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第2章 スポーツ!(13)
仕事が終わって生徒会室を出て、ちょっとだけ考えた。本当にちょっとだけ。考えてから、寄り道をする決意をした。いつもは真っ直ぐ自分の部屋に帰るか、そのまま食堂に行って夕飯を食べるかなんだけど、今日は特別だ。
校舎から出て寮に行き、エレベーターに乗る。少し躊躇ってから、最上階のボタンを押した。何度も言うけどこの学園はスペシャルで、寮だってもちろん無駄に豪華だ。俺たちみたいな二人部屋が基本だけれど、生徒会長になると、特別に個室が与えられるらしい。しかも、寮の最上階。噂では聞いていたが、実際目にするのは始めてだ。チン、と間抜けな音が響き、エレベーターが開く。目の前に広がる廊下や構造は、見慣れた場所とそう変わらない。でも初めて足を踏み入れる最上階に、つい物珍しくて視線が動いた。そして一番先に目についた部屋、そこのネームプレートには、「各務」と記してあった。
ロビーで買った言い訳みたいな缶珈琲とヨーグルトを手に、部屋のインターホンを押す。ううう、なんかすげー、今さら緊張してきた。いやいやでも、今日は会長がいない初日だったわけだし。働きっぷりを伝える義務があると思うんだよね、なんて、誰に聞かれたわけでもないのに言い訳をどんどん紡いでいると、ガチャリと音がしてドアが開いた。顔を上げる。
「…………」
沈黙が、流れた。
そこには、ドアを半分押し開ける、会長の姿があった。制服は着ていなくて、半袖のTシャツとスウェットというラフな格好は、見慣れない。咄嗟に、何も言えなかった。
「鈴宮か。何の用だ」
会長の声は、掠れていた。久しぶりに出した、みたいな声。いつもきれいに真ん中に分けられている前髪は少しだけ乱れていて、俺は視線を逸らした。そして、安っぽいビニール袋に入れた缶珈琲とヨーグルトを、袋ごと差し出す。
「これ。……お見舞い」
「ああ? 何妙な気遣ってんだ、気持ち悪ィ」
「なんすかそれ、ひど! ちょおひどっ! 会長どーかなって、心配して見に来たのにー!」
素っ気なく手渡す素振りも、会長の怪訝そうな声に一瞬でかき消される。無事に受け取ってはくれたけれど、俺を見下ろす視線は、限りなく不審そうだ。その視線にいつも通り抗議すれば、会長は、ふっと微かに口角を吊り上げて笑った。
「上がってくか」
「え、いいの?」
「ああ、何もねえけどな」
顎で示されたのは会長の部屋、予想外のことに俺は瞬く。問い返すと、会長はあっさり頷いて、ドアを大きく開いて俺を促してくれた。ぺこりと会釈して、「お邪魔しまーす」と室内に足を踏み入れる。玄関はふつう、俺たちの部屋とさして変わった様子はない。
「広いだけだ、それほど変わんねえよ」
俺の視線の意図に気付いたのか、一歩先を進みながら会長が言った。その言葉通り、豪華絢爛なソファも天蓋付きのベッドもそこにはなく、ただ部屋数が1つ多い2LDKの部屋が広がるだけだった。家具はシンプルで必要最低限のものが置かれ、きれいに整頓されていた。
「なんかもっとこー、キラキラしてるかと思った」
「普通で悪かったな」
「いや、普通が一番って言うじゃん?」
「フォローになってねえ」
敢えて否定せずに笑顔で返すと、会長からの鉄拳つきのツッコミが入る。痛い。殴られたそこを自分で撫でながら、リビングへと足を踏み入れた。
「座れば」
豪華絢爛ではないけれど、シンプルな三人掛けのソファは、確かに俺たちの部屋では考えられないインテリアである。短く促され、俺は素直に腰掛けた。会長も横に座る。
「つーかさ、寝てなくていいんすか」
「飽きた」
「えー何それ」
横を向くが、会長とは目が合わない。短く返され、俺は呆れながらもつい笑った。生真面目で働き者の会長らしい、といえばらしい答えだ。
「体調は大丈夫なの」
「おかげさまでな、暇なくらいだ」
「うーわー最高じゃないすかー。俺なんてさー、……」
と、ここから先は愚痴タイム。ソファにどっかり寄りかかり、今日生徒会室であったことをありのまま話した。忙しすぎたこと、仕事にならなかったこと、会長いないとやっぱまとまりがないこと、諸々。たった一日なのに、割と我慢してたみたいで、言葉が溢れるように零れていく。
「あー……なんつーか、」
それをただ、会長は静かに聞いてくれていた。考えるような唸り声をあげてから、俺を見る。
「悪かったな」
目を見て言われた短い言葉は、きっと、会長の本音。
それを聞くと、ぐっと、何かが込み上げてくる。
今まで我慢してたものだとか、不平不満だとか、でもそれ以上に、俺のことをわかってくれた安心感。喉奥から込み上げてきたものが溢れ出しそうで、俺はぎゅっと唇を噛み締めて、下を向いた。
「べつにさ、謝ってほしいわけじゃなくて」
「わかってる。謝ったところで状況は何も変わらねえ」
「うん」
「――お前にだけ、背負わせてるな」
そう言うと会長は、ふと俺の方に腕を伸ばして、俺の髪をふわりと撫でてきた。今までにもそういうやり取りは何回かあったけれど、今日は手つきが殊更やさしくて、小さく息を呑む。
「ほ、んとっすよ。今まで一番不真面目だったのにさー、何この状況、みたいなー」
努めて普段の調子で返そうとして、冒頭で噛んだ。失敗だ。視線を背けたまま続ける間も、会長の手は離れない。
「会長いないと、マジぐだぐだなんすよ」
「ああ」
「なんでもかんでも全部俺だしー」
「まあ、そうなるな」
「ほんとさー、早く戻って来てくんないとちょー困るっていうか、……うわ、」
さっき十分吐き出したと思った愚痴が、またするすると口から溢れてくる。それはある意味誤魔化しのようなものだったけれど、会長がやっぱり頷いてくれるから、調子に乗ったのは否めない。密かな本音を付け加えると、不意に力が加わって、肩から会長の方に引き寄せられる。え、なに、なにこれどーゆーこと。隣に座る会長が、俺のことを、ぐっと肩から引き寄せたのだ。会長の首筋に、俺の頭が当たる。
「鈴宮」
「は、はい」
低く掠れた声で名を呼ばれ、頷くことしかできない。頭を動かすと、肩にあった手が頭に回り、更に引き寄せられる。――抱き寄せられる、っていうほうが、正しいかもしんない。
「一回しか言わねえから、よく聞けよ」
触れるくらい近くで、会長が囁く。この人が本気出したら、どんな女の子でも落とせそうだ。その声はそれくらいイケメンで、ほんのちょっぴり悔しくなる。
「会計がお前で、よかった」
――あ、会長がデレた。
吐息混じりのその声は、いつもよりも穏やかだ。聞き慣れないその響きに、感動よりも先に、驚きが込み上げる。表情を覗き見ようと顔を上げると、予想よりも大分近くに、会長の顔があった。
「かいちょ、」
戸惑いとか困惑とか、とにかくそういう感情で、うまく声が出ずに掠れた呼び方になった。それをどう捉えたのか、会長が手を動かし、俺の頬に触れてきた。うわあなんかすげー、やな予感。でも、動けない。間近に映る会長の黒い目が、普段からは想像できないくらいに優しくて、だけど、何かに怯えるような色も見えた。その色の理由を探るのに必死で、俺は、会長が徐々に近づいてくるのにも、気付けなかった。
「すずみや、」
耳に入るのは、空気に馴染んだ甘ったるい囁き。
その一瞬後、唇に、柔らかな感触が、した。
――ある意味では慣れた行為、でも、今まで経験したどれよりも硬くてざらついたそれは、俺の頭に、衝撃の二文字を叩き落とした。
「抵抗しねえと、」
――舌入れるぞ。
あまりの衝撃に、固まるしかない。瞬きするのも忘れていると、顔を傾けた会長が、触れ合いそうなほど近い位置で、そう続ける。脅しとも取れなくはないその言葉に俺はハッと我を戻して、
「おっ、お、お、お邪魔しましたー!」
……逃げた。
すぐさま立ち上がって玄関にダッシュして靴を履き、無駄に元気のよい挨拶だけを残し、会長の部屋を後にする。
いろいろ予想外過ぎて、意味がわかんない。
いやでもあのままあそこにいたら、絶対食われてたような、気がする。
間近で見た黒い瞳を思い返して、俺は小さく息を呑んだ。
――だから、俺が好きなのは女の子だってば。
勝手に高鳴りそうな心臓を、理性でぎゅうぎゅうと押し込める。硬い唇の感触を思い出してしまいそうで、ぶんぶんと大きく首を横に振った。
「疲労ってのは、怖いなァ……」
きっと会長は、欲求不満でもあったんだ。ここのところ忙しくて、そういう処理もできなくて、丁度よくやってきた俺に……的なね。そう考えれば、相手してあげればよかったというのも一瞬頭を過ぎるけれど、いやいやだから俺が好きなのは、と、無限ループに陥る。
自分の部屋に帰るまで、どうしても落ち着かなかった。
無駄に元気よく挨拶をして出て行った後輩が去ると、室内には静寂が訪れる。
「あー、……疲労ってのはマジで怖ェな」
理性の利きが、悪くなる。もう十分療養を取り、回復したと思ったけれど、それは勘違いだったようだ。
各務はソファに深く凭れかかり、重いため息を吐きだした。
手を出すつもりはなかった。だが、彼の愚痴を聞く度に、言い様のない感情が胸にこみ上げてきた。それはきっと、全てを彼に任せている申し訳なさだとか、今さら役員面をする他の面々への怒りとか、様々なものが複合された気持ち。本心からの謝罪に、彼はさらに愚痴を連ねた。それを聞くのは苦ではなかった。最近、二人でいる時間が長い所為か、彼ののんびりとした語り口に慣らされてしまっていた。しかし、
――ほんとさー、早く戻って来てくんないと困るっていうか、
と、少し照れたように素っ気なく言われて、もう駄目だった。
例の転入生が出て来て依頼、増えることはあっても減ることはない仕事に、半ば義務感で対応していた。最早そこに、生徒会長なんて華々しい役柄は関係ない。学園行事が円滑に終わるための雑用で、あくまでも他の生徒の影に徹する役割。特に書類仕事なんて、誰がやっても同じだ。やや卑屈になっていた所為で、余計、ストレスも感じていたのかもしれない。
だが、鈴宮は、必要としてくれている。
その事実を、彼の口から聞けたことで、各務の中の箍が外れた。求めるままに鈴宮を抱き寄せて、囁いて、驚いているのを認めながらも、口付けた。――拒まれるかと、思った。全身で拒まれた方が、まだよかった。
「くっそ、」
間近で見た、鈴宮の目が忘れられない。色素の薄い茶色い瞳が、困惑の色を浮かべながら、けれど確実に、その瞳に自分を映していた。各務は口内で毒づいて、爪先が白くなるほど拳を握る。
――今度から、どうやって会えばいいんだ。
舌を入れると脅したのは、各務の中の良心だ。あのまま拒まれなかったら、本当に、何をしていたかわからない。
次、生徒会室で会うときにどう接すればいいのか、各務はそれだけを考えた。鈴宮のことだから、完全拒否はないだろうが、何もなかったかのように振る舞われても、それはそれで複雑だ。
各務総一郎18歳、初めての経験に、悩みは絶えない。
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