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第2話 カッツィの闘い
それから十余年。ナージャとアレンは、その日もカッツィと剣げきに明け暮れていた。
「ハッ!」
「やぁっ!」
青年となった二人は、ヒラリヒラリと身を交わし、時折自らも反撃に転ずるカッツィに一歩も引けをとらぬほど、長じて強くなっていた。
特にナージャは、長身のカッツィを追い抜かんばかりに身長が伸び、逞しくなっている。アレンは、相変わらず線が細く小柄だったが、その肢体にはしなやかな筋肉がつき、見た目に反する力とスピードをもって、カッツィを追い詰めていた。
「取った!」
カッツィの腹に穴があく一歩手前で槍をピタリと止め、誇らしそうにアレンが叫んだ。
カッツィは息こそ上げていなかったものの、二人の成長を寿ぐように口角を上げて老獪に微笑んだ。
「よくやった。お前たちの勝ちだ」
「「やった!」」
二人は手を打ち合わせて、異口同音に勝利の喜びを分かち合う。今やその真剣勝負は、三本に一本ほどの割合で青年たちが勝利をおさめるようになっていた。
「今日の稽古は終わりだ。私は、お前たちの稽古の成果を長に報告してくる」
「カッツィ、その後『鬼ごっこ』しよう!」
まだ少年の面差しが残るアレンが、歯を見せて言った。年齢にしては随分と子供っぽい物言いだったが、アレンのいう『鬼ごっこ』とは、スピードの鍛錬の為にする、それの事だった。
それぞれ剣と槍を背中におさめる頼もしい二人を眩しそうに見て、カッツィはやんわりと諭す。
「いや、その後は、人の長の元へ行く。ナージャと二人でするんだな」
「えーっ。ナージャと二人だと、すぐズルするからなぁ」
「竜なんだから、飛んだって良いだろ」
その気楽な声音を、言葉尻を待たずしてカッツィが遮った。
「ナージャ! 言っている筈だぞ。巣の中で以外、化身するなと」
その厳しい口調に、ナージャはあからさまに反抗的な眼差しをカッツィに向けた。
「カッツィは不公平だ。アレンにばかり甘くして」
「お前たちは、この広大な国の、たったひとつの希望なんだ。その事を分かってくれ」
「……フン」
ナージャは不服そうに鼻を鳴らし、ふいとカッツィから顔を逸らして巣の方に向かう。十代の後半からナージャに訪れた反抗期は、カッツィに一人前と認めて貰えぬ事で、いまだその腹の中で燻っていた。アレンには、ついぞそれは訪れなかったが。
「ナージャ! 待てよ!」
あの幼き日から、カッツィとアレンの役割は決まっていた。ナージャがカッツィの態度に機嫌を損ねた時は、アレンが後を追う。ナージャの背に明るく声をかけるアレンを見届けてから、カッツィは務めを果たしに踵を返した。
竜の長は、もう千二百年近く齢を重ねた、古代竜だった。日当たりの良い南の尾根にある巣の前で、日がな一日陽光を浴びている。岩石のようにも見える大地の色をした硬い鱗は、どんな武器も通さないという。
長の前へ竜の姿で降り立ったカッツィは、長い首を下げて敬意を表し、フサリアの一人と一匹が、間もなく戦いの時を迎えるだろう事を報告しようとした。
だがその前に、瞳を瞑り眠っているかのようにも見えた長が、ポツリと聞き取りにくいしわがれた声音で言った。
「……良くない事が起きる」
「起きておいででしたか、長。……良くない事とは?」
「……フサリアの事だ……」
彼は、長じる内に近しい未来を予見する能力をもそなえたのだった。ポツリポツリと紡がれるその言葉に、辛抱強くカッツィは耳を澄ます。
「人間が……竜の巣へやってくるのが見える……行け……人の長の元へ……それから……戦の支度を整えるのだ……」
「戦……! 承知致しました」
竜の長の言葉は、常に真実を語り、永くこの竜の巣を守り繁栄させてきた。カッツィは、その威厳に満ちた命 を引き受けると、すぐさま麓に向かって飛び立った。人の長のいる村までは、直線距離で十五分も飛べば良かった。
だがその途中で、緑生い茂る木々の隙間から山肌にキラリと光を反射する何かを目ざとく見付け、カッツィは黒い翼をひと打ちしてその上に下り立った。そんな事をすれば細い枝が折れてしまうのは明白だったから、危惧の度合いが分かるだろう。メキメキと小枝のしなる音をかき消して、金属の触れ合う音と、驚嘆の叫びが上がった。
竜の巣へ至る道はない。人間が竜の巣へ登る事などないからだ。しかしそこには確かに、険しい山肌に取り付くようにして、鎖かたびらに身を包んだ五百人ほどの大隊が山頂を目指しているのだった。
「何用だ!」
カッツィは長い首を下ろして人間たちと目線を合わせ、強い声音を出した。その竜特有の長い喉に響く威厳ある一言を聞き、怖気づいた幾人かが切り立った山肌を滑落していく。辛うじて、胆の据わった大隊長が、負けずに声を張り上げた。
「国王の命 にて、まかり通る!」
「ならん! なんびとたりとも、竜の巣に入れる訳にはいかぬ。何百年も前に、人の長と竜の長で決めた事だ」
「今の世は、国王が人の長だ。その長が、竜の巣へ行けと命じたのだ!」
何の為に。それを問う愚かさを、カッツィは持ち合わせていなかった。一様に逞しく粗野な男たちは皆、武器を携え戦支度を整えている。おそらくフサリアの寝首をかきに、彼らはやってきたのだ。
怒りに、氷点下まで下がった吐息と共に、ごうごうとカッツィは吐き出した。
「立ち去れ! 今ならまだ、愚かな国王の命まで取りはせぬ。これ以上巣に近付くようなら、我らも黙ってはいないぞ!!」
──パンッ。
乾いた音が一度はじけ、カッツィがギィと長く吼えた。
「ば、馬鹿者! 誰が撃てと言った!」
「あ……あ……」
銃を撃った若者は、戦慄いて言葉も出ないようだった。恐怖のあまり、引き金を引いてしまったのだろう。下肢からじわりと失禁し、ガタガタと震えていた。
竜と一概に言ってもその姿は、コウモリのように滑らかな皮を纏う者から、鋼のように硬い鱗を持つ者まで、様々だった。その点、カッツィは戦向きではない。より人間に近い姿を持つ者として、参謀として、使者として、選ばれた存在だったからだ。
偶発的に発射されてしまった弾は、運命の悪戯か、カッツィの星の瞬く夜空のような黒瞳の左を貫通していた。鮮血の涙を流し一瞬理性を失ったカッツィだが、すぐさま怒りの咆哮を一声上げて、大隊に向かって吹雪を吐いた。一息で三十人が一瞬にして凍り付き、砕け散りながら山肌を落ちていく。
「撃て! 撃てー!!」
大隊長が叫び、走って逃げる事もままならぬ極限状態に陥った兵士たちは、まさに命がけで戦った。銃弾や石つぶてや矢尻が、黒い巨体に面白いほど突き刺さる。
人の長に国王の乱心を伝える術はない。あとは、先のカッツィの咆哮に気付いた戦竜たちが、駆け付けるのを待つ他なかった。
(駄目だ……!)
国王に暗殺が失敗した事を知らせまいと躍起になったカッツィだが、後列の兵士たちが文字通り転がるように敗走していくのを見て、これ以上戦う愚を諦めた。標的となる巨体は一瞬にして消え去り、兵士たちはどよめいたが、遠くの空にポツリポツリと見え始めた竜たちの姿に、すぐに戦意喪失して山肌を滑り降りていった。
* * *
ナージャの優れた聴覚には、聞こえていた。カッツィの搾り出すような怒りが。
「……カッツィ?」
『鬼ごっこ』の最中、ピタリと動きを止めて無防備に耳を澄ましたナージャに飛び付き、アレンは彼を組み敷いては笑った。
「捕まえた! 何ぼさっとしてるんだよ、ナージャ」
「シッ。何かおかしい」
「え?」
アレンには何も感じられない、麓の方へと向けられた視線を追って、二人は手を取りあうようにして不安げに上身を起こした。すぐに、一番奥にあるナージャたちの巣からは、鳴き交わして飛び立っていく竜たちの姿が見て取れた。
「何かあったの? みんな戦竜だ」
数瞬、耳を澄ましていたナージャだが、焦燥の色を濃くして呟いた。まるで、独り言のように。
「カッツィが戦ってる……行かなけりゃ」
そう言ってアレンを押し退け立ち上がるナージャの手首を、慌ててアレンは掴んだ。今にもナージャが、竜身に戻り飛んで行ってしまうような気がしたからだ。その判断は正しかったようで、すでにナージャの周りには竜の持つ覇気が漂っていた。
「離せ、アレン。カッツィが!」
「駄目だよ! カッツィが、長が良いって言うまで、竜になっちゃ」
「その通りだ……」
鼓膜を直接揺さぶるような皺深い声音が、二人をハッとさせた。振り返ると、巣の上に、音もなく竜の長が降り立っていた。もう何百年も長は、南の尾根にある自らの巣から出た事はないと聞いていたから、二人は肝を潰すほど驚いた。
「ナージャ……お前が飛べる日が来たのだ……」
唐突に突き付けられたその事実が、何を意味するのか、二人にはまだにわかに分からなかった。
「カッツィに、戦の支度を整えるよう頼んだが……遅かったようだ……。ナージャ」
重々しく呼ばれたが、ナージャは突然の出来事に、返事さえ出来ないでいた。ただ、真摯な瞳で長を見上げる。
「お前たちは、二人でフサリアだ……アレンを護 って戦え、ナージャ……」
だが不意に先の咆哮を思い出し、無礼も忘れてナージャは一歩前に出て遮った。
「待ってください、カッツィは? カッツィはどうしたんだ?!」
「……生きておるかどうか……」
「そんな! カッツィに完璧に勝てるようになるまでは、まだ一人前じゃないって……」
取り乱し頭を抱えるナージャを、アレンがきつく抱き締めた。
「ナージャ、落ち着けよ。カッツィが死ぬ筈ないじゃないか。あんなに強いのに」
「でも……でも、カッツィは戦竜じゃねぇ……! 俺のせいだ……!」
涙声で膝を着くナージャを、アレンは抱き締め続けた。本当はアレンもカッツィが死ぬほど心配だったが、壊れそうになるナージャの心を繋ぎとめておけるのは、自分しかいないと思って唇を噛んだ。
「アレン……お前は、『守護される者』でありながら、しっかりと自分の役割を知っているようだな……。よう育った……そうやって、護り合って戦うのだ……」
「……はい」
アレンはナージャを抱き締めたまま、声を出さずに泣いていた。大粒の珠 が幾筋も頬を伝ったが、ナージャに悟られないよう、けっして声は乱さなかった。
「帰って……きたようだ……」
ナージャに気を取られていて気付かなかったが、巣の前に、帰ってきた戦竜たちが次々と舞い降りる。中の一匹が、前脚に黒い人影を掴んでいるのを見た時、アレンは誓った。もう、けして泣かないと。カッツィの為に。ナージャの為に。
手の甲で涙を拭ってしまうと、微かに嗚咽しているナージャの肩をそうっと叩き、その帰還を彼に知らせた。
「ナージャ。大丈夫だ。カッツィが帰ってきたぞ」
「カッツィ……!」
二人の近くに横たえられた人身のカッツィを見て、ナージャは膝を着いたままその身に這い寄った。身体には、無数の矢が刺さったままだった。
「畜生! カッツィ、カッツィ……!!」
狂ったように、その棒を折り取ってゆくナージャの手を、意外な人物が止めた。──カッツィ自身だ。
「カッツィ……!」
「ナージャ……もう……良い……」
カッツィは、血塗れの口角を僅かに上げた。
「カッツィ……! 俺の、せいなんだろ? 邪険にして悪かった、あんたは家族だ、カッツィ……!」
「……ナージャ。ありがとう……嬉しいよ……。アレンは?」
もう見えていないらしい。傍らに跪いているアレンを、星の瞬かなくなった空ろな黒瞳で探す。
「ここにいるよ、カッツィ」
「これを……」
カッツィは、ペンダントにしていつもかけていた、銀の装飾の施されたアメジストをアレンの手に握らせた。
「魔除けだ……お前に持っていて欲しい。それと……ナージャ……」
次第に命の炎が消えていくのが分かる。それでも、カッツィは話し続けていた。一言も聞き逃すまいと、ナージャはカッツィの顔を覗き込むようにして聞いている。
「戦に出る時は……アレンの身体に、お前の……その羽を飾り付けてやれ。それが、最も強力な護符となる……」
「分かった、分かった、カッツィ……」
冷たくなっていくカッツィの手を強く握り、ナージャは泣きながら何度も頷いた。漆黒の頬に、パタパタと雫が滴った。
「長は……長はおられるか……」
「ああ。聞いておるよ……」
「このような姿で、失礼します……殲滅ならず……今にも、軍勢が動くでしょう……申し訳ありません……」
「お前は、よくやった……カッツィ」
「カッツィ、カッツィ!!」
「ナージャ……我儘を言って……あんまりアレンを困らせるんじゃない……ぞ……」
それが、カッツィが紡いだ最期の言葉になった。満身創痍だったが、奇妙にもその唇には、薄っすらと微笑みが浮かんでいた。
小さな頃、カッツィの横じゃないと眠れないと甘えてダダをこねたナージャを、やんわり叱った時のように。ナージャは、はっきりと覚えていた。
しばらくは、動かなくなったカッツィの遺骸に伏してしゃくりあげるナージャの息遣いだけが響いていたが、やがて一匹、また一匹と、周りを取り巻いていた竜たちが空に向かって高い音階で咆哮した。それは、天上に旅立つカッツィへの鎮魂歌だった。
「カッツィ……今まで、ありがとう」
竜身に戻って同じように空に吼えるナージャの横で、咆哮する喉を持たぬアレンは、その代わりにそっとカッツィの頬に口付けた。
『ナージャが空を駆ける』。その意味する所が、カッツィの弔い合戦だと二人が知ったのは、長がそれを力強く口にした時だった。
「フサリアよ……行け……! 番いの人間に情をうつして、向かってくる同胞もおるだろう……。だが、迷うな……! お前たちが歴史となるのだ……!!」
そして誰よりも高く長く空に向かって首を伸ばし、カッツィに天界への門を開いてやった。
「ナージャ、翼を広げろ」
「アレン、立つんだ」
口々に戦竜たちが声をかけてきて、あっという間にナージャの黄金の羽がアレンの髪に衣服に、鮮やかに飾り付けられた。
「戦乙女の祝福あれ」
最後に、人に化身した純潔の乙女が、カッツィからアメジストの魔除けを外し、アレンの首にかけてまじないを唱えた。
「いい? アメジストは夜の宝石よ。まもなく陽が暮れるわ。カッツィは、月の光のもとで戦えって、貴方がたに言ったの」
確かにアレンは生まれた時から、一筋の光もない暗がりでも恐れもせずによく遊んだ。夜目のきく竜とは違って見えてはいない筈なのに、左右に揺れるナージャの金色の尾にじゃれ付いて、カッツィを驚かせていた。
カッツィは、いつかアレンに渡す為に、その魔除けに力を込めていたのだろう。
「乗れ、アレン!」
そして生まれて初めて、アレンはナージャと共に空を駆ける。黄金の羽毛をしっかりと掴んで背に跨ると、成竜となったナージャの逞しい翼が夕闇に打ち合わされ、戦竜たちの先陣を切って城を目指した。
「ありがとう。ナージャ……行くよ!」
アレンの言葉に、竜の巣全体から、ときの声が上がった。その数、およそ三百。だが戦竜だけ数えれば、百五十に満たないだろう。
人間と番いを組んで、ドラグーンとして麓に暮らすは二百を越える。この咆哮は彼らにも届いていただろうが、番いを組む内に種を越えて愛し合う者もいる。一体どれくらいのドラグーンが、相手になるのか分からなかった。
戦への武者震いとは別に、眼下に広がる広大な森とびゅうびゅうと羽飾りを揺らして風を切る感覚が、アレンをこれまでになく高揚させていた。心地良くないと言ったら、嘘になる。
だが触れ合っているナージャの背から、カッツィを嬲り殺した人間への怒りと憎悪が伝わってきて、アレンはそれを悲しく思った。
(ナージャが怒ってる……愚かな国王ただ一人の為に、もう竜と人が共に暮らす歴史は、なくなったんだ)
『お前たちが歴史となるのだ』。賢者たる竜の長の言った意味が、ようやく分かりかけてきて、アレンは背に負っていた槍を抜き、まだ見ぬ敵に向かって構えた。フサリアは、一騎当千。
(俺たちがどう動くかで、歴史が作られるんだ……)
遠くの稜線に陽が沈み、辺りはナージャと戦竜たちの羽音だけが微かに聞こえる闇となった。けれど、アレンは恐れていなかった。胸の辺りで、カッツィの遺してくれたアメジストを握り締める。
アメジストは夜の宝石。カッツィとナージャが、護ってくれる。あとは、運を天に任せるしかなかった。
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