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親友兼幼馴染み・天乃雫の場合

 ――きっと一生永遠に、忘れることのない記憶。  天乃雫は、どこにでもいるような極普通の少年だった。やんちゃすぎず大人しすぎず、大して手はかからないけれど、友達と一緒に悪戯をして先生に怒られるという一面もある、普通の男の子。交友関係も、広くもなく狭くもなく、特に問題もなく、子どもらしくただ毎日元気に幼稚園に通っていた。尤もその頃は、何も深く考えず、ただ感じたまま生きていたと言った方が正しい。次男ということもあり、家族も特に天乃のことを心配していなかったように思う。あの頃は自由だった、と、当時を振り返るとしみじみ思う。  年長になり、幼稚園でクラス替えが行われた。仲がよかった友達とはクラスが離れてしまったが、新しい友達ができるかとわくわくしていたときのことだった。先生の話や朝の会が終わって自由時間になったとき、天乃少年は、目を疑う光景を目にする。 「ねー、どっちがすきなのー?」 「はっきりしてー」  水色のスモッグを揺らし、幼女がふたり、少年に迫っていた。それも結構な剣幕で。真ん中に位置する少年は垂れ気味の大きな目を瞬かせ、幼女ふたりを交互に見る。それから、笑った。 「まゆちゃんはかわいいよね」 「えーえへへ」  長い髪をお下げにした幼女が、照れたように笑う。 「さきちゃんはねー、いっしょにいてたのしいなー」 「うん、さきもたのしい!」  肩までの髪を下ろし、大きなリボンをつけた幼女が嬉しそうに笑った。 「だからさ、きめられないよ」 「え」「え?」 「ふたりともすきだなー」  やさしく笑う少年の姿を見て、ひどくイラッとしたのを覚えている。  ――リア充しね、今ならば確実に、そう思っていた。  しかし当時の天乃少年にそんな語彙はなく、(なんかやなやつだな)と思う程度だった。ふたりの女の子に言い寄られているのが珍しく思わずじっと見ていたら、不意に、少年と目が合った。大きな薄茶色の瞳が、じっと此方を見てくるから、逸らせない。暫く見つめ合った末に、彼が、ふわりと笑った。両サイドにいる女の子を置いて、てくてくと天乃の方に歩いてくる。 「ねえ、おなまえ、なんていうの?」  彼が首を傾げると、瞳と同じ、少し色素が薄い茶色掛かった髪が揺れる。どこか甘いトーンで問われて、天乃は少したじろいた。今までの友達はやんちゃで元気な子が多く、こんなにやさしいトーンで話す男の子は初めてだった。 「し、しずく。あまの、しずく」 「しずくくん。おれはねー、ながれっていうの」  すずみや、ながれ。  スモッグについたチューリップ型の名札にも、ひらがなでそう書かれている。甘いトーンで紡がれた名前が、天乃の耳に、すっと入り込んできた。 「ね、あそばない?」  そして、女の子たちに聞こえないように、天乃の耳元でそう囁く。「ねえ」「ながれくん!」と促す女の子たちをちらっと見て、「ね?」と促され、さすがの天乃も何となく察した。 「いいよ」 「ありがと」  頷くと、ほっとしたように笑う。その笑顔にちょっとだけドキっとしてしまったのは、封印された記憶である。 「まゆちゃんさきちゃん、ごめんね? ちょっと、しずくくんとあそんでくる」 「えー」「ずるーい」 「おとこのあそびなんだ」 「もー、こんどはまゆたちとあそんでね?」 「うん、やくそく。いこ、しずくくん」  そういうと幼い頃の鈴宮は、天乃の手を掴んで、走り出した。  ――そうだ、あいつは小さい頃から、なんだかんだ強引だった。  外に出ると、鈴宮は悪戯が成功したときのように、満足そうに笑った。 「ありがとー」 「いいけどさ、よかったのか?」 「あたらしいともだち、ほしかったから」  外にある遊具でそれぞれ遊んでいる子どもたちの声が、響いている。鈴宮の声はその中でもはっきりと聞こえ、それを耳にして、天乃は笑った。 「おれたち、ともだち?」  そして、鈴宮が、ちょっと不安そうに、期待を込めて聞いてきた。天乃は笑ったまま、大きく頷く。 「よろしく、ながれくん」 「うん! よろしくね、しずくくん」  手を差し出して、改めて握手をした。その頃はそれが、友達のしるしだった。  ――それが、鈴宮と天乃の、出会いである。  それから二人は、よく遊ぶようになった。家が近いことも発覚し、母親同士もよく話すようになり、家族ぐるみで仲よくした。二人で秘密基地を作ったり、鈴宮が天乃とばかり遊ぶのをよく思わない女子が癇癪を起したり、いろいろあったけれど、殆ど喧嘩することはなく、鈴宮と過ごす毎日は、ただ楽しかった、記憶がある。 「るりちゃんとみなちゃんがさー」  あるときの夕方、河原で遊んでいたら、ぽつりと鈴宮が言った。彼の口から女の子の名前が出ない日はなかった。 「うん?」 「どっちがおれとけっこんするかでけんかしてた」 「もてもてだなー」  感心するしかない。やさしいのと、ほめじょうずなのと、きれいな見た目の所為か、やっぱり鈴宮は女の子から引っ張りだこだった。本人は女の子よりも天乃と遊びたがるから、残念ながら天乃は女の子からは敵視されている。かなしい。 「けっこんするならしずくくんがいーなー」  鈴宮が、年長らしくない疲れた調子で小さく言う。その内容に、天乃は思わず目を開いた。 「はあ?」 「だってしずくくん、やさしーし」 「ふつうだよ」 「いっしょにいてたのしいよ」 「それは、おれもだよ」 「えへへ」  思わず同意したら、鈴宮が照れた。その顔があまりにも嬉しそうだから、幼き天乃少年は、思わず口にしていた。 「じゃあ、けっこんする?」  鈴宮は、大きな目を何度かぱちぱちと瞬かせた。そして、やっぱり、ふわりと笑う。 「おおきくなったら、しよ」  それは、大きくなったら好きなものをいっぱい食べたいとか、仮面ライダーになりたいとか、子ども特有の将来への無謀な期待を込めた夢と同等のものだった。それと同時に、思い出すとじたばたと暴れだしたくなってしまいたくなるほどに、甘酸っぱい記憶である。  鈴宮流という少年は、いつもふわふわにこにこと笑っていた。特に天乃の前ではよく笑っていて、鈴宮の笑顔を見ると天乃も嬉しくなるから(変な意味ではない。断じて。)、ふたりの間に喧嘩という概念はほとんど存在しなかった。天乃は前述した通りごく普通の少年だったから、他の子どもとはどうでもいいことで言い合ったり泣いたり泣かせたりしたものだが、不思議と鈴宮相手にはそれがなかった。鈴宮は他の子ども相手にも同じで、例えば女の子から言い寄られたら困った顔をして、逆に女の子を泣かせてしまってさらに困ったりもしていたけれど、基本的には穏やかだ。だから結局、幼稚園の卒園式まで、天乃は鈴宮の涙を見ることはなかった。  ――その卒園式の日が、最初で最後になる。  天乃の親の仕事の都合で、引っ越しが決まったのだ。天乃の小学校入学を契機に、隣の県へと引っ越すことになった。急な知らせで、しかも卒園式が終わったらすぐの出発だった。親から言われたときには意味がわからなかったけれど、段々と自分の部屋の荷物が段ボールに詰められて減って行くのを見て、ああここからいなくなるんだ、と何となく理解してきた。 「おれさー、ひっこすんだって」 「ひっこすって?」 「とおくへいっちゃうの」  いつものように家の近くの河原で二人で遊んでいたときのことだ。鈴宮には言わなければいけない気がして、ボール遊びの途中で何気なく告げた。鈴宮はすぐには何も言わず、大きな目で天乃をじっと見る。 「それって、もうあえないってこと?」 「そうかも」 「そっかあ」  天乃が頷くと、鈴宮も頷いた。  それ以降、鈴宮の口数が一気に減った。さすがに何だか気まずくて、でも何も言えなくて、その日は自然といつもより早めに家に帰った。  ――もうあえないってこと。  その一言が、ずしりと重く心にのしかかってくる。  家に帰って、母親に「ひっこしやだ」と言ったら、殴られた。人生、うまくいかない。  しかし次の日にはもういつも通りの鈴宮に戻っていて、ほっとすると同時にほんの少しさみしくもあった。なんとなくそんな気持ちのまま残りの毎日を過ごし、いよいよ、卒園式の日がやって来た。卒園証書をもらって、親子で記念写真を撮って、卒園生全員で写真を撮る。天乃の隣には、鈴宮がいた。その後ろには保護者がずらりと並び、子どもたちはただ楽しく写真に写っていたのに、涙ぐんでいた人たちが多かった。鈴宮と天乃も、笑っていた。  またしょうがっこうであおーね、そんな約束がそこかしこで交わされ、それぞれが親と手をつないで帰路に着く。天乃と鈴宮は、分かれ道まで一緒に歩いた。二人が前を行き、その後ろを親同士が話をしながら歩いていた。 「ねー、しずくくん」  そろそろ分かれ道に差し掛かる頃、鈴宮が天乃を呼んだ。思わず足を止める。 「なに?」 「これ、あげる」  鈴宮が手にしたのは、1通の封筒だった。青がベースになっていて、車や電車が書かれている。中には紙以外のものも入っているのか、少しゴツゴツしていた。 「なんかね、げんきになるいし、いれた」 「なにそれ」 「げんきになるんだって」  今考えると意味がわからないが、それでも当時は鈴宮のそんな気持ちが嬉しかった。 「ありがと」 「うん、」  お礼を言うと、鈴宮は頷く。天乃の好きな笑顔が見られないのが残念だなと思っていたら、俯いたまま、鈴宮の肩がふるふると震えた。 「ながれくん?」 「うー」  唸り声がしてぎょっとすると、大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れてきた。アスファルトに、ぽつぽつと涙の跡がつく。それに気付いた母親が、「あらあら」と困った声を出す。鈴宮の母親に至っては、「何泣いてんのよー」と笑っていた。 「だって、やだよ」 「なにが?」 「しずくくんと、あえなくなるの、やだ」  嗚咽混じりに紡がれる本音に、じわじわと天乃の胸が熱くなる。気付いたら、天乃の目にも、じわりと涙が滲みそうになるが、奥歯を噛んでぐっと堪える。 「おれもだよ」 「しずくくん」 「でもだいじょぶ」  天乃は、鈴宮の手を両手でぎゅっと握った。天乃の力強い言葉に、鈴宮は涙を残したままきょとんとしている。 「おおきくなったら、けっこんするから」  大真面目に告げたら、「っぶ」「ははは!」と背後で母親たちが噴き出す声がしたが、気にしている余裕なんてない。 「ぜったい、またあえるよ」  鈴宮の目を見て言ったら、鈴宮が、嬉しそうに笑った。ふわりとしたその笑みは天乃の好きなもので、最後に見られてよかったと思う。  名残を惜しみながら鈴宮に別れを告げる。鈴宮親子は、最後まで見送ってくれていた。自宅へと帰る最中、母親が「男同士じゃ結婚できないのよ」と笑い混じりに教えてくれて、衝撃と絶望が身体に走ったのを、よく覚えている。――もしかしたら、その一言が、今の自分の趣味のルーツかもしれない……。  そうして年長にして重い別れを経験した天乃は、新しい土地で小学校の六年間を過ごすことになる。相変わらず普通の少年として過ごした天乃は、再び、その小学校の友達に別れを告げて、地元に帰ることになった。また親の仕事の都合で、天乃の中学入学を機に以前の家に戻ることになったのだ。  真新しい学ランの制服に身を包み、桜の散る通学路を歩いている途中、天乃は思わず足を止める。 「同じクラスがいいなァ」 「あっは、奇遇だねエリちゃん。俺も俺もー」 「えーねえねえ、奈津子はー?」 「当たり前じゃん、なっちゃんとも同じクラスがいいなー」  ――くそ、リア充しねよ。  入学式の朝からいやなものを見たと、スルーしようと目を逸らしてきゃっきゃと盛り上がっている彼らの横を通り過ぎようとしたら、不意に、真ん中にいる男と目が合った。入学式だというのに既に制服のボタンは三番目まで開けていて、長めの前髪をピンで留めている。垂れ気味の薄茶色の瞳が、じっと天乃を見つめてきて、少しの間、視線が絡む。その後すぐに、彼が近付いてきた。 「しずくくん!」 「は?」 「しずくくんでしょ、ちゅーりっぷ組の!」  そして至極嬉しそうに、天乃の名前を言い当ててくる。その勢いに思わず仰け反るが、ちゅーりっぷの語に、頭の奥底に閉じ込めていたはずの記憶が、溢れるように蘇ってきた。 「な、……ながれくん?」 「うっわー覚えててくれた! そおそお、流だよ。鈴宮、流」  あの頃より一段階低くなった声は、けれど相変わらず柔らかかった。  「だれー?」「ともだち?」と、鈴宮を囲んでいた女子二人が、興味を隠せないといった調子で問いかけてきた。 「あーごめん、ちょい、先行ってて?」 「えー?」 「久しぶりに会ったんだ。ね、お願い」  鈴宮が手を合わせると、「もーしょうがないなー」「また学校でねー」と言って、女の子二人はきゃっきゃと話ながら先に行く。天乃の方はというと、事情を呑み込めきれずにいた。 「相変わらずだなー」 「しずくくんも、変わってないね?」 「雫で良いよ」 「あ、うん。じゃあ俺のことも、流って呼んで」  くん付なんてくすぐったい。鈴宮の申し出にも顎を引いて、改めて隣の男を見た。 「いつ帰ってきたの?」 「小学校卒業してから、だな」 「えー連絡くれればよかったのに」 「覚えてないと思ったんだよ」 「うわーヒドイ」  ――けっこん、してくれるんでしょ?  耳元に囁かれた言葉を耳にして、天乃は思わずその場でこけた。派手に躓く天乃を見下ろし、鈴宮は悪戯の成功した子どものような顔をしている。嗚呼、そういうところも変わってない。  ――それが、天乃と鈴宮の、再会だった。  ――そして、今。  結局は中学三年間も、鈴宮と天乃は一緒に過ごした。互いに、隣にいるのが当たり前になっていた。鈴宮は女の子と遊ぶことが多くなり、天乃は同じ趣味の友達と遊ぶこともあったが、それでも、互いの中の一番は揺るがなかった。あくまでも、親友、として。  しかし、奇しくも高校まで同じになり、挙句の果てに寮で同室にまでなってしまった。もしかしたら、近付きすぎたのかもしれない、と思う。隣に在るのが当たり前になり、感覚が麻痺しかけている。だから、妙な独占欲なんて、抱いてしまっているのかも。  天乃は自室の椅子に座り、裏新聞に目を通して深いため息を吐いた。それは体育祭の前に、生徒会室で撮られたものらしい。【号外! 体育祭の準備ではぐくまれる恋】という題字が大きく載り、向かい側の建物の窓から撮られたのがわかる遠目の写真が抜かれている。遠目だけれど、会長と鈴宮であることは、明らかだ。目の部分に横線が入っているのが、せめてもの良心だろうか。それを目にすると腹の奥から言いようのない不快感が込み上げてきて、天乃は唇を噛む。 (二次元だったら、嫉妬萌えーとか思うんだろうけどな)  当事者とあらば、話は別である。天乃は大きく息を吐き、その新聞をバインダーに閉じた。  丁度そのとき、ガチャリと鍵が開く音がして、「ただいまー」という声が続く。 「おー、おかえり」 「んー」  ここ最近、生徒会の仕事が立て込んでいるらしい鈴宮は、疲れ気味だ。やけに甘えてきて天乃が心を掻き乱されたのは、記憶に新しい。今日も、ふらふらと歩いたと思ったらすぐにベッドに倒れ込み、「つかれたあ」とため息と共に洩らす。天乃は笑って、鈴宮が寝転ぶベッドに腰掛けた。 「おつかれさん。大丈夫か?」 「だいじょぶー」 「じゃ、なさそうだな」  力ない声に笑い、手を伸ばして鈴宮の髪を撫でる。鈴宮は嫌がるどころか、甘えるように手に擦り寄ってきた。その仕草に、ドキリとする。更に触れたがる衝動をぐっと抑え、ゆっくりと手を引いた。 「すげー頑張ってるな、最近」 「でしょー」 「今日はどうだった?」 「なんかみんながんばってたよ」  生まれ変わったみたい、と続けて、鈴宮は少し笑った。会長が倒れて以来、愚痴を聞くのが多かったから、天乃もほっとした。 「そりゃよかったな」 「明日には会長も戻ってくるしさ」  鈴宮は起き上がり、天乃の隣に座る形になると、目を細めて告げる。その声が嬉しげで、天乃の胸に、ちくりとした痛みが走った。先ほど目を通した、新聞の写真が脳裏を過ぎる。 「会長、復活すんのか」 「うん、やっとだよー」 「また無理しすぎないといいな」 「ほんとにね、……雫?」  鈴宮が何か言うのを聞き終わる前に、後ろから腕を伸ばして抱きしめた。ふわりと香る柑橘系の匂いに鼻腔を擽られながら、その肩に頭を置く。戸惑う声に名を呼ばれたが、構わずに腹に入れた腕に力を入れた。 「癒してやろうと思って」 「なにそれ、」 「前に言ってたろ、癒して雫くーん、って」  甘えた声色を作って言うと、鈴宮が小さく息を呑んだ。忘れているらしいその記憶を刺激したのかどうかは知らないが、それに小さく口端を上げる。鈴宮は、拒まない。それどころか、諦めたように、天乃の方に体重をかけて身体を預けてきた。密かに、天乃の眉が寄る。  ――なんで拒まないんだよ。  その問いかけは、声にならない。代わりに、ぎゅ、と抱きしめる腕に力を込めた。 「なあ、」  耳元に囁くと、鈴宮は擽ったそうに身を捩る。そんな些細な反応にすら心臓が反応して、天乃は小さく息を吐いた。  自分がこうしても拒まないように、きっと、今の鈴宮は誰のことも受け入れるだろう。頭の中から、各務と抱き合っているあの写真が、消えてくれない。天乃は唇を噛み締める。  ――誰よりも残酷なことしてるって、自覚あるか。  なんて、幼馴染で親友ポジションに甘んじてこんなことをしている自分の口からは、絶対に言えなかった。 「しずく?」  再会したときよりも更に低くなった声が、天乃の名を呼ぶ。甘さを伴うその響きは幼い頃と何一つ変わっていなくて、天乃は目を細めた。その声が好きだと思うのも、幼い頃から変わっていない。 「あーあ、やりきれねえなー」 「なにが」 「自分がなってみて初めてわかるんだな」 「だから、なにが?」 「当て馬的ポジションの辛さってやつ」 「今日の雫、いつもよりもっと意味わかんない」  呆れた声色で言われる尤もな台詞に頷いて、天乃はぎゅうぎゅうと鈴宮を抱きしめる。 「お前さー」 「なに?」 「男にこんな風にされて、嫌じゃねえの?」  少しの躊躇いをもって問いかけると、振り向いた鈴宮と視線が合った。きょとんとした顔をしている。 「今さら何言ってんの」  そして続くのは、笑い声。 「だって雫じゃん、やじゃないよ」 「――それってどういう意味、」 「でももー離れてね、俺風呂入るからー」  ものすごく重要な、出来ればもう一遍聞きたいどころか録音したいレベルの言葉を聞いた気がする。改めて問いかける声は遮られ、腕を解かれてしまった。立ち上がる鈴宮の背を見つめ、一歩遅れて、天乃の顔に熱が上がる。 (うわ、)  ――だって雫じゃん、やじゃないよ。 (うわーーー)  脳内で再びその台詞を再生し、思わず顔面を覆う天乃だった。  その言葉にどんな意図があったのかは知れないけれど、腹にぐるぐると疼いていた不快感と頭の中を支配していたあの写真を掻き消すのには、十分だった。  そして、鈴宮の一言に一喜一憂している自分を自覚し、シャワーの音を壁越しに聞きながら、がっつり落ち込む天乃だった。  ――三次元は、どうしたってうまくいかない。

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