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第3章 サマー!(5)

 老舗旅館は、犬小屋さえもでかかった。  案内されたのは、客室のある棟から少し離れたところにある、庭の隅。高級そうな植木に囲まれ、地面には白くてきれいな砂利が敷き詰められている。会長は慣れた足取りで、足場となる大きな石をひょいひょいと飛び越えて、目的の小屋の前に向かった。俺も、慌てて追いかける。 「ワン!」  低い声に、思わず肩が跳ねる。目を向けると、立ち上がって柵に手をかけ、こちらを見る、ゴールデンレトリバーの姿があった。ぱたぱたと忙しなく尻尾が揺れて、心なしか、うれしそうに瞳が細くなっている。笑っているみたいだ。 「すげ、かわいー。この子が、うわさの?」 「ああ。――ただいま、ホクト」  ホクトっていうんだ。会長が穏やかに笑って、柵を開けてあげる。長い鎖で繋がれているから、逃げることはないんだろう。ホクトくんは長い尻尾をぱたぱた振って、優しく頭を撫でる会長の手に、擦り寄っている。 「ちょーうれしそうだね。ホクトくんホクトくん、初めましてー」  身を屈めて、ホクトくんと視線を合わせてみた。ホクトくんは初めて見る顔をじっと見て、俺が差し出した手を、くんくんと匂いを嗅いだ。 「だいじょぶだよーこわくないよー、ただの会長の後輩だよー」 「ホクト、噛んで良いぞ」 「え、なんで、ひどっ! ……あ、あ、なめた!」  会長の冷徹な一言にががんとショックを受けていると、掌に温かい感触がする。ぺろり、と、ホクトくんの長い舌が、俺の手を舐めてくれたのだ。心を開いてくれたようでうれしくなって、俺もホクトくんの頭を両手でわしゃわしゃ撫でた。長い毛が、気持ち良い。 「うわ、わ、わ、」  そのうち、ホクトくんも応戦するようにしてじゃれてきて、身体の大きなゴールデンレトリバーに対抗する術はなく、呆気なく俺はホクトくんに押し倒されることになるのでした……。ふんふん、部外者の匂いを確かめるように、首元の匂いを嗅がれる。 「ふは、は、くすぐったいってー」  引き離そうとするけれど、手に力が入らない。時々ぺろぺろとほっぺたや首を舐められて、くすぐったくて仕方がない。 「ねえ会長なにこの子、ちょおかわいーんだけどっ」 「同族だとでも思われてんじゃねえか」 「犬じゃないって俺っ、ていうか、そろそろ、助けてくれてもいーんじゃないすか!」  いい加減もう限界です。かわいいけど、かわいいからこそ、ホクトくんのぺろぺろ攻撃には抗う術もない。ホクトくんにじゃれつかれている俺を腕を組んで見下ろしているだけの会長に訴えると、「仕方ねえな」とばかりの溜息つきで、ホクトくんを背中から抱きかかえて離してくれた。ホクトくんは、「あそぶの終わり?」とでもいうように、首を傾げて俺を見てくる。ああもう、かわいいな! 「はーかわいかった」  けれども俺はもうぼろぼろである。肘をついて身体を起こし、乱れた浴衣を整える。ホクトくんを柵の中に入れて戻ってきた会長が、俺の前に腰を下ろした。手が、伸ばされる。 「何すか、」  伸びてきた手が、俺の首に触った。思わず顎を上げる。会長が、俺の首筋を撫でてくる。……あれ、そこ、何かあったっけ。 「まだ、遊んでんのか」  会長が、掠れた声で囁いた。――あ、あ。あれか。 「い、いやこれはー」  幼馴染の爽やかな笑顔が、頭を過ぎった。だらだら冷や汗が流れてきて、俺は会長から思い切り目を逸らした。 「このクソ忙しい中、よくそんな暇があるな」 「違うってばー」  ていうか擽ったい。会長の指先が、俺の首筋――今朝方、雫に付けられたキスマークをそっと撫でてくる。 「じゃあ何か、……本命、ってやつ」  本命?  本命って言った、この人。  どうしてもこのキスマークを付けた幼馴染の顔が浮かんで、俺は慌てて首を横に振った。雫も、そんなつもりじゃない、絶対。 「だ、だから、違うって!」 「ふうん……、違うんなら、問題ねえよな」  え、問題ってなに、なにが。  首筋を撫でていた手が、俺の顎を捉える。気付いたら会長の顔が間近にあって、瞬きするのも忘れていた。切れ長の目、真っ黒い瞳がキレーで、会長ってやっぱりイケメン、なんて思っていたら、唇に柔らかい感触がする。 「!」  そこでハッと気付いて顔を離そうとするけれど、顎を掴む手が、それを許してはくれなかった。思わず、目を瞑ると、より感触がリアルになる。残念ながらその感触には覚えがあった。体育祭の後、会長の部屋で、感じたもの。あのときは一瞬だったけど、今回はやけに長いような……、と思った直後、ぬるりとしたものが唇に触れてきた。え、え、これは、まずい、気がする。  つい唇を開けると、その隙をついて、熱い舌が、口の中に押し入ってくる。歯列を割ったかと思うと、咄嗟のことに縮こまった俺の舌を捉えて、絡めてくる。その熱さに、ぞわりと背筋が粟だった。 「んっ、んん、……っふ、」  くぐもった声しか出ない。首を振ることも許されず、飲み込みきれない唾液が、口許を濡らした。逃げ出そうとする俺の舌を会長の舌が捉えて離さず、噛んだり吸ったり、刺激される。ううう、いつも、女の子にしてきたことを、自分がされるっていうのが、信じられない。しか も相手が、あの、会長だ。 「っは、ふ、」  そろそろ本気で息苦しくて、会長の肩を強めに引っ張ったら、漸く、会長がゆっくりと顔を離した。息が上がる。久しぶりに目を開けたら、少しぼやけた視界の先、近い位置に会長の顔が見えた。その顔は、珍しく、どこか困ったような表情にも見えた。いやここで困るのは、俺の筈。 「――なんて顔してんだ、」  溜息混じりに言われて、お互いの唾液で濡れた唇を、会長の親指が拭う。その台詞で、はっとした。 「か、かいちょ、」  俺が呼ぶと、会長の目が俺を見る。黒い瞳が、少しだけ揺らいでいた。 「も、もしかして、欲求不満? でも俺男はちょっと……」  そうだ、会長は疲れている。疲れマラっていう言葉があるくらいだし、そろそろ見境がなくなる頃なんじゃなかろーか。その証拠にほら、前回は途中でストップしたのが、今回はガッツリ舌まで入っちゃったし。もしそうなら、島に戻ったら可愛いけど後腐れのないような子辺りを紹介してあげないと、と妙な使命感を持って尋ねたら、会長は俺の顔をじっと見た。そして、深く重いため息を吐き出して肩を竦める。アフレコを入れるなら、「ヤレヤレ」って感じ。 「えっ、なにそのリアクション!」 「そろそろ、部屋戻るぞ」  シカト?! と文句を言おうとした唇の端、まだ濡れていた部分を会長の親指に拭われた。そしてその指を、会長が舐める。その仕草に、少しだけドキっとした。 「つ、うか、会長えろい。やらしい。すけべー」 「どっちが。……立てねえなら、抱えてやろうか」 「た、立てる! 立てます!」  いつまでもぐだぐだとして立とうとしない俺を見下ろし、会長が半笑いで言ってきた。べ、べつに、腰とか砕けてないからね! た、確かに(すごく悔しいことに)、会長のちゅーはうまかったけどお……。俺は砂利に手をついて立ち上がって、乱れた浴衣を元に戻した。 「鈴宮、」 「ほら見て会長、星がいっぱい」 「――ああ、そうだな」  ああよかった、今回は、ふつーに話せる。視線を上げれば、それだけで無数の星が視界に入って、会話の糸口を見つけ出すことに成功した。避暑地の空は、昼でも夜でも、とてもきれいだ。  寂しそうに尻尾を垂らすホクトくんにバイバイして、会長の後に続いた。口の中はまだ熱いけど、ひんやり涼しい夜の風が、色々冷ましてくれるはずだ。きっと、多分。  部屋に戻ると、それぞれがそれぞれの布団の上で眠っていた。双子は隣の布団できれいに同じ寝相で眠っていたし、平良くんはピクリともせずに仰向きで寝息を立てている。副会長はちゃっかり剣菱くんの布団にもぐりこんで挙句の果てに剣菱くんを抱き締めて幸せそうに(剣菱くんはちょっと魘されていた)眠っていた。俺は空いている端っこの布団、会長は反対側の布団に潜り込んだ。  ふかふかの布団に包まれて、目を閉じると、否応なしにさっきのことが頭を過ぎる。二回目のちゅーは、激しかった。  ……やっぱり、女の子を紹介してあげよう。  名残のある唇を自分の指でなぞりながら、そう決心して、眠りに就いた。  夢の中では、ホクトくんと朱莉ちゃんが遊んでいた。俺もそれに混ざろうと思っていたら、雫に手を引っ張って止められた。そっちに行っちゃいけない、そう口にする雫に、なんで、と理由を聞く前に、雫が消える。代わりに現れたのは剣菱くんで、なにか言ってくるけど俺には聞こえず、やっぱり、剣菱くんも消えてしまった。俺だけ暗闇に取り残されて、そのあとは、もう、覚えていない。

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