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第3章 サマー!(7)

 「かいちょ、手、痛いってー」  部屋に戻っても、尚、手首はきつく掴まれたままで、思わずそう訴える。部屋の中央に立つ会長は俺のことを見て、手首を見て、ゆっくりと手を離した。背が向けられて顔はよくわからないけれど、多分、ものすごく機嫌が悪い。 「あんなとこでナンパしてんじゃねえよ、ウチの品が下がる」 「えー? あんなのナンパに入んないっしょー」  赤くなった手首を擦っていれば聞こえる声に、思わず返事をする。いや、正確には、ナンパしようとしたところで割って入られたっていう、ね。真面目な会長にはその答えは通用しなかったようで、思い切り舌打ちをされた。 「かいちょ、ぅわっ」  気まずさに堪え切れずに会長を呼んだら、不意に肩を押される。一瞬の後、畳の硬い感触が背中に当たって、押し倒されたということを知った。そういえば、昨夜も、この角度で会長の顔を見上げたなあ……。 「もー、なんすかいきなりー」  肘だけついて起き上がろうとするが、会長が腰を跨いでいてそれは適わない。 「会長、暇じゃないんじゃないの」  俺が言っても、会長は何も言わない。俺を見下ろす黒い瞳を見上げていると、手が伸びてきた。 「それとも何、プロレスごっことか? あは、やだよ俺絶対勝てないしー」  背けた顔に、触れられた。片手で頬が包まれて、いやな予感がする。触れた手に力が入って会長の方を向かせられて、さん、にい、いち。数えるうちに、唇に柔らかいものが触れた。 「!」  三度目の感触に、思わず身体ごと顎を引く。少し力を入れて首を振ると、さすがに、会長の力が緩んで、顔が離れる。距離は近いまま、会長の瞳を見つめた。こっちを見下ろすその目の奥底が、読めない。 「な、んすか、昨夜からー。欲求不満ならよそで、」 「誰でもいいんだろ、お前は」 「はー?」 「さっきの女とも、あのままいけばやってたんじゃねえか」 「それはわかんないけどお、」  正直、ちょっとだけ、期待はしてた。  つい顔と目を逸らして答えると、つ、と指先が下りてきて、首筋を撫でられる。柔い感触に、ぞわりとした。 「欲求不満はどっちだか」  首筋に残る赤い痕をなぞる会長が、掠れ気味の低い声で耳元に囁いてくる。くすぐったくて肩を竦めて、首を振った。 「これは違うってばー」 「なにが違うんだ」 「女の子じゃないっていうかー、俺もよくわかんない」  何しろ相手は正真正銘男である、あの幼馴染だ。また漫画に感化されでもしたのか、それとも本当に人恋しくてか、なんとなく寂しくなったのか、真相は雫にしかわからない。顔を背けたままだから、会長の目の色の変化には、気付けなかった。 「――結局、男ともやってんだろ」  あ、ものすごい誤解をされた気がする。  低く囁かれて会長の顔を見ると、ひどく機嫌が悪そうに眉間に皺を寄せて(ただでさえコワイ顔なのに!)、ちょお怖い顔で俺を睨んでいる。 「そゆ意味でもなくてー……、あ、は。会長、こわーい」  無理矢理笑ってみたけど、無駄だった。  仏頂面をさらに顰めた会長の手が、俺の身体に伸びてくる。  「――俺にも、教えてくれよ」  いつになく不機嫌な低い声で耳元に囁かれて、思わず肩を竦めた。うう、ぞわぞわする。身を捩っても畳に押し付けられた身体に逃げ場はなくて、会長の吐息が耳を擽るばかりだ。 「かいちょ、……っぅわ、」  会長の手が、服越しに上半身を撫でてくる。タンクトップの上に半袖のワイシャツを羽織っただけの薄着のせいで、嫌でも会長の手の感触を感じてしまって、びくりと肩が跳ねた。ちらり、視線を上げて会長を見る。とてもじゃないが、「冗談でしょー」なんて茶化せる雰囲気ではなくて、何処か熱の籠った瞳で、俺を見下ろしていた。 「ま、って待ってほんと待って、」  このままじゃヤバい、マジでヤバい。  さすがに焦って、会長の肩に手をかける。力を込めて引き離そうとするけれど、倍の力で、抑えつけられた。うぐぐ、これが、筋力の差ってヤツか……。 「や、だ、やだやだやだー」 「やだとか言ってんじゃねえよ」  もう俺には、駄々をこねることしか残されていない。何度も首を横に振って会長から顔を背けたけれど、会長は舌打ちと共にそんなことを吐き捨てて(言わない方が問題でしょー)、俺の顎を捉える。ああまた、と思う間もなく、唇が重なる。避けようと力を入れても、今度は離してくれない。 「んんっ、んー、んー」 「口、開けよ」 「や、だ、ぁ、……んっ、ふ」  あああ、絶対結んでようと思ったのにいい。つい、やだ、と抵抗したばかりに開けてしまった口の中に、会長の舌が入り込んでくる。柔らかくて薄い女の子のものとはまるきり違う、厚くて熱い、男のもの。逃げる俺の舌を追いかけるように、咥内の奥まで入り込んでくる。ついに舌が絡め取られ、甘噛みされる。吸われる度にぞわぞわして、頭の中がびりびり痺れてきた。 「っふ、あ、」  呼吸をも奪うようなキスは激しい。これでも慣れてるはずなのに、こんなキス、知らない。すっかり力が抜けてされるがままになり、応えるのもままならない。い、いやいや、応える気もないんだけどお。  顎裏から歯列、舌の裏まで、厚い舌が這わされる。二人の唾液が混ざり合い、くちゅり、濡れた音がする。飲み込みきれなかった唾液が伝って、口の端から顎にかけて、べとべとだ。 「っは、あ、は、ふ、……かいちょ、」  漸く、会長が離れていく。忘れていた呼吸を肩でして、硬く瞑っていた瞳を持ち上げると、ぼやけた視界の中で、少しだけ荒い呼吸をする会長の顔が見えた。掠れた声で呼べば、会長が俺の頬を撫でてくる。その手つきがいやにやさしくて、なんだかくすぐったい。濡れた口許を親指で拭われた。 「鈴宮」 「な、なんすか」 「お前今、どんな顔してるかわかってるか」  し、知らない、そんなの。  やけに顔が熱くて、少し泣きそうになってる感じはするけど、認めたくはない。だって、そんなのまるで、嘗ての俺の遊び相手のかわいい女の子みたいじゃんかー。それが自分の表情だなんて、認めてたまるか。 「だって会長、ちゅーうますぎー」  今でも力が入らない。  会長の余裕のない顔が珍しくて、だけどそれをからかう余裕は俺にもない。まだ呼吸が整わないまま、顔を背けて言うと、会長の手がまた身体に触れてくる。今度はタンクトップの裾を捲り、腹に直接触れてきた。うわうわうわ、なにこれ、セクハラっ?! 「か、かいちょ、」 「上手いんだったらいいだろう」 「えっ、え、ちょっと意味わかんない」 「そのまま何も考えずに、」  ――流されれば良い。  腹を撫でる手が、上に伸ばされ、胸元に触れる。俺、女の子じゃないから胸とかないってー。耳元で吐息混じりに囁かれて、ぞわりとする。会長の唇が首筋を辿って、一か所で止まった。そこはきっと、赤い痕が残る場所。不意に触れた舌が、薄い皮膚を舐め上げてくる。 「っあ、……く、すぐったいって」 「慣れてんだろ」 「そりゃ、……ううわうわ、ちょ、待って、」  慣れてるといえば慣れてるけどっ、それはあくまでもする方であって、される方の免疫なんかないってばー!  なんていう暇なく、会長の手が俺の肌を撫でまわす。それはただ触れるだけじゃなくて、肌の感触を確かめるような触り方で、――だ、だから、俺は、女の子じゃないんだってー。柔らかくて弾力のある肌はそこにはなくて、見栄え程度の筋肉と肋骨があるだけだ。ううう、指先で撫でられるとぞわぞわする。 「かいちょ、も、やだ、」  泣き言めいてきた。好き勝手這いまわる会長の手首をそっと掴んで、まるで懇願するみたいに弱々しくなった語尾に、さすがに会長の手の動きが止まる。このままだと最後まで頂かれそうだ。いやちょっと待って最後ってなに、どこまでを指すの。うわあ、やだ。思わず会長の手首を掴む手に力を込めると、会長が小さく息をする。そして、宥めるように、俺の頬に口付けた。それはやさしいキスで、目を瞠る。 「鈴宮、」 「かいちょ、……」  近い距離で俺の瞳に映る会長の顔は、何処か切ない。真っ黒い瞳が僅かに揺れる。その目の中に映る俺は、赤い顔で泣きそうで、なんとも情けない顔をしていた。掠れた声で名を呼ぶ響きは、さっきのキスと同じで優しい。返事をすると、会長の唇が動いた。 「俺は、お前が――」  その気になればどんな女の子さえも口説いてしまいそうな、低く通った声が、言葉を紡ぐ。いつになく真剣な眼差しで、俺は、目を背けそうになるのをぐっと堪えた。こういう雰囲気は、得意じゃない。唇を噛んで、視線だけで会長を見上げる。会長と視線が絡んで、会長が、眉根を寄せた。  ――ガラッ。  会長が続きを口にしようとしたときに、部屋の襖が開く音がしてハッとした。明らかに、俺を押し倒している会長、会長に押し倒されている俺。しかも、マジでキスする五秒前的な体勢で、こんなの見られたら、言い逃れなんか不可能だ。 「うっ、わわわ!」 「っうお」  俺は、出し得る力の全てをもって、会長を押し退けた。どーん。会長の頭が畳にぶつかったみたいだが、知ったこっちゃない。乱れた服を直し、何事もなかったかのように、テーブルの上の茶菓子に手を伸ばしてみる。白々しいとかも、知ったこっちゃない。 「す、ずみやさん? 各務会長……?」  な、なんと、襖を開けたのは、剣菱くんだったようだ。 「けっ、けけ、剣菱くん! ま、街に下りたんじゃなかった? もう良いの?」 「は、はい。休憩をと思って、一足先に……、と、ところで」 「そ、そうなんだ! 俺もさっき温泉に入ったばっかだよ、気持ちよかったよ、剣菱くんも入って来たらどうかなあ、ハイお風呂セット!」  手際よく荷物を渡して、剣菱くんの背中を押す。さっきの話題になんか触れさせない、なかったことにしてやるんだー! 「わ、わ、鈴宮さ、」 「じゃあね、あったまっておいでー!」 「は、はい……?」  バタン。  半ば押し出す形で剣菱くんを廊下に出して、閉めた扉に寄り掛かり、俺は深い息を吐き出した。はあ、疲れた。 「なんだ、そんなに続きがしてえのか」  部屋の中から聞こえた楽しげな声に、ぎょっとする。はっ! もしかして俺ってば、この、欲求不満の獣と化した会長とむざむざ二人きりになる状況を作り上げてしまったんじゃ……? 「ん、なワケないでしょ、剣菱くんに追求されんのがヤだったのー」 「本気で嫌なら、逃げれば良い」 「逃がしてくんなかったくせにー」  立ち上がった会長が、俺の前に立つ。改めて目の前に立たれると、身長差が浮き彫りになって、ちょっと悔しい。数センチでも、高いものは高い。 「会長さあ、まじで欲求不満なんでしょ。島行ったら女の子紹介したげるからさー。どんな子がいいー?」  だから、さっきの件は、なかったことにしてほしい。俺が好きなのは、女の子なんだってば。  会長の肩をぽんと叩いて軽い調子で言うと、会長は怪訝そうに片眉を上げて俺を見下ろしてくる。そして、大きな、溜息を一つ。その後、俺の頭を、ぽんぽんと軽く撫でてきた。 「え、なに、なにそのリアクション!」 「残念ながら俺は趣味が悪いらしい」 「えっ、そうなの?!」 「チャラいくせに自分のことには鈍いヤツ、だな」 「えええ、それ、報われないヤツじゃん。まじで会長、趣味悪いね」  神妙になってしまった。ていうか、チャラい子がタイプなんて初めて知った。こう、おしとやかー、な、大和撫子ー、みたいな子が好きだとばかり……。 「そんな子いたっけかなー。……なかなか難しいね」 「あーそうだなあ、難しいかもな」  くしゃり、また頭を撫でられた。なに、なんなの。 「鈴宮、」 「はい?」 「暫く黙っとけ」  今日は会長がよく俺を呼ぶ。珍しい。請うように言われて、俺は口を閉じた。そうしていると、背中に腕が回り、ぎゅ、と抱き締められる。会長は背中を丸め、俺の首筋に顔を埋めた。どくどくと、心臓の音が聞こえてくる。ちゅーはされても、抱き締められるのは、そういえば久しぶりだった。体育祭のとき、以来かも。そのときよりも、会長の身体が、暖かい気がする。 「かいちょ、」 「ん」 「――おつかれさま」  やっぱり、まだ、疲れてるんだ。  生徒会長であり、老舗旅館の跡取り息子であり、朱莉ちゃんのお兄ちゃん、である会長の背中を、ゆっくりと撫でてあげる。会長は息を吐いて、笑った。 「ああ、……」  その声と顔が、さっきと違って穏やかだったから、諸々のことは、なかったことにしてあげよう。 「いつかさー、鈍くてチャラいかわいー子に、こーしてもらえるといーね?」 「あー……そうだな」 「しかし会長、趣味わるいね」 「うるせ、黙って抱かれてろ」 「抱かれるっていうとなんかヤダー」 「何だ、想像したか」 「会長セクハラー」  いい加減抜け出したいけれど、背中に回った腕の力が緩む気配がない。仕方がないので、されるがままになる。  俺はこのとき気付かなかった。まさか、俺たちのやり取りに、聞き耳を立てる影があったなんて。

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