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再会の時 出逢いの時
「久住 先生、お客さんがいらしてますよ。元生徒さんですって」
女性事務員に告げられて久住湊 が職員室の入り口に目をやると、スラリと背の高い、ダークネイビーのスーツ姿の若い男が目に入る。
一目見て、それが誰だか湊 には分かった。
「──まさか……本当に来たのか」
驚きすぎて思わず声に出てしまう。
「はい?」
湊の独り言に事務員が不思議そうに尋ねる。
「──いえ、ありがとう。会ってきます」
動揺を隠すように言い、席を立ち若い男に向かって歩く。
肩まである、明るい栗色でウエーブのかかった髪は高校生だった頃と変わらない。
今は後ろで綺麗にひとつに束ねられている。スーツ姿ということは少しは畏 まる必要があったのかもしれない。
一見アンバランスなその組み合わせをもってしても、サマになっていると思わせる雰囲気と容姿だった。
「久住先生、お久しぶりです」
彼、水上太樹 は湊の目をまっすぐに見て落ち着いた声で言った。
「久しぶりだな水上 。元気そうで良かった。卒業は三年前……だったな」
「そうだよ、ちゃんと覚えててくれたんだ……ねえ先生、ちょっと外歩かねえ?」
挨拶が済むと、太樹 は途端に砕けた口調になり湊を誘う。表情まで一瞬で学生の頃に戻ったかのようだ。
その極端さに湊は懐かしさを覚えて苦笑しながら頷いた。
花曇りの午後4時。校庭では運動部が部活動を行っている。
丁度、桜が満開を迎える4月の上旬の今日、もうどの木も桜色を誇 っていた。
校庭を囲むように植えられた桜の樹の下を湊と太樹は歩く。
二人並ぶと湊の目線は太樹の肩辺りに来る。入学したばかりの頃の太樹は湊よりも背が低かったものだが。
太樹は湊にとって、特別な生徒だった。だからそんなことも鮮明に覚えている。
「先生、全然変わんないな」
「水上は随分、大人っぽくなった」
今年で21歳になるはずだ。若い事に変わりはないが高校生の太樹しか知らない湊には、服装を差し引いても学生の頃に比べれば随分と大人びて見えた。
「そう?でも俺、スーツ似合わなくね?」
太樹が湊に向き合って披露してみせるように両手を広げた。
「まあ思ったよりは、マシだな」
「それ、褒めてんのかけなしてんのか、どっちだよ」
太樹は笑って続ける。
「今日は店長のお供で本社行って来たんだ。店ではもっとラフな格好だから今日は特別なんだよ。だから今日来たんだ」
「本社?店?」
湊は太樹の近況を知らされていない。
高校卒業後、音楽関係の専門学校に進学すると本人から聞いていただけだった。その後、今日まで太樹からの連絡はなかった。
「俺さ、高校の時からずっとバイトしてた楽器店で4月から正社員になったんだ。ついこの間だけどね」
太樹が、ひときわ大きな桜の樹の下で立ち止まる。太い幹に手を掛けると懐かしむように樹を見上げる。
「専門学校卒業してから、どうしても音楽や楽器に携わる仕事したくてこだわってたらすぐには就職決まらなくてさ、一年間就職浪人だったんだ。そしたら今のとこの店長が本社の人事部に推薦してくれて運良く就職できちゃった」
湊はそっと息を飲む。これから太樹が何を言うのか想像できたからだ。
「俺ちゃんと社会人になったよ。それから、恋愛もしたよ?真剣に付き合って……真剣に別れた。──先生の出した課題はクリアだろ」
「うん……そうだな」
太樹は入学したての頃から卒業までずっと、湊の事を好きだと言い続けていた。
教師という立場の湊には生徒で、しかも同性の太樹を恋愛の対象にするわけにはいかなかった。好き嫌い以前の問題だ。
それに太樹の想いは一過性のものだと思っていた。
毎日顔を合わせる事がなくなり、普通に恋愛をすれば、すぐに忘れて遠い記憶になるだろうと。
だから条件を出したのだ。成り行き、だったけれども。
「じゃあ俺、遠慮なく先生のこと口説くけどいいよね?っていうか今、恋人いないんだろうな」
太樹はもう桜を見てはいない。熱のこもった瞳で瞬きもせず、じっと湊を見つめていた。
その目は卒業から三年経っても、なお変わっていない想いを語っていた。
「……いないよ」
「結婚は?」
「してないよ。……あのな、水上」
湊は質量を感じるような視線に耐え切れず目線をそらしながら言った。
「俺は、クリアすればお前の気持ちに必ず応じる、とは言ってないぞ」
太樹はあっさりと頷いた。
「分かってるよ。スタートラインに立っただけだろ。だから口説くって言ってるじゃん」
太樹のあまりにも自信に満ちた物言いに、湊は告白というより宣戦布告を受けたように思えた。
「ねえ。湊って、呼んでいい?」
太樹の声がトーンを落として低く響く。
「良いわけないだろ、いきなり呼び捨てかよ」
傍若無人な太樹のペースに飲まれ湊の語気も荒くなる。
それを聞き、まるで怒らせた事が嬉しいように太樹が言う。
「湊さんならいい?苗字呼ぶと、癖で先生って言いそうだから嫌なんだよ」
太樹は先生と生徒の立場をひきずるつもりはなかった。なかった事にしたいわけではない。
けれど力関係がいつまでも先生と生徒のままだと湊に迷いを与えてしまうようで嫌だった。
対等な関係になる事、それが湊の恋愛範囲内に入るための課題だったのだから。
「俺の事そんな風に呼ぶ奴、誰もいないぞ……」
「それ俺だけ特別みたいじゃん、すげーいい。もう絶対、湊さんって呼ぶ」
そのとき突風が桜を巻き上げるように駆け抜ける。
桜吹雪に包まれ、太樹が湊に微笑みかける。
「やっぱ湊さんは桜が似合う。色っぽくて……襲いたくなる」
高校生の頃にあった少年っぽさが影を潜めた今の太樹の方がよっぽど妖艶だと湊は思い、そして無意識に一歩後ずさった。
その様子に太樹は笑う。
「はいこれ、俺の名刺。仕事用じゃないよ。湊さんも後で連絡先送って」
それから、太樹はまだ店で仕事があると言って帰って行った。
残された湊は春の嵐に翻弄された後のような気持ちで立ち尽くしていた。
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春の日差しの降りそそぐ、暖かで穏やかな日だった。
公立桜川 高等学校入学から一週間ほどたった昼休み。
水上太樹 は窓際の自分の席で、机の上に足を投げ出した行儀の悪い格好で音楽雑誌を眺めていた。
五つ離れた兄の影響で太樹は小学生の頃からベースを弾いている。中学では軽音部だったし、高校でも軽音部に入部するつもりでいた。
窓際は暖かすぎて眠くなる。
その姿勢のまま眠りに落ちそうになって太樹は頭を振った。そのまま雑誌には目をやらず眠気覚ましに窓の外を見る。
太樹のクラス、一年三組の窓からは遮 る物もなく校庭がよく見渡せた。
校庭のやや変形した長方形に沿ってほぼ隙間なく桜が咲き誇っている。
その中で球技をする男子やベンチで昼食を取る女子らが見えた。
少し遠くに白衣のポケットに手を入れて桜を見上げながらゆっくりと歩く人影があった。
誰だか分かった途端、目を逸らせなくなった。数学教諭の久住湊 だ。
太樹の心臓がドクドクと心拍数を速める。
──初めて教室で見た時にもそうなった。何故かは分からない。
入学式の日に教室で担任になった物理学教諭の自己紹介の後、副担任として紹介された湊は担任に比べて遥かに若く見えた。事実若く、25歳ということだった。
太樹とは10離れていることになるが、童顔な湊はとてもそうは見えない。兄と同じ位にしか見えなかった。
自己紹介の際に桜が好きだと言っていたので今は散歩がてらに桜を見ているんだろう。
湊はひときわ大きな桜の木の下まで行くと、その幹に手を掛けて見上げている。
無防備にも見えるその姿を目にして太樹は、訳も分からず教室を飛び出していた。
一年生の教室は一階にあるのでまっすぐ昇降口を目指し、上履きのまま校庭を突っ切って走り、湊の元にたどり着いた。
百メートル以上を全力疾走して、全身で息をつきながら太樹は言った。
「……く、ずみ先生っ……何っ……して、んの……」
突然、弾丸のように視界に飛び込んできた生徒に湊は目を丸くしている。
「いや……お前こそ何してんのって感じだけど……」
とっさの出来事に判断が鈍ったのか湊はあまり教師らしくない口調で答えた。
それが大樹にはやっぱり先生というよりも兄の友人のような親しみを感じる。
その時ひときわ強い東風 が二人の間を駆け抜けていった。
湊の着ている白衣の裾がはためいて艶やかな黒髪が乱れる。サラサラと音が聞こえてくるようだった。
きらめく木漏れ日、舞い散る桜色。それらに囲まれる湊は目を奪われてしまうほど──綺麗だった。
少なくとも太樹の目にはそうとしか映らなかった。
太樹はまだ荒い息を弾ませながら、この人は自分にとって特別なんだと確信した。
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