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当たって砕ける

 その後も太樹は変わらず湊のところに暇を見つけては遊びに行っていた。  太樹にとって好きの理由がなんであろうと構わなかった。変化があったとすれば好きが大好きになった程度だと思っている。  深く考えることが苦手な太樹には具体的に悩むという事がなかった。  ……そして、その為あまりにも早く玉砕は訪れる。  7月の終業式の日。  昼食も終えた午後、軽音部の顧問が久住先生だったら良かったのに、そんなことを考えながら太樹は部室に居る。  夏休み明けの文化祭で演奏する曲の個人練習だった。  部室といっても全員で音を出すと混ざるので、普段はメンバーごとに空き教室に散らばって練習をしている。  今は二年生の教室がある二階フロアの空き教室を使っていた。  文化祭では学年ごとに演奏する。  一年生の演奏曲は全部で三曲で、そのうち一曲にべースのソロがあり太樹の見せ場となるところだが、そのフレーズで指が上手く動かず苦戦していた。クーラーの入っていない教室のため汗で指が何度も滑る。  太樹は舌打ちして顔を上げた。窓の外は雲ひとつない青空だ。そのまましばらく窓の外を眺める。  その教室からは空と二階の渡り廊下くらいしか見るものはなかったが、丁度その渡り廊下を一人で歩く湊の姿を見つけた。  湊の行く先には数学準備室がある。おそらくそこへ向かっている、そう思った太樹は教室を飛び出そうとした。  それを見咎めた速水が声をかける。 「太樹、どこ行くんだよ」 「えーと、トイレ!」  太樹はそう言いながら、もう廊下に走り出ていた。 「……絶対違うだろあいつ」  大橋が太樹の見ていた窓の外を見て納得したように言った。 「あれだ」  速水もチラリと覗いて同じように納得した。  太樹が渡り廊下に着いた時、湊は数学準備室に入って行くところだった。  入り口まで行くと引き戸のドアは開け放してあった。中を覗くと湊の背中が見えた。プリントをまとめているらしい。  授業がないせいか暑いのか、いつもの白衣は着ていない。  黒のポロシャツとベージュのチノパンという服装が、白衣がないだけで、ずいぶん華奢で小さな体に見えた。  強く抱きしめたら折れてしまいそうだと太樹は思う。そしてそんな湊を抱きしめたい、と考えてしまう。  やましい事を考えている間も湊が気付かないので、太樹は覗き見をしているような気分になってきて声をかける。 「久住先生」  湊が振り向く。そしてまたかという顔で笑った。 「水上。今度はなんの用事を作ってきたんだ?」  太樹はそれまで想いを口にこそ出していないが、湊の元へ一途に通い続けるその態度は少し見ていれば誰にでも丸分かりだ。速水達にもあっさりバレたように。  それは当然、湊にも伝わっている。それでも湊は他の生徒と区別をつけることはなかった。良くも、悪くも。 「先生、俺」  太樹の言葉が詰まる。  なぜそのタイミングだったのかは太樹本人にも分からない。  いまさっき湊に抱いたほんの少しの罪悪感か、暑さで頭のネジが緩んでいたか。 「俺、先生が好きだ」  突然の太樹の言葉に温和に笑んでいた湊は表情を変え、目を丸くした。 「……今日は直球だな。先生ついうっかり、驚いちゃったよ」 「俺も」  言った当の本人が一番驚いている様子だった。  湊は頭に手をやり、何か考えるように髪をかきあげてから太樹を見た。 「水上、ちょっと話そうか。開けっ放しでする話でもないから、けっこう暑いけどドア閉めてこっち来な」  湊と太樹はパイプ椅子に向かい合って座る。 「なんて言ったら伝わるかな」  湊は困ったように頭を掻く。 「先生は、俺のこと好き?嫌い?」 「うーん。やっぱそうくるよなぁ。でもな水上、これはイエスかノーで出る答えじゃないんだよ。でも多分、今お前はそうじゃないと思ってるだろ」 「うん」  太樹にとっては湊が自分を好きかそうでないか、それだけが答えだった。  湊は一言一言、噛んで含めるようにゆっくりと言った。 「好きとか、嫌い、以前の問題なんだ。先生には答えを出せないんだよ。水上と先生の立ってる場所が違いすぎるから」 「そんなの、関係っ、」 「──有るんだ。水上」  有無を言わさぬ強い口調で湊が遮った。  そして湊は太樹の両肩に手を乗せて真剣な表情で伝える。 「水上。分かってよ、お願いだから。お前を傷つけたくないんだ」 「傷つくのはいいよ、だけど立場が違うから答えが出せないって意味が、言葉の意味が分かんねえ。俺バカだもん──だから、傷ついてもいいから俺にも分かる言葉で言って先生」  同じくらい真剣な眼差しで太樹が言った。  しばらく見つめ合って湊が折れる。ため息をついて告げた。 「……分かった。つまりな、俺からしたら水上はただの子供なの。だからそういう相手にはならない。お前が男だってことを差し引いても恋愛対象にするには、あんまりにもお子様すぎなんだよ」  もっと優しい言い方はあった。だが生徒と教師だからとか法律が等と、所詮大人のルールをいくら説いても太樹は納得しないだろう。欲しがっているのはありのままの感情だ。  ならばむしろ突き放すくらいで自分を諦めさせた方が太樹のためには良い。そう考えて湊は言った。  なぜだか知らないが太樹は自分に懐いている可愛い生徒だ。本心ではそう思っている。他の生徒よりも親しく接している方だ。  けれど結局それ以上、出来ることはなにもない──。  太樹はしばらく難しい顔をして黙り込んだ。だが再び発した声は何故だか嬉しそうだった。 「じゃあ、俺が先生と対等な大人になったら可能性あるって事?」 「え?は?……なんでそういう結論に……?」  今度は湊が黙り込んでしまう。 「俺、どうしたらいい?どうなったら、俺とのこと考えてくれるようになる?」 「ちょ、ちょっと、待て。なんでお前そこまでポジティブなんだよ」 「いいから教えろよ」  教えを請う者の態度とは程遠いものだったが太樹は真剣だった。 「……少なくともお前が生徒の間は絶対に有り得ない。学生の……いや、就職して社会人になるまでは無理だな」 「長えよ!!」  不満げに口を尖らせる太樹に「お前が教えろって言ったんだろ」と湊はあしらい、続けた。 「それから、俺以外の誰かを好きになれ。付き合っても片思いでも、振られてもなんでもいいから」 「なんで!無理だよ。先生のことしか考えられない!」 「水上、お前、今までに俺以外の誰かを好きになったことあるのか?」 「無い。先生が初めてだよ。だからダメなの?」 「そうだよ」 「どうして」 「お前が年相応の経験をするためだよ。年だけ食ったって経験してなきゃ、お子様のまんまだ」 「それが先生が俺のこと真剣に考えてくれるための課題?」 「課題?まあ、そういう言い方をすればそう‥‥だな」 「わかった」  なにをどう分かったのか、太樹は真面目な顔をして考え込んでいる。  高校一年生の太樹が就職するまで、あと何年あると思っているのか。どれだけの人間との出会いや別れがあるのか理解しているのか。  湊はこれからいくらでも拓いていく太樹の未来に、自分の居場所が残っているとは思っていなかった。  口にした言葉はある意味真実で、その場しのぎというわけではないがこの口約束が果たされるとも思っていない。 「でもさぁ、先生ー。俺まだ一年じゃん?学校にいる間は先生の事しか目に入らねえよ。勝手に想ってるのは許してくれる?」  その三年間すらも心変わりしない確証など太樹自身にもなにもないはずなのに、どこからくるのか自分の気持ちに揺るぎない自信を持っているようだ。 「許すも許さないも、心の中までは強要できないだろ……。でも見返りは期待するなよ」 「えー少しくらいは期待しても良くない?」 「良くない」 「けち」  不貞腐れた態度で横を向いた太樹は次の瞬間にはもう表情を変え、悪戯(いたずら)っぽく笑みを浮かべる。 「ねえ俺、一日一回は先生に絶対会いに来るから」  太樹のタフさに湊は呆れながらも感心した。 「今だって既にそうだろ──その情熱を先生、できれば勉強に向けて欲しいんだけどなぁ」 「それは、無理。だって俺、先生一筋だから」 「一筋のベクトルを学生としてプラスの方向に向けてくれ、お願いしますよ……」  振ったはずの湊は気落ちしたように肩をガックリと落とし、振られたはずの太樹は気にもしていないように屈託のない笑顔を湊に向ける。  そして太樹は実際、忠実に実行した。三年間毎日湊に会いに行くことを。 「センセーさよならー」というたった一言の為だけにでも、湊に会いに、居なければ探して、必ず毎日顔を見せた。  そのマメさは徹底していて、職員室でもちょっとした話題になっていた。  担任教師に 「……あいつ俺には一切目もくれずに、久住先生にだけ挨拶してさっさと帰って行きやがる」  とぼやかれることもあった。  湊としてはそんな時、苦笑してやり過ごすより他はなかったが。  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇  夏休みが開けて二週目の週末に文化祭が開催された。  太樹に「絶対ライブ見に来てよ!」と何度も何度も念を押された湊は、時間になると体育館に足を運んだ。  一年生は一番手で演奏はすぐに始まった。  どれもアップテンポのポップスのカバー曲で観客ノリも良く、一体となって楽しんでいるようだった。  半数以上が女子生徒で体育館は埋まっている。  太樹に限らずメンバー全員に言えるが、あんなに飛んだり跳ねたり走ったりして良く演奏していられるものだと湊は半ば呆れながらステージを眺める。  そのせいかどうか、演奏自体は上手いとも下手とも言えない出来だから帳尻は合っているのかもしれない。  それでも詳しくは分からないが、太樹のベースは他のメンバーより際立って安定しているようだ。かなり小さい頃から弾いていると言っていたのも伊達ではないらしい。  なんにしてもその躍動感が一杯に伝わってくることによって観ているこちらも気分が上がるので、決して悪いことではないと感じる。  単純にとても楽しそうだから観ていて楽しい。  ただ、あまり手前に出すぎ足を滑らせ落っこちてしまうのではないかとヒヤヒヤするシーンは何度もあった。  他人の感情まで上昇させる彼らの若さと元気はかけがえのないものだなと考えて、まだ二十代にも関わらず自分も年を取ったなと湊は胸の中で一人笑う。それほど十代の彼らのエネルギーは果てしなく、爆発するような威力を秘めている。  約一時間ほどで軽音部の演奏は終わり、次は演劇部が三十分後に始まる予定だった。  一旦職員室へ戻ろうと体育館を出ようとすると軽音部員たちも丁度、部室へ戻ろうとしていた。 「センセーセンセー!」  聞き慣れた声がその中から上がる。そして太樹が駆け寄ってきた。 「観てた?」 「観たよ、お前ら元気だな」 「何その感想、もっとカッコ良かった、とかねえのー?」  湊の感想が不満そうに太樹は腕を振って抗議した。 「無理だろ。太樹、今日ミスしまくりだったじゃん」  横から速水がからかい口調で口を挟む。 「飛び跳ねすぎのせいじゃないのか」  湊も同じように言ってやると太樹は大声で笑った。 「あははー、それはね、大いにある。でも俺、ソロはフルコンプだったよ」  太樹が一人で演奏していたフレーズだ。そういえばそこで際立っていると感じたのだったか。思い出して湊は言う。 「そこだったら上手いなって思ったよ」 「マジ?嬉しい!」 「久住先生に褒めてもらえて良かったでちゅねー太樹ちゃん」  大橋が冷やかすように太樹の頭をぐりぐりと乱暴に掻き乱している。 「うるせーよ」  やはり仲間内でネタにされるくらいには周知の事実になっているらしい。まるで隠しもしない太樹の態度を見ていれば誰でも察するだろうが。そして太樹もそれでまるっきり構わない様子だ。  仲睦まじく楽しそうで大変に(よろ)しいが、自分が絡んでいなければもっと気が楽なんだけどなあ。と湊は言葉に出さずにひっそりと愚痴る。 「じゃあ先生戻るからな」 「まったねー!」  手を振って太樹が応えた。  夏休み前、終業式の日の出来事は太樹にとってダメージを与えなかったらしい。どんな材質で出来た防具を着込んでいるというのだろう。  湊にとっては、とても太樹のようにはいかない。  真っ直ぐに向けられる笑顔が。その純粋さが。自分をどうにかしてしまいそうで。  見えない(いばら)のツタが徐々に足元から伸びてきて、抜けないトゲに仕込まれた媚薬にじわじわと麻痺させられていくような感覚がしていた。

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