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第1話

「原因となる疾患は見られませんから、精神的なものが大きいです。まだ二十八歳とお若いですから、必ず治ります。無精子症の方は…残念ですが…。けど、睾丸の中から精子の細胞を出して、人工授精できるケースも報告されてます。必ずできるとは断言できませんが」  診察室ではない応接室。いくら守秘義務があるとはいえ、看護士に話を聞かれたくない。さらに待合室や受付で他人に顔を見られることを避け、外来の無い休日を選んだ。こういった無理が通るのも、彼の一族の権限だ。  テーブルとソファーだけのシンプルな部屋で、医師は“希望を持て”と言う。だが目の前の患者には、意志の強さはあれど希望が無い。 「カウンセリングを受けますか? あるいは精力剤を処方しますか?」 「いえ、今はそういう相手がいませんから、必要ありません。癌や厄介な病気でなかったとわかっただけで、いいんです」  患者には、希望どころか性欲自体が無かった。  もう、うんざりだ。一族の決まりとはいえ、生殖系の検査を受けさせられるのは。第一、彼には精子が採取できない。勃起しないのだ。  二十歳になったばかりのころ、一族の決まりで精子の検査を受けた。結果、無精子症とわかった。精液の中には、精子が一匹もいないのだ。そのショックで、勃起不全になってしまった。一時的なものだろうと思っていたが、どんなに刺激を与えても一向に勃たず、さらには性欲まで失われた。  彼――王永戴智(おうながたいち)は、病院を出た。手には診断結果が書かれた書類の入った封筒。父に見せて報告しなくてはならないが、毎年破り捨てていて、父には口頭で報告をしている。  初夏の日差しがまぶしくて、サングラスをかけた。王永総合病院から戴智の自宅までは近く、車で来るほどでもないために徒歩で来たが、車にすればよかった、と戴智は思う。憂鬱な気分に反する明るい太陽は、沈む気持ちにより一層濃い影を落とす。  そんな気分に反して、すれ違う人はにこやかに挨拶をしてくる。王永家の長男としては無視できず、戴智は無理やり笑顔を作って会釈をする。王永財閥の子息、というだけでなく、いずれはこの街の頂点に立つのだから――  王永家は鎌倉時代より鉄の加工を生業としており、当時にしては技術力が高く、幕府からも篤い信頼を受けていた。  江戸時代末期には、大型の機械を導入した工場を建て、第一次世界大戦には戦車や銃器などの生産で功を奏し、爵位を授かった。  やがて工場も自宅の敷地も広がり、海に面したこの辺一体は“王永市”と名付けられた。  鉄鋼だけでなく、様々な事業も手がけ、市内の病院や学校、鉄道、バス、駅ビル、ホテルなども王永財閥の運営だ。  戴智はそんな王永家の長男で、将来、第三十三代当主となる。  王永の本家は代々、アルファしか産まれない。双子の姉・一奈(いちな)もアルファだ。分家では時々オメガが産まれ、優秀で由緒正しい血を残すため、本家の跡を継ぐ者は必ず分家の中でも優秀なオメガと婚姻関係が結ばれる。  そのため王永一族のアルファとオメガは、二十歳になると毎年生殖関連の検査を受けることになっている。異常があれば、早急に当主である父の仁英(じんえい)に報告しなければいけない。  無精子症という事実は、いつまでも黙っていられるものでもない。いつかは知られてしまう。だが戴智は正直に打ち明けられないまま、八年もの歳月が流れてしまった。  そんなことが両親に知れたら、どうなるのだろうか。勘当はされないだろうが、跡継ぎを作れない以上、今まで優遇されてきたことが無に還るのだろうか。  せめてもの救いは、両親と離れて暮らしていることだろう。  王永市営電鉄、記念公園駅。そこから徒歩五分で、植物園もある緑豊かな公園が広がる。 公園側と反対の改札口からすぐに、王永総合病院があり、そこから徒歩十分の所にメゾネットタイプのマンションが建っている。そこが、戴智の住む所だ。  連休だが、戴智にはともに過ごす友人も恋人もいない。   五月の晴れた空とはうらはらに、戴智の足取りは重く、マンションのエントランスを通る。  一階から十階まで、全ての部屋がメゾネット。最上階の九、十階に戴智の部屋がある。王永が所有する分譲マンションで、戴智が大学生になったときに“独立したい”と言うと、父親から与えられた。  王永の敷地内で父親所有の贅沢なマンションをもらって、果たして“独立”といえるのかどうかわからないが、父親には逆らえない。王永財閥の中心である『王永製鉄』に就職し、いずれは社長になる身だ。  さらに両親、ひいては親族全員から、跡継ぎを生む期待をされている。二十八歳になった今、周囲の期待はふくらむばかりだ。  なぜ、俺は王永の跡取りとして、アルファとして生まれたのか――広いリビングのソファーに体を沈め、戴智はもらったばかりの診断結果を細かく破った。  王永製鉄本社ビル。十二階建てのこのビルは、十階以上が常務、専務、取締役などの上層部の執務室があり、その下に各部署と部長室、会議室などがある。九階に新たに設置された『新開発部』が、本年度から戴智の職場になっている。  鉄といっても様々な分野がある。小さなネジや部品から、建築資材や車両、船舶、宇宙ステーションや人工衛星などの部品まで多岐に渡る。鉱石を加工し、場合によってアルミなどの素材も混ぜ、資材を作る。それを各分野に送られ、加工され、販売される。  王永製鉄ではこのたび、国の公共事業に参入することになった。エネルギー庁と公益法人の科学技術協会が共同で開発するプロジェクトで、宇宙空間からエネルギー資源を採取する装置の部品を担当することになった。  それは王永一社だけでなく、ライバル会社である『ジースティ金属』との共同だ。  さらに、『王永製鉄』と『ジースティ』とどちらがリーダーとなってプロジェクトに協力するかを決めねばならない。  宇宙空間から水素を抽出するタービンの重要な部品を試作し、秋のプレゼンでより優れた方が採用され、プロジェクトの中心となるのだ。 『新開発部』は、人工衛星部門から数名、各部署からも優秀な人材を集められ、そのトップに立つのが、時期社長の戴智だ。  親の七光りと言われるのが嫌で、入社から仕事に取り組み、実力で出世を重ねてきた。もはや誰も戴智を七光りだと言わず、それどころか信頼できる上司として一目置かれている。  ルックスも良く、普通なら女子社員が放ってはおかないが、王永市の権力者であり社長令息である戴智は、一般人には高嶺の花だ。さらに王永本家は、分家のオメガと婚姻関係が結ばれることは周知の事実だ。アタックしたところで玉砕は目に見えているため、誰も言い寄る者がいない。  朝のミーティングが始まろうというころ、『新開発部』のドアが開き、社員全員がかしこまってお辞儀をした。入ってきたのは社長であり戴智の父である、王永仁英だ。

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