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第1話
浮須 望はうんざりした。酔っぱらった同僚が自分にくどくどと説教を始めたからだ。ただでさえ苦手な飲み会に参加しているストレスで頭が痛いのに、ますます酷くなる。
せっかくの金曜日だと言うのに、何で会社の人間と飲みに行かなければならないのか。望は、「金曜日だから飲みに行こう」という考えがさっぱり理解できない男だった。金曜日だからこそ、さっさと家に帰るべきだろうと思っていた。望にとって金曜日の定時後は、すでに休みだという認識なのだ。それを飲み会によって潰されているのだから、たまったものじゃない。
会場である木造建築の和風居酒屋は、非常に賑わっていた。あちこちで猿のような笑い声が聞こえてきて喧しいし、顔を赤くした親父や若者が愉しげに酒を呷っている。それを真っ二つに割るかのように、店員の粋の良い声が店内には響いていた。どれもこれもが不快極まりなかった。
腕時計をちらりと見ると、時刻は22時を回ろうとしている。何で俺はこんな時間までこんなところにいて、面倒な酔っ払いに絡まれているのだろう。望はげんなりとした。
「浮須ぅ、お前は一体いつになったらプロポーズするんだ?」
同僚が望の肩にがっちりと腕を回し、ねっとりとした声で訊ねてくる。彼は最近結婚し、先週、新婚旅行から帰ってきたばかりだった。
「いい加減ケジメつけろよなぁ」
同僚のその一言に、周りからも「そうだそうだ」と声が上がった。うるさいなと思いつつも、望は愛想笑いを薄く浮かべ、泡の切れたビールに口を付けた。望にとってこの手の話題は、小学生の頃にそれが原因で腹を下して以来、一度も口にしていない牡蠣と同じくらい苦手だった。
「まぁ、そうだよなぁ」
などとは一切思っていないが、こういう時は適当にやり過ごし、話題が逸れていくのを待つしかない。
「結婚はいいもんだぞ。何てったって幸せだ!」
「結婚は人生の墓場を通り越して地獄なんだって、両親から学んだけど」
冗談まじりにそう言って、シャツの胸ポケットからタバコを取り出して火を付けた。タバコの先から、白い煙がゆらゆらと上がっていく。
「いやぁ、俺と嫁に限ってそれはないな」
「なんだよお前、そんなに惚気たいんならそう言えよ」
逸れろ、と胸のうちで念じたお陰か、酔いどれの同僚が「わはは、バレた?」とお茶目にウィンクし舌を出してみせたが、まったく可愛くはなかった。
「まぁ、俺の話は後でたっぷり聞かせてやるからよ」
あ、ダメだったかと心の中でがっくりと肩を落とす。思わず顔に出そうになるのを堪えたが、タバコの煙を吐き出すと、まるでため息のようだった。……まずいと思った時には既に遅し。同僚は上機嫌だった表情をむっとさせると、望の肩を容赦なく揺すったのだった。
「いいか、俺はお前のために言ってやってんだ」
同僚もタバコを吸い始める。
「……今の彼女と付き合って8年、同棲して5年。お前は今年で三十路、彼女は28。まさに今だろ! 今結婚しないで、いつするんだってくらい絶好のタイミングじゃねぇか」
「ううん……」
苦い笑みを滲ませる他なかった。以前、この同僚から「彼女はいないのか」としつこく問い詰められたので、仕方なく「いる」と答えた。彼女ではなく彼氏だけど、とは口が裂けても言えなかったけれど。以来、馬鹿のひとつ覚えのように、結婚だの何だのと突かれるようになってしまい、望はひどく後悔していた。
「相手だってお前のプロポーズを待ってるに違いない。向こうもちょうど結婚適齢期だ。焦りがある。もしお前が結婚に踏み切らない場合は――」
同僚はタバコの煙を肺に入れ、吐き出すと同時に格好つけた表情を見せた。「フラれるかもな」
「そうなのかねぇ」
望はこれといった感情は含めずに、ぼんやりと言った。内心では、「そんなことねぇけど」と独りごちる。もし自分が恋人にフラれるとしたら、それとは別の原因か、もしくは恋愛感情が惰性に移ろいだ時だろうから。
「でもまぁ、ちゃんと考えるわ」
この話、早く終わんねーかな。望は灰皿に、タバコの灰をはたき落とす。
「よし! まずは、婚約指輪を買わねぇとな」
「そうだそうだ」と再び周りからガヤが飛ぶ。この話、まだ終わんなさそうだし、さらに面倒なことになりそうだなと胸のうちでげんなりする。何より同僚が、すっかり人生の先輩面をしているのが鬱陶しい。結婚したら独身に偉そうにしてもいい決まりでもあるのかと言ってやりたくなる。
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