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やがて鬼となる母と魄と名付けられた息子との徒然なる日々――【春の月】

【尹と魄の過去話】 ◇ ◇ ◇ ◇ 「――尹様、そのままいきんで下さいませ……さすれば、元気な御子様がお産まれになられる事でしょう……」 「ううっ……はぁっ……はっ……ふーっ……」 私は――昔から共に過ごしてきて聞きなれたその者の声を耳にいれると、言われた通りにいきんだ。その際、まるで腰が砕けてしまいそうな錯覚に陥る程の途徹もない苦痛から顔が醜く歪んでしまい――側にある鏡に出産という未知なる恐怖と戦っている己の姿が嫌でも飛び込んできて思わず顔を背けてしまった。 【ほえー……ふぇ……ふぇぇえっ……】 「――尹様、見事に出産という苦難を乗り越えられました……誠に元気な男子でございます!!」 「――はあっ……はっ……お、男子――ですか……ありがとうございます……木偶の童子……この子を無事に取り上げてくれて――。この場に、あの方がいてくれたら……もっと――嬉しいのですが――」 「――尹様、薄情者のあの御方の事などお忘れ下さいませ。それよりも、この尹様の御子に名を授けるのが先決でございましょう?もう名は決まっているのですか?」 「正直、はっきりと決めてはいないのです……父となるあの御方から見捨てられたこの子にどんな名を付けるのか――ずっと決めかねていたのですよ」 出産という未知なる恐怖を乗り越えたばかりの安堵からか、夫となった筈のあの方から捨てられた悲しみからか――思わず涙ぐみながら昔から付き合いのある使者の木偶の童子へと素直な想いを告げたのだ。 「尹様―――もしも宜しければですが……我がこの御子様の名を付けたいのですが如何でしょうか?」 「あなたの――好きになさっても結構ですよ……この子に良い名を授けて下さい」 そのように私が言うなり木偶の童子はゆっくりと此方へと近づいてきて、 ――ぎゅっ と、我が子の手を握ると……少しばかり思案してからゆっくりと口を開く。 「…………そうですね、白い鬼と書いて、はくという名前は如何でしょうか?」 「……はく、良い名前です……今から、あなたは魄という新たな御魂となりました……愛しい我が子よ……これからは、ずっと私と一緒です……何があったとしても――私が命に代えてもあなたを守ります」 きゃははっ…… と、笑いかけてくれる我が子を見て……私は、ようやく幸せというものを理解できたような気がするのだった。 それは――格子戸から見える中庭の桜の花びらが舞い踊る麗らかな、とある晴れた春の日の事だった。

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