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第1話 修行の日々
「おお……フサリアだ! フサリアの誕生だ!」
生まれてきた赤子の背に、絵画の天使に描かれるような小さな小さな一対の翼があるのを見て、新しい民の誕生に立ち会っていた年老いた長は、歓喜してその赤子を天に向かって捧げ抱いた。
「シッ。長老様」
しかし、産婆は唇に人差し指を立て、その声を制する。長も慌てたように、声を潜めて赤子を胸に抱き締めた。
「すまん、そうであった……。この子は隠さんといかん。今頃、竜の元にも、羽毛を持つ者が生まれておる事じゃろう……」
その民は、永いこと竜と共に生き、ドラグーンとして国を守る任についてきた。
だが、今の国王は隣国に自ら侵攻する事にドラグーンを使い、国費の殆どをそれに費やして、民を飢えさせていた。次第に不満が高まるのを感じ取った国王は、フサリアの誕生を恐れるようになる。
先代のフサリアがみまかってから、ちょうどニ百年。国王は民に、フサリアが生まれたら祝祭をあげる為、すぐに知らせるようにと触れを出していた。
だが人間以上に賢い竜の長は、国王がフサリアを赤子の内に亡き者にしようとしている事を人の長に告げ、フサリアを隠すようにと言い置いた。
そしてまさに今生まれたのが、件のフサリアの片割れなのだった。羽ばたきの音ひとつ立てず、夜闇に紛れて、漆黒の竜はその家の屋根に舞い降りた。家の中では、三角屋根の先端に竜の爪がかかるカシャリという音だけが聞き取れた。
──コン、コン。
すぐにドアが控え目にノックされ、囁きが聞こえた。
「人の長よ。我が竜の長からの使者で参った。フサリアを、こちらに」
「おお……早かったの。ここに」
長老が扉を開けると、漆黒の肌に長い黒髪、黒装束で黒瞳が爛々と光る長身の青年が立っていた。長老は彼に、産着にくるんだ赤子を大切に手渡す。
「名は?」
その質問には、たった今お産を終えたばかりの母親が、くぐもった息の下から答えた。
「アレン。隣国との戦で命を落とした、あの人の名前です……」
「承知した。けして悪いようにはしない。我々に任せてくれ」
そう言ったかと思うと青年は不意に消え失せ、夜空に微かに羽音を残し去っていった。
「アレン……どうか生き延びて」
母親がすすり泣く声だけが、アレン誕生の証しとなった夜だった。
* * *
「ナージャ! ナーッジャ!」
十歳になったアレンは、少々声を荒らげて、頭上の大岩に乗って彼を見下ろしている一匹の竜に向かい、踵を上げ精一杯腕を伸ばしていた。
「ずるいぞ! 竜になって飛んだら、俺の手が届かないじゃないか!」
深いブラウンの髪に白いおもて、フサリアにしては線の細いアレンは、遊びたい盛りだった。
対して、ナージャは美しい黄金の羽毛を持つ翼と長い尾をひらひらさせながら、揶揄する。
「鬼ごっこのルールに、『飛んじゃ駄目』は入ってねぇだろ?」
くつくつと楽しげに笑う。アレンの機嫌は、それに反比例するばかりだ。
「でも、人の姿で始めただろ! ナージャは都合が悪くなると、すぐ竜になっちゃうんだから!」
アレンはむきになって、大岩を上り始める。ナージャはのんびりと、それを制した。
「あ~、分かったよ。危ないからやめとけ、アレン」
「嫌だっ! そこまで行く!」
同じ日に生まれ一緒に育ったにも関わらず、ナージャの方が成長が早い事を悔しがり、アレンはこういった場面では常にナージャと張り合った。
しかし、いつも。
「わっ」
ニメートルほど登った所で、アレンは足を踏み外す。
「おっと」
身を竦めて瞳を瞑っていたアレンがおそるおそる瞼を開くと、十五~六歳ほどのブロンドの少年の顔が、優しくアレンを覗きこんでいるのだった。人に化身したナージャが、受け止めたのだ。
「だから、危ないって言ったろ」
「う……」
いつもやり込められてしまうアレンは、悔しさと、何かもうひとつの正体不明の胸騒ぎに顔を火照らせて、急いでその逞しい腕の中から抜け出して地を踏んだ。
そして決まり悪さに、ナージャに八つ当たりする。ある意味、正論でもあったが。
「ナージャが竜になっちゃうのが悪いんだろ! 今度やったら、もうナージャとは遊ばないんだからな!」
「ああ、悪かった。もうやらねぇよ」
ナージャも立ち上がり、降参のポーズでおどけてみせる。二人の身長差は、二十センチといった所か。
「こらナージャ! また竜の姿に戻ったな」
不意に二人の頭上が陽光をさえぎられて影になったかと思うと、目の前にナージャとは比べ物にならぬ立派な翼と長い首を持った、隆々とした黒竜が降り立った。
「カッツィ! ナージャったら酷いんだ。鬼ごっこしてたら、飛んでいっちゃうんだよ」
「またか。何度言ったら分かるんだ、ナージャ。お前の毛並みは、麓の人里から見えるほど、輝くんだという事を」
カッツィと呼ばれた黒竜は、生まれたばかりのアレンを竜の巣に運んだ、かの者だった。竜の長の信頼も厚く、人と竜を繋ぐ使者でもある。だからこそ、彼がたびたび人里に降りてアレンの成長を秘密裏に人の長に伝えるのにも好都合だった。
「だって俺、竜だし。本当は自由に空を駆けてぇ」
「期が熟せば、幾らでも飛んで良い。今は、アレンと共に竜の巣で絆を深めるんだ。さあ、戦の稽古をつけてやろう」
そう言うとカッツィは、一瞬で人の姿に化身した。背負っていた武器を、ナージャとアレンに放る。アレンは槍、ナージャは剣だった。
「さあ、かかって来い」
喧嘩がいつもの事なら、二人がかりで幼い頃からの師を本気で倒そうとするのもいつもの事だった。たった今まで機嫌の悪かった二人だが、武器を握った途端、同じ新緑色の瞳を合わせるとニッと笑って頷き合う。
フサリアは、竜と同じくらい長命な人の子と、羽毛を持つ守護竜とのひと番いだ。その絆は強く、触れずしてもある程度は、心を通わせる事が出来た。
(先鋒は俺に任せろ、アレン!)
(ああ、俺は後ろに続く!)
一瞬で作戦を共有した二人は、荒い声を上げてカッツィに斬り込んだ。
「うるぁっ!」
大きく上段の構えから振り下ろされるナージャの剣を、黒い大剣を軽々と片手で操りカッツィは跳ね返した。
だがそこに、一瞬の隙が生まれる。その間隙を狙って、アレンが下段から槍を突き出した。あくまでも本気だ。カッツィは、いつも「本当に殺すつもりで来い」と言っていた。
しかし渾身のアレンの一撃も、肩の力を抜いてフッと一歩下がったカッツィの鼻先を掠めただけだった。今度はカッツィは、まるで体重を持たないかのように身軽く跳ねる。足元を薙いだナージャの剣の刃の上に、カッツィは凛として立っていた。大剣の切っ先は、ナージャの眉間をとらえている。
「くそっ……」
「槍の扱いが上手くなってきたな、アレン」
ひょいとそこから降りると、カッツィはまだ興奮冷めやらぬアレンのブラウンの髪をふわりと撫でた。
「えっ……! そ、そう?!」
生まれた時から稽古をつけて貰っていたが、カッツィがアレンを誉めるのは初めてだった。大剣の先で、乾いた大地を示す。そこには、二~三本の長い黒髪が風に吹かれて落ちていた。
「私の髪を斬った。大したものだ」
「あーっ、アレンばっかり! 俺も誉めてくれよ、カッツィ!!」
ナージャが不服そうな声を上げたが、彼は黒瞳の奥で笑っただけだった。
「誉めるべき要素は、まだお前にはない、ナージャ。構えが隙だらけだ。実戦ならば、斬りかかる前に倒されているだろう」
ぐ、とナージャが言葉に詰まった。この厳しい師匠には、甘えも屁理屈も通じないのだった。
「ちぇーっ。今日はもう止めた!」
剣を地面に突き刺し、山頂近くにぽっかりと口を開けた、竜の巣の方へと歩き出す。
「あ……ナージャ!」
呼び戻そうとするアレンを、カッツィが制した。
「大丈夫だ、アレン。あれは身体こそ大きいが、まだ子供だ。太刀筋は良いくせに、雑念のせいで隙が多い」
「えっ。じゃあ俺、カッツィがナージャの太刀筋は良いって誉めてたって、言ってくるよ!」
「駄目だ」
「な、何で?」
大地にまるで墓標のように突き立ったナージャの剣を抜き、背に負いながら、カッツィは言った。
「私は、お前たちに真のフサリアになって欲しい。弱点や強みは、自分たちで獲得してゆけ。私はその手伝いをするだけだ」
「カッツィ……」
アレンは師匠兼教育係のカッツィを見上げながら、ポツリと呟く。今までは遊びの延長で稽古をつけて貰っていたが、アレンがその重責を僅かばかりだが感じ始めるようになった瞬間だった。
「さあ、槍もこちらへ。ナージャがへそを曲げているだろうから、アレンが声をかけてやるといい」
「カッツィが誉めてた事は、やっぱり、言っちゃ駄目……?」
「ああ。あれは、アレンと違って性格が奔放すぎる。私を憎むくらいでなければ、真に強くはなれないだろう」
「そう……」
槍をカッツィに手渡し、アレンは少し寂しそうに俯いた。だがその頭を、カッツィが思いがけず優しく撫でる。
「安心しろ。ナージャにはお前がいる。私が厳しい分、アレンが甘えさせてやれば良い」
「……うん!」
その掌の優しさに、アレンは顔を上げて嬉しそうに頷いた。
「俺、ナージャの所に行ってくる!」
「ああ。せいぜい甘やかしてやれ」
すぐにアレンは、竜の巣に向かって駆け出した。山肌に口を開けた巨大な洞窟は幾つもあり、一番奥の巣がナージャとアレン、カッツィが暮らす『家』だった。
入り口を塞ぐ天然の蔦のカーテンをくぐってわけ入ると、シダの葉を敷き詰めた寝床の隅に、ナージャが背を向けて竜の姿で横たわっていた。ふて寝といった所か。
アレンは足音を殺してそうっと近付いていき、わっとそのふかふかした羽毛の腹にダイヴした。
「ナージャ!」
しかしナージャは驚かない。人間よりも優れた五感で、アレンの接近に気付いていたのだろう。
「ナージャ……あったかい」
緩慢に上下してゆっくりと呼吸するナージャの金色の毛並みに、アレンは頬擦りして身体を預けた。
「……カッツィに言われて来たのか」
それは半分図星だったが、懸命にアレンは秘める。
「ち、違うよ! 俺、ナージャが元気ないと、つまらないんだ。だって俺たち、二人でひとつだろ?」
その言葉に嘘はなく、ややあってナージャがゴロリと身体を反転させた。
「……そうだな」
巣の外は、しとしとと小雨が降り出していた。遊び疲れて、アレンがウトウトと瞳をしばたたかせると、ナージャは長い尾でアレンを腹に抱き込んで、彼を眠りへと導いた。
やがて二人分の寝息が密やかに上がり始め、ナージャとアレンは微睡みの淵へと落ちていった。
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