36 / 73
副会長・椎葉若菜の場合
――白黒の世界が、一気に色づいた。
その日、生徒会副会長こと椎葉若菜は裏庭にいた。
朝から、学園中が騒がしい。号外と銘打った新聞には、転入生のことが書かれていた。どこに行っても、その転入生の話題で持ちきりだ。取り巻きの男子生徒に手渡された新聞を一瞥したが、【超絶美少年】という煽り文句と共に映った写真を見て、ふっと鼻で笑い、すぐに新聞を処分させた。そんなものに興味はない。
裏庭に呼び出されるのは、ほぼ毎日のことだった。一年の時は上級生に、二年の時には上級生と下級生に、三年になったら同級生と下級生に。椎葉の噂を知っているのかいないのか、告げられるのは、真剣な想い。今日も、一人の男子生徒に呼び出された。
上背の高い、真面目そうな男だった。釣り上がった目が特徴的で、男らしい顔立ちをしている。彼は彼で、下級生にモテそうだ。椎葉は腕を組み、ふっと口角を上げた。
「何か用か」
よく通る声で問いかけると、彼はぐっと唇を噛む。そして躊躇した末に、口を開いた。
「実は……ずっと、見ていたんだ」
そうして紡がれる声色は、やはり真剣なもので、椎葉は目を細める。
「へえ。それで?」
椎葉は彼に触れそうな程に近づいて、顎を上げて彼を見た。男子生徒はその距離に一瞬たじろぐが、すぐに真面目な顔を取り戻して、言った。
「好きなんだ。俺と付き合ってくれないか」
震える声色から、緊張が見て取れる。椎葉は笑い、彼の首筋を撫でた。それに彼は、肩を竦める。
「しい、ば」
戸惑う声が、彼から洩れる。椎葉の手に触れられることか、それとも、自分がしようとしていたことを、椎葉からされていることに驚いているのか。そんな反応も、常だ。
「お前は、俺の何を知っている?」
短い黒髪を撫でて、耳元で囁くと、男子生徒の肩が震えた。
「お前、の、」
「お前は、俺の全てを見てきたのか?」
殊更優しい手つきで頬を撫で、瞳を細めて囁くように告げると、彼の瞳が見開かれる。
「生憎俺は、お前の名前も知らない」
触れ合いそうなほど近くで、耳の奥に声を吹き込む。その残酷さに、真面目な男子生徒の瞳が揺れた。
「それでも、付き合いたいと思えるか」
それは甘い声色だった。
しかし、男子生徒には、絶望を与えたようだった。
悪かった、と一言言い置いてよろよろと去って行く男子生徒の背を見送り、椎葉は小さく息を吐いた。この三年で、何度目になるかわからない。
椎葉の見た目と、高飛車な言動、それらに勝手な幻想を抱き、堪えられなくなったように自分の思いを告げ、現実を知ると去って行く。酷いときには、力づくで抑えられることもあったけれども、返り討ちにしてやった。確かに椎葉はこの学園の平均身長からいえば小柄だが、幼少の頃から、護身術の心得があった。簡単には押し倒されない。立場を逆転されて戸惑う男の顔も、椎葉に良いようにされて快楽に呑まれていく様を見ることも、快感といえば快感だ。だが、そんなことをしたって、虚しさだけが残るだけだった。
――例えば。
椎葉は思う。
――例えば、運命的な出会いをし、相思相愛になれる相手が現れたら。
この、自分を囲む世界の色は変わるのではないだろうかと。
幼い頃から、年の離れた姉の影響で眺めるようになった少女マンガ。それに描かれるヒロインとヒーローのように、きらきらと華が舞う世界になるのではないだろうか、と。
――全くそんなこと、夢物語に過ぎない話だ。
己らしくない思考を鼻で笑い、椎葉は校舎内に引き返そうと踵を返した。そこで、ふと、足を止める。そこで見た光景に、目を奪われた。
――世界の色が、変わった気がした。
裏庭には、季節の花々が植えられている。その花に、小さなジョウロで水をやり、更に、何処からやって来たのか、小鳥たちと戯れる、一つの影があった。見慣れない小柄なその生徒は、とても楽しそうに、そして、幸せそうな顔で、花を見つめていた。彼の肩に、小さな鳥たちが乗り、ピーチク鳴いていた。
それはまるで、映画の1ページ。
この男たちの学園では、なかなかにない、華やかな光景だった。
ぼんやりとしていたからだろうか、足元の小枝を踏んでしまい、パキリという音が鳴った。それに気付いた彼が、此方を見る。大きな目を何度か瞬かせた後に、ふわりと笑った。まるで花が開くような笑顔を目にすると、椎葉の世界も、明るい色で埋め尽くされた。
「こんにちは」
「あ、ああ……」
ぺこりと頭を下げられて、咄嗟に反応できなかった。
そのときに二、三言、言葉を交わした気がするが、頭の中がふわふわとしていて、正直よく覚えていない。ただ、男にしては高めの声が、心地良く耳に響いてきたのだけは、忘れられずにいた。
その日の午後はもう、彼のことしか考えられなかった。取り巻きの一人に言って、今朝の新聞をもう一度手に入れさせたほどだ。新聞には憶測しか書かれていなかったが、はっきりと顔が見えないこの写真を目にするだけで、胸の高鳴りが増してくる。授業なんて頭に入って来ない、昼休みの裏庭で見た光景だけが椎葉の頭の中を支配する。
――もっと、彼のことが知りたい。
彼に触れたい、声が聴きたい、会いたい。
胸の内に募る欲求に、椎葉は思わず口角を持ち上げた。
――結局俺も、あいつらと何も違わない。
今まで馬鹿にしていた、己に好意に寄せていた連中を思い出し、自嘲せずにはいられない。
けれど、生まれて初めて抱いたこの想いを、無にすることも出来なかった。
その日から椎葉は、出来得る限り、転入生こと剣菱と行動を共にした。剣菱は最初こそ戸惑っていたようだが、いつしか椎葉の存在を受け入れた。双子や平良もくっついてくるのは鬱陶しかったが、仕方がない。剣菱は自分だけのものではない。――今は、まだ。
だが、椎葉の世界は、すっかりと剣菱中心に回っていた。いつだって、どんなときだって。
それが崩れたのは、体育祭がきっかけだった。
女子高生の格好の剣菱は、とても愛らしかった。花嫁なんて動きにくい恰好でなければ、すぐに攫ってしまいたいくらいで、余興であるリレーは、椎葉にとっては嬉しいものだった。無条件で、剣菱をお姫様抱っこできるのだ。とんだご褒美である。各務と鈴宮はムサ苦しい恰好で抱き合っていて、双子と平良はもはや滑稽だった。できるだけ優雅にゴールを飾ろうと、そしてできるだけ長い間この体温を堪能しようと、椎葉は剣菱を大事に抱いて走った。
野太い歓声を受けながらゴールを飾ると同時に、鈴宮の「会長?!」という声が響き渡る。各務が倒れたのだと理解するまで、そう時間は掛からなかった。
衣装を着替える暇なく、各務が運ばれた救護室へと向かった。そこにいる各務の意識は既になく、鈴宮と風紀委員長の城戸が、各務を見下ろし、保健医である匡野から診断結果を聞いているところだった。
「ふん、軟弱だな」
腕を組み、各務を見下ろす。最近やつれていたとは思ったが、まさか倒れるとは、思わなかった。つい洩らしたら、鈴宮の目が据わった。肩が震えている気がする。
「……れの、」
それは、今まで聞いたこともないような低い声だった。隣にいる剣菱が、びくりと肩を揺らすから、つい、彼を庇うように一歩前に出た。
「誰の所為だと思ってんすか」
鈴宮の顔が、上げられる。厳しい目が、椎葉たちに向いていた。普段の緩い穏やかな彼からは想像もできないほど、剣呑な目つきだった。
「あんたらの所為で、倒れたんだっつーの」
椎葉たちは、何も言うことができない。隣で平良が、ぐっと唇を噛み締めて、俯いていた。双子ですら、茶化す言葉を飲み込んでいる。
「責任とって、会長の仕事しろよ」
その一言も、予想外だ。「は?」と思わず間の抜けた声が零れ出る。
「返事は?」
しかしその反応に焦れたように、鈴宮が促した。その声は今までのどれよりも低く、底知れない迫力がある。椎葉でさえ、ひやりと肝が冷える心地がする。
「は、はい」
そして思わず、頷いてしまった。
他の役員も同じらしい。平良なんて特に、こくこくと何度も首を振っていた。
風紀委員長と各務を運ぶ鈴宮を見送り、役員たちは控室である会議室に戻っていた。心なしか、沈黙が重い。衣装を脱ぐ傍らで、剣菱がぽつりと呟いた。
「会長、大丈夫でしょうか」
スカートの下から豪快に短パンを履き、スカートを脱ぐ。それを少し勿体なく感じながらも、椎葉は頷いた。
「そこまで軟なヤツじゃない。少し休めば治るだろ」
「あの会長だから」
「這ってでも元気になるさ」
双子は剣菱を気遣って言い、彼の頭を代わる代わる撫でる。イラつくのを抑えつつ、椎葉も重い衣装を一つずつ脱いで行った。
「会長……」
平良が、小さく言った。大きな身体を丸め、明らかにしょぼくれている。
「でかい図体で鬱陶しいヤツだな」
「よ、よく……言われます」
「タイラー」
「自慢にならないよ」
双子が憐れみの目線を平良に送る。その通りだ。
「鈴宮さん、……怒ってましたね」
剣菱の声のトーンが落ちる。眉毛は垂れ下がり、大きな瞳が揺れていた。椎葉は何も言えず、脱いだ花嫁衣裳の代わりに、元々着ていた体操服とパーカーに腕を通す。
「あんな流初めてだよ」
「怖かったね」
「怖かったよ」
双子はメイド服のまま、身を寄せ合ってぶるぶると大袈裟に震えている。平良も何も言わず、ただ俯いて、いつ負ったのか、傷の残る左頬を撫でていた。
「俺……もう、困らせたくないです」
剣菱の声が、会議室に響いた。その声色には確かな決意が混じっていて、椎葉は息を呑む。
「剣菱さんのことも、会長のことも」
真っ直ぐと、こちらを射抜くような瞳を見え、椎葉はぞくりと震えた。こんなに意思の強い瞳ができるなんて知らなかった、――そしてそれが、こんなに魅力的だということも。
「俺にできることなら、なんでもしたい。だから、」
――皆さんも、協力してくれませんか。
ああ、俺は今まで一体、何をしていたのだろう。
剣菱と共に在ることが、自分の幸せだと思っていた。周囲を顧みず、ただ彼が笑うことを、考えていた。そして、他の何かに、彼を取られることを恐れていた。
だが、それは、間違いだった。
鈴宮のために各務のために、こんな表情をさせてしまうことになったのだから。
彼の全てがほしい椎葉は、ぐっと奥歯を噛み締める。
「ふん、――当たり前だ」
椎葉は剣菱の頭を寄せて、その耳元に囁く。
「お前が望むなら、何だってしてやる」
――そう、それが例え、二人の距離を開けることになっても。
一週間の業務停止命令を出された各務の代わりに、椎葉は体育祭の後片付けの指揮を執った。そのテキパキとした指示は、今まで職務を放棄していた人物とは思えないほどで、剣菱が「スゴイです椎葉さんっ」と褒めるものだから、椎葉も悪い気はしなかった。
鈴宮も心なしか満足そうだった。
今度は、生徒会室で、真っ当な仕事をする自分の姿を愛しい人に見せてやろう。
――それが、彼のためになるならば。
ともだちにシェアしよう!