒りはしないものの、率直すぎる蘭子の意見に少しだけ傷ついた。
自分の容姿が「男性が憧れる完璧な肉体」と到底呼べない事は自覚済みだ。それでも早朝や仕事の合間にランニングをしたり、家でお風呂上りにストレッチをしたり、筋トレをしてみたり、そんな細やかな努力はしている。それが全く身にならないのは体質の他の何物でもない。肌が白いのも、特別なスキンケアをしていないのに肌質が良いのも、キメが細かいのも体質だ。
そのせいで蘭子にこんな事を強要され、まんまと賭けに負けて何人もいる大人たちの前で恥をさらしている。
元を正せば自分が悪いのか。
一瞬そんな事を考えたが、やはり、男に女装させてでも雑誌の表紙に使いたいという、蘭子の突飛な考えが悪いのだと思い至る。
「永遠、少し左向いて。」
真剣な蘭子の眼差しに、永遠は抵抗することは諦めて言われるがままに左を向いた。大きな扇風機のようなもので向かい風を浴びると、ロングヘアのウィッグが風に靡いた。髪をぐいぐいと引かれていたのは、ウィッグを付けた時に地毛が遊んでしまわないように押さえつける為だったと、これを着けられる時に知った。
カメラマンがシャッターを切る音。
永遠を見つめる者たちの感嘆の声。
そんな音が室内に響く。
目の前にいるのは、男でも女でも、人間でもない。
それは誰も知らない何か。
ただただ見る者の心を奪う、天使のようで悪魔のような何かだ。
そんな掴めない不思議な感覚に囚われていたのは、蘭子や編集部のスタッフに留まらず、偶然立ち寄っただけのその男の目にも、永遠は美しいものに見えていた。
ともだちにシェアしよう!