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I would never forget you

(前話の続きです) 「甘い物が好きなんだね?」  蓮がカフェオレに砂糖を入れているのを見て、男が言った。  初デートは互いの仕事の都合でランチにもディナーにも半端な夕方の時間帯だった。蓮はカフェオレにガトーショコラをオーダーして、昼食を食べそびれたという男はサンドイッチとブラックコーヒーを頼んでいた。 「苦手ですか?」 「いや、そんなこともないんだけど、最近、太ってきたから」 「全然そんな風に見えないですよ」  お世辞ではなく、そう言った。男は少し照れたように笑うと、話題を変えた。 「今の仕事は長いの」 「そうですね、二年ぐらいかな。一度正社員で就職したんですけど、取りたい資格があって、勉強する時間を確保したくて」 「へえ、どんな資格?」 「……そんな大したものじゃありません」  蓮はとっさに誤魔化してしまう。 ――僕は、教師になりたいんだ。教員免許を取るためには大学に行かなきゃならない。  高校中退の蓮がそれを目指すのは楽ではない。卒認はとったものの本格的な受験勉強となると正社員の仕事をしながら続けるのは困難だった。 「いつか、教えてね」  男は優しくそう言った。蓮がまだ彼に心を開ききっていないことを責めるでもなく。 「そろそろ、行こうか」  男に促されて店を出た。その次に行くのはどこか、蓮にも予想はついていた。さりげなく肩に回された手。食事代もいつの間にか支払われており、思っていたよりずっとスマートにエスコートをしてくれることに蓮は戸惑った。 ――「今は」恋人はいないだけで、きっと恋愛経験は豊富なんだろう。 ――この人と付き合ったら、きっと、楽しいんだろうな。  蓮は男を見上げる。記憶の中の野上と同じぐらいの身長差だけれど、あのときより自分は背が伸びているから、きっと野上より長身だ。顎から首のラインが似ている。だが、そう個人差がある部位でもないだろうとも思う。蓮の視線に気付いた男が、蓮に微笑みかける。眼鏡の奥で目尻が垂れる。こんな笑い方は、よく似ていた。  母親に連れられて夜逃げ同然に住んでいた地を離れた。ハガキ一通で無事を知らせたきり、野上とは連絡を取っていない。それから十年以上、恋愛からは距離を置いている。男女問わず好意を抱かれたことはある。それに応えようとしたこともある。だが、いつも気持ちが追いつかなかった。感情抜きの割り切ったつきあいを求められたこともある。欲望がないわけではないから、それでもいいかと思った瞬間もある。だが、一瞬だ。すぐに断った。そんなことをしたら、もし万が一再会できたときに、野上に顔向けが出来ない。 ――いつか、会える? そんな日は、本当に来る?  それを疑っていて尚、三十を過ぎて大学に行こうとしているのだから答えは出ているのだけれど、その日が来たところで野上が変わらず待っていてくれる可能性は限りなく低いことも知っている。 ――いつまでも夢見ていられるわけじゃない。いいかげん目を覚ますべきなんだろう。だとしたら、これは、チャンスだ。 「どこかで一杯飲む? それとも」 「このまま直行でいいです。あてはあるんでしょう?」  どうせするなら、さっさと済ませたいと思った。そう思ってから、「済ませる」とはどういうことか、と自問自答した。 「……ヤケになってない?」 「なってないです」  男は足を止め、蓮の前に立ち塞がるように立った。戸惑っているうちに、両手を繋いできた。蓮はとっさに周りを見た。幸い人通りのない裏道で、誰も見ていないようだ。幼児に言い聞かせるように、男は蓮の両手を握りながら言う。 「俺は焦ってないから。忘れたい人がいるなら忘れさせてあげるけど、急がなくていいんだよ?」 ――忘れたい人。  蓮は男の言葉を心の中で反芻した。忘れたいのか? 忘れられるのか? 「あなたにもいましたか? そういう人。忘れようとして、忘れられましたか?」 「……ねえ、緋山さん。それって、忘れたくないと言っているようにしか聞こえませんよ」 ――忘れたいはずがないじゃないか。  口を開けばそう言ってしまいそうで、蓮は唇を噛み締めた。 「俺は構わないんだけどね」男は手を離した。その手を今度は蓮の肩にあてがう。「忘れても、忘れなくても、どちらでもいいです。俺をその人の代わりだと思ってくれたっていいんだ。俺、その人に似てるんでしょ? 違います?」 「え……」 「なんで分かったの?って顔してますね」  蓮は思わずうつむいた。 「すべての選択肢はあなたにあります。どれを選んでも、俺は言うとおりにします」 「なん、で、そこまで……?」 「なんででしょうね」  男は肩の手も離した。 「少し冷えてきましたね。とりあえずどこか入って、一杯やりましょうか」  歩き出そうとする男の腕を蓮はつかんだ。 「すみません、あの、僕、やっぱり」 「その選択も、あなたが選んだ答えなら、従いますよ」  蓮は少しホッとする。この期に及んでやっぱりつきあえないと言っても、こうもあっさり許してくれるなら、もともと本気でもなかったのだろう。うんと好かれてから振るよりは気が楽だ。 「僕よりもっといい人がいる、と、思いますし」  蓮はたどたどしく伝えた。 「緋山さんにとっての、その人みたいに?」  蓮は顔を上げ、男の顔を見た。 ――似てない。全然、似てない。野上先生はこんな風に余裕のある大人じゃなかった。野上先生はもっと熱を帯びた目で僕を。 「そう、です。その人のために、僕は、正社員辞めてまで大学に行こうと思っていて……そしたら正々堂々と会いに行ける気がして……待ってくれてるかも分からないんです、でも」 「羨ましいですね」  男の言葉の意味が分からず、蓮はぽかんとする。 「俺、そこまで人を好きになったことがないです。だから羨ましい。あなたにそこまで好かれているその人も」 「……ごめんなさい」  蓮は頭を下げた。  男はやれやれと言いたげに顔をかしげて苦笑する。 「一つだけお願い。最後に、ハグさせてくれない? 変な意味じゃない。友人としてのエールで」 「……あ、はい」  男は両手を広げて蓮を包み込んだ。温かい。 「本当はね、あなたとなら、俺もそういう恋ができると思ったんだ」  耳元で囁かれる声。野上より低くて、よく響く。 「バカみたいでしょ。もう十年以上も、こうなんです」 「ほんっと、羨ましいな、そいつ」  冗談めかした声が優しい。 「忘れられないんです。向こうはとっくに忘れてるかもしれないのに」 「忘れなくていいんだよ」男の力が強くなる。「忘れちゃダメだ。約束してよ、ちゃんと大学行って、その人に会いに行くって。待ってるはずだから、その人。あなたがその人を忘れない限り。そうじゃないと、俺、何のためにあなたを諦めたのか分かんなくなるから」 「……」  やがて男は背中に回していた手をほどいた。 「ありがとう」  眼鏡の奥で目尻が垂れる。似てる。――やっぱり、似てる。  蓮は何も言えなかった。ただ黙ってお辞儀をした。男は頷き、背を向けた。蓮は離れていく後ろ姿を見送ることもせず、元来た道を戻った。 「蓮、カフェオレ淹れたよ。砂糖、多すぎたかなあ。まいっか、おまえ甘いの好きだもんな。はい」  今、あの「野上先生」は自分の目の前にいる。カップを受け取りながら、眼鏡の奥で垂れる目尻を見た。 「ありがと。……んー、あまっ」 「コーヒー足すか?」 「ううん、いい」 「さっき何考えてた? ニヤニヤしちゃってさ」 「ニヤニヤしてた? あはは、内緒」 「なんだ、怪しいなあ」 「怪しくないよ」蓮は朔弥の眼鏡を外す。「笑うと垂れ目になんの、可愛いなって思ってた」 「何言ってんだ。いいから眼鏡返せ」 「チューしてくれたら返す」  朔弥はギョッとする。そのすぐ後に、破顔一笑して、キスをする。 ――忘れない。忘れたりしないよ。あなたのすべてを。あなたとの思い出も、何もかもを。そしたらあなたも、覚えててくれるんでしょう? 僕が忘れない限り。だから僕は、忘れない。  朔弥の唇の温もりを感じながら、蓮は思った。 (了)

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