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発熱と自覚
入学早々、桜の樹の下で芽生えた淡い想いが、恋心だなんだと頭で考える前に太樹はとにかく湊と親しくなりたかった。
悩んだ末にやっぱり相手は教師なんだから、勉強を教えてもらいに行くのが正攻法だと考える。
ただ問題は太樹が数学を苦手だということだった。──数学、というよりも勉強全般といった方が正確だ。
苦手なのだから親密度も上げられて数学も理解できれば一石二鳥になるはずだけれども、そもそも太樹の動機は不純なものだ。正直言って真面目に数学を勉強はしたくない。
だが他に良い口実も思い浮かばなかった。
「太樹ー、部活行くぞー」
同じクラスの速水典人 に声を掛けられる。中学からギターを弾いているという速水は同じ軽音部だった。
声のした方を振り返って太樹は応えた。
「俺ちょっと遅れてくー」
「はぁ?また久住センセーんとこ!?」
速水は呆れた声を太樹に投げつけた。
特に勉強熱心にも見えない太樹がここ何日も、放課後になると数学教師の元へ向かうのが理解できないせいだ。
「じゃ、行ってくる」
怪訝そうな速水を置いて太樹は教室を出た。そのまま数学準備室に向かう。
放課後、湊は職員室より準備室に居ることが多い、というのが通って分かった事だ。
準備室のドアは閉まっていたがノックすると中から「どうぞ」と声が返ってきた。誰が来たのか分かっているような声だった。
「失礼しまーす」と声を掛けて太樹が中に入ると湊がやっぱりお前か、という顔で出迎えた。
太樹にとっては喜ばしい事だった。それだけ印象付けられているというわけなのだから。
「センセー数学教えて」
「教えるのは別にいいんだけどなぁ……」
プリントの山に囲まれた机から体ごと太樹に向き直り、湊が疑うような目つきで太樹を見つめた。
「お前、昨日出した宿題ちゃんとやってきた?」
「やったけど、分かんなかったよ」
真っ白なノートを見せながら太樹はしれっと笑う。
「それ、昨日やったところ全然聞いてなかったってことだろ。……毎日毎日、なにしに来てるんだよお前は?」
怒る、というより心底不思議そうに湊が尋ねる。
「……センセーに会いに?」
先生が好きだから、そう言い切ってしまうのは流石に太樹にも躊躇 われた。それよりも今はもっと近づきたい。
「なんだよ、それ」
「俺、先生ともっと仲良くなりたいんだよ」
太樹にはそれも嘘偽りのない気持ちだったので、そういう答えで気持ちを伝えるしかなかった。
そんな太樹の思惑など知らない湊はその様子を見て子供のようだと思い少し笑った。真剣な表情で何事かと思えば、その微笑ましい内容に。
「そうか」
和らいだ表情に太樹は嬉しそうに頷いた。
「そう!」
「でもな、先生と『お友達』にはなれないからな。ほどほどにしてくれよ」
「それって、もう数学教えてもらうの口実にしなくても話しかけて良いってこと?」
どうしてそうなるんだという思いと、あまりにも正直過ぎる言葉に湊は言葉を失くした後、声を上げて笑う。
生徒はもちろん教師もただの人なので、確かにたまに波長の合う生徒がいる。
この生徒はその手のタイプらしい。湊はそう思った。
「いいけど、毎回水上の相手ばっかりもしてられないからな」
けれど、たとえ好ましく感じても釘を刺すのを忘れない。むしろ相互関係が深まるほど距離感が必要になる。
「やった!」
後半の部分を聞いているのかいないのか、太樹はガッツポーズで喜んだ。
もう勉強を言い訳に使わなくて良くなった、そう考えると現金なもので太樹は胸のつかえが一気になくなり逆に羽が生えてきたように心が軽くなったのだった。それだけで今日の収穫は十分すぎる。
満足した太樹は今、自分のやるべきことを思い出す。
「じゃあ俺、部活行ってくるから。またね、先生」
そう言い残し慌ただしく太樹が出ていった後、一人残った湊はまだ頬に笑みを残していた。
副担任という立場柄、そこまで生徒と深く関わる事はないと思っていたが──。
今年は面白いのが入ってきたなと、先刻までの太樹を思い出してまた少し微笑んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日が過ぎた昼休み、太樹は速水や友人数人と学食へ向かう途中だった。
「──それで大橋 の奴、そのフレーズが上手くいかなくて素手でスネアのヘッドぶち破ったって」
速水が笑いながら話している。大橋は別のクラスだが同級生だ。やはり同じ軽音部のドラムで、今話題になっているのは彼の事だった。
「普段大人しいやつがキレるとやばいってマジな」
「絶対怒らせない方がいいよな」
そんなどうでもいい話で盛り上がり大笑いしながら廊下を歩いていると、教材の入っているらしいダンボールを抱えた湊の姿が目に入った。ちょうど突き当りを曲がる所で、すぐに太樹の視界から消える。
「悪りい、ちょっと先行ってて」
「え?おい、太樹?」
速水が後ろで声を上げるが説明ももどかしく太樹は走り出す。
「久住先生っ」
追い付いて湊を見上げる。そしてダンボールを指差した。
「それ俺が持ったげる!」
突然現れた太樹に湊は少し驚いたようで、それからゆっくりと笑った。
「じゃあ頼むよ」
湊はダンボールを手渡し、脇に挟んでいた教科書を手に持ち替える。
「これ職員室?準備室?」
意外と重い箱を落とさないよう腕に力を入れ、太樹は運ぶ場所を尋ねる。
「午後も使うから職員室だな」
「やった」
「何がだ?」
不思議そうに湊が太樹に目をやる。
「だって一緒に行けるから。準備室に片すなら方向逆だし」
確かに準備室に置いてきてもらう場合、これから職員室に戻る湊とはこの場で別れることになる。
「お前そんなことが嬉しいのか」
「え?嬉しいよ」
即答する太樹に湊は目を細めた。
「──ずいぶん懐かれたな」
まるで仔犬のようだ。思わず湊は手を伸ばして栗色の頭をぽんぽんと叩いた。
それが嬉しかったのか目を輝かせて湊を見つめてくる。
「ちょっと髪の毛、明るすぎないかー?」
あまりの真っ直ぐさに牽制するわけではないが、冗談めかして軽く指導も入れておく。
「あはは。センセー、上げて落とすなよ」
肩をすくめて太樹が笑う。
職員室の手前まで来て太樹は思い付いたように湊を見た。
「ねえ、先生って彼女いる?」
「えぇ?……ノーコメント」
「なんでー?じゃあ俺も言うから。俺はいないよ。つーか、いた事ない」
そういうことじゃないだろうと湊は苦笑する。
「先生は友達じゃないって言ったろ。大体なんでそんな事知りたいんだよ」
「だって気になんだもん。いいじゃん教えてよ」
口を尖らせ子供っぽいその表情を見ていると湊も仕方がないなという気分になってくる。
「まあ手伝ってくれた礼に教えてやってもいいか。というより言わない時点で察するくらいしてくれよ。いないんだよ」
「マジ?意外だね。先生、モテそうなのに」
それだけ綺麗な顔をしているのに。そこら辺の女子よりもよっぽど整っているのに──ああ、だからか。と太樹は勝手なことを考える。
「手の掛かるお前らのおかげでそんな暇はありません。ほら、もうここまでで良いから。ありがとな水上、昼飯まだだろ食べてこい」
言われて太樹もかなり空腹なことに気付く。湊と話している間はそんな事も忘れていた。
──そっか先生、彼女いないのか。
そして職員室から足取りも軽く学食へ向かう途中、思い返してふわふわした気持ちになる。
──彼女がいないからって、どうなるわけでもないのにな。
けれど、もし自分が告白したらどうなるんだろう。そう太樹は考えてみる。
先生だし大人だし男だし自分に有利な条件はなにも無いように思える。
ただ、今はまだそんなことまで望んでいない。自分の知らない湊のことをもっと知りたい、その想いの方が強かった。
──例えば先生の好みのタイプとか……
「遅っせー、太樹!」
食堂の入り口に足を踏み入れた所で名前を呼ばれて思考を中断される。
「悪りぃー」
太樹はテーブルの友人に手を振って応え、カウンターに急いだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
5月に入ってから晴天続きで気温も平年より高く、それは日に日に増してゆき、月末になる頃にはもう夏とほぼ変わらない暑さが訪れていた。
衣替え前だが制服のブレザーを着込んでいる生徒はほとんどおらず、太樹も制服はもちろん家ではクーラーに半袖かタンクトップという真夏とほぼ変わらない格好で過ごしていた。
それが6月になり梅雨に入ってから一転し、肌寒いというよりいっそ寒いと感じるような気候に戻ってしまった。
クーラーを付けることは流石になかったが、またすぐに暑くなると考えて面倒臭さが先に立ち服装は夏物のまま、多少我慢をして過ごしていた太樹はどうやら風邪をひいたらしかった。
「太樹はよー」
「おばよゔ」
朝に昇降口で速水に声を掛けられ、返した声はハスキーを通り越した見事なデスボイスだった。その後、げほげほげほっと、咳き込む。
「うわ、すげえ声。大丈夫か」
「へいぎへいぎ」
太樹は笑って答える。
「なんか東北弁みたいになってんぞ」
どうせ大したことないだろうと太樹は高を括っていた。今までも滅多に風邪などひくことはなかったので。
特に薬も飲まずマスクだけして登校を続けていたが、安静を心掛けたわけではない体調は当然のごとく悪化していった。
そんな調子で三日ほど過ごし、休み時間にまたむせ返っていると速水が心配気に太樹の席にやってきて言った。
「太樹ー、お前いい加減病院行ったら?てか、それ熱ねえの?」
「分かんね。測ってない」
「測れよー」
そう言えば昨日、湊に授業終了後に話し掛けた時も『病院に行け』と心配そうに言われたことを思い出す。
「明日も治んなかったら行くわ」
「今日行けよ」
速水が言うが今日は駄目なのだ。
数学の授業がないので放課後になったら湊に会いに行きたいのだが、あまりに部活に遅刻ばかりしていたので先輩に目をつけられ注意を受けたばかりだった。実際にベースが一人足りなくなるのでメンバーにも迷惑をかける。
そのため部活が終わった後、顔を出して帰ろうと思っていたのだ。
「部活も出んの?」
「そりゃ出るよ」
太樹にとってのベースはもう身体の一部と変わらないほど無くてはならないものだ。一日も弾かない日はない。将来ベーシストとして食べていけるのが理想だ。そこまで甘くないと分かってはいるが、何らかの形で音楽に関わった仕事にしか就きたくない位には真剣に好きだった。
「無理はすんなよ」
予鈴が鳴り速水は席へと戻っていく。
それでも太樹は平気だろうと思っていた。ずっと頭がぼーっとしているのは、マスクで息苦しいせいだと。
「なあ、今日やたら地震多くなかった?」
部活が終わった後、片付けをしながら太樹は目の前に居る速水と大橋に言った。
二人は顔を見合わせて首をかしげる。
「地震なんてあったか?」
「俺は一度も感じなかったけど。それ自分が目眩 してんじゃねえの、風邪のせいで」
速水の指摘に太樹は納得した。
「あーそうかも。だから誰も騒いでなかったのか」
「太樹も体調悪いみたいだし、もう早く帰ろうぜ」
大橋が気遣って立ち上がる。
「俺、寄るとこあるから二人とも先帰っててよ」
太樹の言葉に速水が目を剥く。
「いやいやいや。お前の具合心配して帰ろうって言ってんだろうが。ってか、まさか久住んとこ行くんじゃねえよな」
「そうだよ?」
「なんで久住先生?なんか用あんの?」
大橋が判然としない顔で太樹を見る。
その様子に同調するように速水が声を上げる。
「な、おかしいよな?こいつ毎日、久住のとこ行くんだぜ?どんだけ好きなんだっつーの。太樹さぁ、久住のどこがいいわけ?おれ全然理解できないんだけど」
「え!?」
思わぬ言葉を聞いたように太樹が驚く。自分の気持ちは誰にも話してない。
怪訝そうに速水が続けた。
「えって、違うの?そうとしか思えなかったわ俺」
「マジか……」
「──そういう態度とっといて周りにバレてないと思ってたとか?」
成り行きから推測して大橋が疑問を口にする。
「……………。」
「図星っぽいぞ」
無言になってしまった太樹に、速水が大橋へぼそっと呟いた。
バレてしまったものは仕方がない。確かに太樹には周りのことは何も目に入っていなかった。
「……悪いかよ」
開き直ったように太樹は低く言葉にした。
速水も大橋も、もう止めない。
「まあお前が本気なら別に、良いんだけどさ」
「ついでに送ってもらえば?お前いま熱あるよ多分。久住先生、車通勤だし」
二人の言っていることもあまり耳に入らない様子で太樹はフラフラと部室を出て行った。
──えーと、なんだっけ。
廊下を一人歩きながら頭の中を整理してみる。しかしすぐに、ずいぶん足元がぐにゃぐにゃとして見えるのが気になって仕方がない。
やっぱり、熱が出ているようだ。頭も朦朧 として考えがまとまらない。
部室から近い準備室から見ていこうと思ったのに、ぼーっと階段を降りている間に一階まで降りてきてしまった。
ここまで来たら職員室の方が近くなっている。
今の太樹は冷静に物事を判断する状況になかった。頭で考えるというより湊に会いたいという気持ちだけで動いていた。
会えば何とかなる。ただそう思えての行動だった。
やけに遠く感じた職員室の扉までようやく辿り着く。ドアを開けようとしたと同時に内側から開かれ、太樹の手が宙に浮いて止まる。
ゆっくりと顔を上げると目の前に白衣を脱いだ湊のスーツ姿があった。ちょうど帰宅するところだったようだ。
「……センセー」
鉢合わせたことに少し驚いた表情だったが、そこにいるのが湊だということに例えようのない安心感を感じて太樹はぼやけた笑顔を浮かべた。
「水上?」
「センセー俺、」
言いかけた太樹の身体がグラリと前のめりに傾いた。慌てて湊が抱き止める。
「水上?──なんだ、お前の身体ものすごく熱いじゃないか。熱何度あるんだよ」
「……分かんね……」
「意識は?はっきりしてるのか?」
「ぼーっとしてる」
「いま家にだれか家族は居るか?」
太樹の両親は共働きで二人とも帰りはもっと遅いはずだった。兄は分からないが大体バイトや飲み会で夜遅いことの方が多い。
「多分、いない」
「そうか。とにかく、これじゃ一人で帰せないよ。俺が送っていくから、少しだけここで待ってろ。座ってて良いから」
太樹は壁にもたれてしゃがみ込んだ。固くて冷たい感触が背中に気持ち良かった。
湊は職員室の隣りにある保健室に入ると程なくして戻ってきた。
「水上、立てるか?」
手を引かれ太樹はゆっくりと立ち上がる。そのまま湊に支えられるようにして駐車場まで行き、助手席に座らされた。
太樹はシートに全身をぐったりと預けた状態で運転席に着く湊を目だけで追う。
辛そうな太樹を気遣うように見て湊は身を乗り出した。
「水上、ちょっとこっち向いて」
そう言うと頬に添えられた手で顔を湊の方に向けられ、額の髪を掻き上げられる。
──センセーが近い。
鼻が詰まって匂いなど判別できるはずがないのに、甘い花のような香りに包まれた気がした。
回らない頭でぼんやりと湊を見つめる。こんなに近くに湊がいるのに何も出来ない状態なんて皮肉だと思う。
サラサラの髪の毛が目の前で揺れる。撫でてみたいという衝動に駆られるが今は腕を上げることさえ億劫だった。
太樹の髪を持ち上げたまま、湊は額に冷却シートを貼り付けた。
「……冷たい。気持ち良い」
「それで少しでも楽になるか?」
「うん。ありがと、センセー」
霞む視界で何とか太樹がナビをしながら自宅付近まで到着する。もうこの辺だと太樹が言うと、湊は最寄りのコンビニで車を停めた。
「風邪薬も貰ってきたけど飲む前になんか腹に入れる必要があるから。何だったら食べられそうだ?」
「梅の……ハムサンド」
朦朧としている太樹は頭に浮かんだものをそのまま口にした。
「大丈夫か水上。何言ってるのか分からないぞ。……適当に俺が買ってくるから少し待ってな」
軽く笑みを浮かべて太樹の頭を撫で、湊は車を降りた。五分もせずに戻ってくると袋を太樹に渡す。
間もなく家の前まで着き、湊はポケットから風邪薬を出して言った。
「ちゃんと食べてから薬飲むんだぞ」
それから額に手を当て顔をしかめる。
「シートの上からでもこんなに熱くなってる。明日病院行けよ」
「うん」
──センセーから、触って来たんだから良いよな。
湊に触れられる感触が心地よくて、太樹は離れそうになった手を上から押さえる。
そのまま湊の手を自分の頬に押し当て目を閉じた。
「センセーの手、冷たくて気持ち良い」
「それだけお前が熱いんだよ」
湊はしばらくそのままにしておいたが、口を開く。
「お前もう家入って早く横になれ」
「分かった。センセーどうもありがとう」
「どういたしまして。食って暖かくして、ちゃんと大人しく寝てろよ。──早く元気になって学校に来い」
太樹が車を降りると湊はおやすみと言って帰っていった。
部屋に戻った太樹が渡されたコンビニの袋を開けると、中には梅のおにぎりとハムサンド、それからプリンが入っていた。
それを見て最悪な体調のはずなのに、なぜか愉快な気分になった。湊の行動一つ一つが全て嬉しい。
──ああ、もうこれ運命の人かもなぁ。
教師としての職務を果たしているという考えは微塵も太樹には思いつかなかったし、思った所で別の理由をつけたに違いない。
今の太樹は盲目状態なのだから。
恋と熱に侵された頭で太樹は根拠もなくそう信じ、湊への想いを募らせた。
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