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現在と過去の不安

 太樹(たいき)の勤めるハネヤマ楽器店は、主に都内に店舗を持つそれなりに大手の楽器店だった。  ──結構な大企業だよな。  勤め先を知った時に(みなと)はそう思った。太樹は軽い事のように言ったが、店長の口利きだけで簡単に入社出来るものとも思えなかった。  ──あいつは自分の進みたい道を実直に進んでる。  立派に社会人やってるじゃないか。素直にそう思う。  金曜日の午後7時。  人で道を洗う人混みの中、その店の前に湊は立っていた。今夜飲みに行こうと太樹に誘われたのだ。  太樹のいる店舗は高校から三駅先の大きな駅前の繁華街にある。 「今週の金曜、店に来てよ。近くに行きつけあるから連れてくよ」  突然電話が掛かって来たのが、太樹と学校で再会してから一週間後の月曜の夜だった。  店の前で待ち合わせだったが太樹の姿はない。まだ仕事中ならどこかに見えないかと、通りから入り口を覗くが6階建ての建物一つが丸々自社ビルの店舗だ。ちょうど見える所に居るという可能性も低そうだった。  道端に突っ立っている湊の背に、この時刻から早くも千鳥足(ちどりあし)のサラリーマンがぶつかって来てよろけた。 「すみません」  口早にそう言い湊は身を引いた。サラリーマンは何か聞き取れない言葉を吐きながら去っていく。  ここでこうしていても邪魔になるだけのようだった。  店内に入って太樹を探そうかと考えていると、後ろからいきなり肩を抱くように引き寄せられた。 「なーにしてんの」  湊は今度こそ酔っ払いに絡まれたのかと思い、身を固くして恐る恐る振り返る。だがそれは、ニヤニヤと笑みを浮かべた太樹だった。 「あれ、なにその不審者見るみたいな目。傷つくなぁ」  太樹と分かると安堵と共に怒りが湧き、湊はそっけなく肩の手を振り払う。 「こんなことすんのは十分不審者」 「ひでえ」  太樹は笑いながら背後を親指で示す。 「これから行く店こっち。はぐれないでよ」  今日の太樹の格好はスーツ姿ではなく黒いジーパンに麻のシャツという動きやすそうな服装だった。ベースの入ったケースを背負っている。  後ろからついて行きながら湊はそのケースに目をやる。 「まだベース続けてるんだ。いつも持ってるのか?」 「まあ、大体。店でも終わった後とか音出せるし、急にスタジオ入る時もあるから。あ、そうだ。今組んでるバンドさあ、だいたい月一でライブやってるんだ。見に来てよ」 「行けたらな」 「来た方がいいと思うけど?」 「なんで?」 「俺がめっちゃ格好いいから。見たら惚れるよ、わりと本気で」 「それ得するの水上だけだろ」 「湊さんだってお得だよ。イロイロと」  突っ込みたい気持ちは山々だったが、触れてはいけない話題だと感じ取った湊は聞き流すことにした。  そこから十分ほど歩いたところで目的地に着く。  入り口に『ダイニングバー桜ノ音(さくらのね)』と小さなスポットライトを当てた店の看板が吊るしてあった。  太樹は慣れた様子で中に入っていく。  カウンターが八席、ボックスが四席のそれ程広くはない店内だった。  半分ほどが客で埋まっている。  店名から和風な内装かと思わせるが特にそうではない。ただ、目を見張るのは壁に作りつけられた収納だ。そこに何千枚はあろうかというレコードがびっしりと並んでいた。マスターの趣味を兼ねているんだろう。 「いらっしゃいま……なんだ太樹か。最近遊んでないと思ったら、今日はえらい美人さん連れてきたな」  四十路手前ほどに見えるマスターがカウンター越しに親しげな声を掛けた。  カウンターの一番右端に湊を座らせ太樹は隣に座る。 「おっさん余計なこと言わないでくんね?湊さん。あれ、ここのマスター。マスターこの人、高校時代の恩師なんだから失礼なこと言うなよな」  湊は軽く会釈する。社交辞令程度のマナーは身につけたらしいが、どの口が恩師だなんて言うのかと湊は腹の中で毒づいた。 「太樹、とうとう本命か?」 「聞こえてた?だから黙ってて?で、俺はジントニックね、湊さんは?」 「同じのでいい」 「じゃあ、ジントニック二つと適当に食べる物」  目の前にグラスが二つ置かれる。太樹がグラスを持って湊のそれに軽く触れる。 「じゃ改めて、湊さんとの再会に乾杯ね」  一口飲んで湊が言った。 「ここ良く来るのか?」 「高校の時から来てるよ。店長に連れてこられてさ」 「高校生の時から!?」 「学生の時は酒飲んでねえって。だよねー」  太樹がマスターに同意を求める。 「どうだったかなぁー」  マスターはさっきの仕返しか意地悪く微笑むと、湯気の上がった数種類のソーセージにマスタードのたっぷり乗った皿を置いた。 「そういう問題じゃないだろ」 「ちょっと、湊さん」  太樹は少し険しい声になり身を乗り出して湊に近づく。 「もう先生と生徒じゃないだろ」  そして湊にだけ聞こえる低い声で囁く。 「ねえ、聞いて湊さん。俺の気持ちは変わらなかったよ?湊さんにとっては変わってて欲しかったのかもしれないけどさ。誰と付き合ってみても、あんたより好きになれる人間はいなかった。高一ん時の俺すごくね?やっぱ、湊さんしかいなかったんだよ」  太樹は(わら)った。湊に向けた優しい笑みではなく、自分自身を笑っているような自嘲的な笑い方をした。 「歳の差は埋められないから湊さんから見てガキなのは変えらんない。でも俺はもう、あのとき湊さんが言ってた意味の子供とは違うよ」  湊は何を言っていいか分からず、自然とうつむき手の中の空になったグラスを手持ち無沙汰にもてあそんだ。  自分は時間稼ぎをしていただけだったのだろうか。湊は思った。  六年前は立場の違いを引き合いにして──実際、湊にはあの時は何もすることはできなかったのだし──強引でも一線を引くことが出来た。  だが時間が経っても太樹の想いが変わりはしない事を本当はどこかで感じていたんじゃないのか。  いま隣にいる男は、そんな事は最初から分かっていて自分に合わせて待っていた、湊に逃げる口実がなくなる日が来るまで……そんな気がしていた。  不意にグラスを取り上げられて湊は我に返る。 「高校卒業してからの三年間さ、俺も色々考えたよ。湊さんが言うように期間おけば冷めるのかなとか。どっちにしても、もう一度会いに行くのは就職してからだって決めてはいたけど。会わない間に、あんたのこと忘れられるかもしれない……そう考えたことはあった」  グラスをテーブルに置いて、太樹が湊の目を見つめた。 「結果は見ての通りだよ。湊さんは?──俺のこと好き?嫌い?」  静かに太樹が尋ねる。あの時と同じ質問だ。 「お前のことが──怖いよ」  湊は言いながら違う、と思った。  はっきりと拒絶をしない自分、自分が変わってしまいそうな予感。……本当に怖いのは太樹ではなく自分自身だ。 「湊さん。それ答えになってねえし、怖いってなんだよ?」  太樹はただ笑う。そして言う。 「俺と付き合えよ。怖くなくなるまで、一緒に居ればいいじゃん」 「そんな簡単に出せる答えじゃないだろう……保留だよ」  ──詭弁(きべん)だ。湊の中で声がする。  本当は六年間も先送りにしてきた返答だ。即答できて当然の期間は与えられていた。  確かに卒業後のブランクに再会はない可能性もあったし、その(かん)太樹のことばかり考えていたはずもない。  けれど、条件を満たせば真剣に考えると仮にも約束はしてあったのだ。実際会わない間、全く意識しなかったわけでもない。  それでも今すぐに答えを出せと、そう言われてもやはり湊には無理だった。  気詰まりな空気を払拭(ふっしょく)するために、今の湊には杯を重ねてやり過ごすしかなかった。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  ぐったりとして意識があるのかないのか分からない身体を湊のベットに降ろして、腕組みで見下ろしながら太樹は溜息をついた。  一時間前、店を出る時に太樹は初めて気が付いた。湊がいくら飲んでも顔に出ないことを。会話の受け答えも違和感を覚えるほど酔っ払っているようには思えなかった。  随分ペースが早いなとは感じていた。だが湊と酒を飲んだことがない太樹には湊の普段の適量を知り(よう)がない。  だが店を出ようとスツールを降り立ち、そこで湊が一人では立っていられないほど酔っていたことが発覚した。  …………大変だったのはそれからだ。  湊は一人で帰れると言い張るが、太樹が支える手を離すと三歩も歩かずにゆるゆるとしゃがみ込んでしまう。気分が悪いわけではないようだが、何度やっても座って動かなくなってしまう。典型的な手の掛かる酔っ払いだった。 「もう、タクシーで送るから。住所どこ?」 「……教えない」 「あぁ?じゃあ家のある駅は?」  湊はふたつ先の駅を素直に答えた。その辺が酔っている証拠だろう。  大通りでタクシーを拾い、そこでも乗る乗らないで一悶着したが、力づくで太樹が後部座席に湊を押し込め、自分も乗り込んだ。運転手へ行き先の駅名を告げる。 「なんで水上まで着いてくるんだよ」 「あんた一人で帰れないからだろ」 「大丈夫だってば」 「放っておいたら一歩も歩かねえだろうが。こっちは下心あってやってんだから黙って介抱されてろ」  前方で運転手が吹き出した。 「お兄さん(いさぎ)いいね。『下心なんてない』なーんて言ってるお客さんは良く見るけどさ」 「まあね」  バックミラー越しに目の合った運転手に太樹はニヤリと笑った。前方でまた吹き出す声がした。  それにホントのことだしな。と太樹は心の中で付け足す。運転手は冗談だと思っているようだったが。  駅前に着くとタクシーを降り、太樹は誘導尋問を繰り返しながら帰り道を湊から聞き出し、ようやく湊の家を探し当て、今に至る。 「あのさあ湊さん。酒に強くないなら、こんなになるまで飲まないでよ」  太樹は聞こえているのか分からない相手にぼやいた。 「……お前のせいだ」  少しして返事があった。  湊の視線はぼんやりとしているが太樹をとらえていた。  太樹は枕元に腰を下ろした。湊を見下ろしながら、その艶やかな黒髪に指を絡ませる。 「そうなんだろうな。でもあんたに飢えてるの知ってて、俺の前でこんな風になるなんて軽率すぎるだろ?」  湊が(かす)かに笑った。 「水上は俺が本当に嫌がることなんてしないだろ」 「俺のこと信じてるって言いたいの?買い(かぶ)りすぎ。だいたい俺、前科あるじゃん」  そう聞いて湊は少し考えるような仕草で目を閉じた。 「あれは、卒業祝いってことにしてやる」 「ふうん、理由があればいいんだ。じゃあ家まで送った礼、もらおうかな」  湊の目が何か言いたそうにさまよう。結局なにも言わず太樹を見つめた。  太樹の指が、湊の額の上の髪をそっと払う。指を髪に沿わせゆっくりと、こめかみから耳へ移動させる。  くすぐったかったのか湊は首をすくめた。それを逃さないように太樹は手のひらで湊の頬を包み自分の方に向ける。 「湊さん、キスしていい?」 「……なんで聞くんだよ」 「答えが欲しいからだけど?」 「なんだよ、それ……」  太樹が身を乗り出し湊の顔の横で両手を着く。二人の距離が一気に縮まる。 「湊さんどうする?」  さらに太樹が近づき唇が触れる寸前で囁いた。 「ねえ、していい?」 「……そんなの答えられるわけ……ない」  追い込むように迫られて、回らぬ頭で湊に言えたのはそれだけだった。 「それってさ、少なくとも拒否ではないよね」  勝手に肯定と解釈した太樹の指が湊の下あごを持ち上げ、そのままくちづける。  触れ合うだけのキスを角度を変えて何度かした後に、太樹の舌が湊の唇を這う。  静電気に触れた時のように湊の体が反射的にビクリとした。  それを押さえ込んで太樹はなおも舌を這わせ、唇の境から湊の口内に侵入する。  逃げる湊の舌を追って一旦捉えてしまうと、意外なほど甘く絡みついてきた。太樹は呼吸を一瞬止め、それから(たが)が外れたように激しくその舌を貪った。 「……っ……は……あっ‥‥」  長い間、お互いの唇を求め合い混ざり合った雫が滴り落ちる頃、湊が太樹の体を押し返し(かす)れた声で言った。 「ダメだ。もう、これ以上は……」 「なんで?シたくなるから?」  湊は黙って太樹を睨む。 「はいはい、それは俺」  太樹は大袈裟に両手を挙げ体を離す。  そして「水ちょうだい」と言って勝手に台所に立つ。  水の入ったコップを持って戻ると「湊さんも飲む?」と見せる。  湊が気だるい仕草で頷くと、太樹は口の端を少し上げた。  おもむろに水を口に含み湊の口に押し付ける。 「ちょっ……ん‥‥…んんっ」  無理矢理に口移しで水を嚥下(えんげ)させる。口元から一筋こぼれた水滴を指先で拭って太樹は不敵に笑う。 「これはおまけ」  そのままベースケースを肩に掛けると 「じゃあ俺、帰るから」  湊がちらりと時計に目をやった。十二時を回っている。 「泊まれとか言うなよ。ノーガードのあんた相手に俺、これ以上我慢なんかできねえからな」 「……わかった」  そこまで言われて湊がそうとしか言えないでいると、また連絡すると言って太樹は部屋を出て行った。  ドアが閉じられる直前まで見つめていた太樹の背中をどこかで見たことがある気がする。ポコリと湧き出るあぶくのように、湊の頭に一つの情景が浮かんできた。  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  太樹(たいき)の卒業式は雨だった。  生ぬるい春の風が吹く、シルクのカーテンのようなきめの細かい雨の降る日だった。  太樹は式が終わった後、数学準備室に真っ直ぐに向かった。  約束なんかは何もしていなかった。けれど、確信に近い予感があった。  太樹は準備室の扉をノックする。一拍置いて中から「どうぞ」という声が聞こえた。体を滑り込ませて、後手でドアを閉める。  湊は窓の(さん)に腰掛けるようにして寄りかかっていた。 「卒業おめでとう。水上(みなかみ)」  太樹が湊の正面に立つ。入学直後、桜の木の下で突進して来た時は見下ろしていた視線が、いつの間にか見上げるようになっていた。既に湊と10cmは差があるだろう。 「先生、俺がいなくなったら、ちょっとは寂しい?」  湊はうつむいてしばらく言葉を探した。そして一番素直な言葉を口にする。 「ちょっと、じゃない。すごく寂しいよ。おまえ毎日毎日、騒々(そうぞう)しかったから」 「……良かった。ずっと通った甲斐があった」  つかの間、沈黙が訪れる。 「先生がそんな顔すんなよ」  言われて湊が顔を上げると、太樹が困ったような表情で湊を引き寄せた。 「おい、水上っ」  どんな顔をしていたというのか。湊は自分で分からない。  抱きしめられて、湊は太樹の胸を押して抜け出そうとするが、太樹は動かない。 「終わりじゃねえよ。俺、課題クリアしてまた会いに来るし」  至近距離で視線が交差する。  湊がまずいと思った時にはもう太樹にキスされていた。(かす)めるだけの一瞬だった。  その後ぎゅっと力を込めて抱きしめると名残惜しそうに太樹は湊を離した。 「──お前がいた三年間、本当に楽しかったよ。それは嘘じゃない。だけど俺のことは早く忘れた方が良いと思う。心配しなくても、もう毎日顔を合わせることはない。自然に……忘れるよ」 「──その顔で言われても説得力ないけどな」  今でさえこんなに憎たらしい言葉をさらっと吐いていく。本当に入学した頃に比べると男らしくなったと、湊は感じる。  さらに成長して再び自分の前に現れることになったら、その時、自分は拒み切ることができるだろうか。  出来ると言い切れない自分に湊は(おそ)れを抱く。  けれど卒業後、目まぐるしく変わるであろう彼と彼の周りの変化に飲み込まれ、今言ったように太樹は自分のことを忘れるだろうとも、半分は思っている。  だがどんな結果であれ、湊は残される側なのだ。時間が経ってみないと分からない。 「待ってて……って言える立場じゃないけど、追い掛けるから。次に会いに来た時は先生を貰うつもりだからね俺」  未来に何の不安も感じさせない強くて真っ直ぐな笑顔で湊を見つめると、太樹は深い角度で頭を下げた。最も深い感謝を示す際のお辞儀と同じだった。  顔を上げもう一度微笑むと、もう何も言わず太樹は湊に背を向ける。  ドアが閉まり太樹の姿が消えてからも湊はずっとその場から動かない。見つめ続ければ彼の未来が映し出されるかのように太樹の立ち去った場所に目をむけながら──。 ──そして湊の留まる高校での学生生活は終わりを迎え、太樹は卒業していった。

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