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Honest
待ち合わせ場所はカフェだった。どこにでもある、チェーン展開の安い店。ここではお互いの顔と名前が事前情報と一致していることを確認できればいい。本番の見合いはその三〇分後、近くのレストランに移動しての食事会だ。それで義理を果たし終えたら、明日には「自分にはもったいないお嬢さんで」と断るつもりの縁談。気は進まないがバイト先のクリーニング店のオーナー直々に頼まれてしまったのだから仕方がない。オーナーもそれは承知のうえで、しかし懇意にしているお得意様だから一度だけでも会ってくれと頼みこんできた。そんなお得意様に、夜間大学に通いつつ昼間はバイトなどという不安定な身分の自分を紹介するのを訝しがると、見合い相手の兄に気に入られての話だと言う。
オーナーに教えてもらった「兄」の名前を聞いてもピンと来なかった。
「いつも会社名で領収書切ってるからね。ほら、○○機工。そこの若社長」
「ああ、あの会社の」
そこは事務所と別棟に工場があり、週に一度着用済みの作業着を回収し、洗濯済みのものと入れ替えに行くのだが、工場内で働く人々は帽子とマスクで顔はほとんど見えないから、社長と言われたところで、どれが誰だかさっぱり分からないことには変わりがなかった。先方に一方的に認識されているのは少々不愉快ではあるが、それよりも断った後のことのほうが気になる。オーナーに迷惑をかけないよう、できるだけ穏便に済ませたい。
重い足取りではあったが待ち合わせ時間ぴったりに到着した。それらしき女性の姿を探して店内を見回していると「こちらです」という声がした。男の声だ。蓮 はとっさに困ったな、と思った。兄も同席するとは聞いておらず、食事は二人分で予約したはずだったからだ。
声のした方向に足を進めたものの、どうも妙だ。まっすぐにこちらを見ている男性は確かにいる。しかし、彼に付き添われてやってきたであろう「妹」らしき姿はない。
たどり着いた先のテーブルには、男の前にあるコーヒーカップとは別に、空席のところにも飲みかけのグラスがあった。ストローに付着したかすかな口紅の跡。なんだ、トイレにでも行っているだけか、と思う。
だが、その後の展開は急だった。男は蓮の顔を見るなり、そのテーブルに打ち付けんばかりに頭を下げた。
「申し訳ないっ」
「……は?」
呆然と立ち尽くす蓮に、男は椅子に座るよう促した。
「その……今回の件は、なかったことにしていただきたく」
「どういうことですか」
男は語り出した。ついさっき、妹は店を出て行った。ごめんなさいと言っていた。妹には長く付き合った恋人がいて、言えば反対されるだろうからと言い出せないまま今日を迎えてしまった。一度だけ会ってから断ればいいと思って来てみたものの、やはり恋人にも、あなたにも申し訳なくていたたまれないので帰らせてもらうと言って……。
「妹は悪くないんです。すべて私のせいです。引退した父から代替わりして、しっかりしなくてはという気持ちばかりが先行して、焦ってしまって」
男の額から汗が噴き出た。眼鏡を外してそれを拭おうとする。蓮はその一連の仕草を見ながら、思い出していた。
――この人、似てる。野上先生に。
もう十年以上も前のことだ。大好きだった先生の前から姿を消さざるを得なかった。童顔を気にして普段は眼鏡をかけていた野上先生。その眼鏡を外して、キスをした。あの感触を今でも忘れられない。唇だけじゃない。何もかも忘れていない。僕の名前を呼ぶ声も。――出席番号一番、青山蓮。
「緋山 さん。本当に申し訳ありません」
そう、もう僕は青山じゃない。母親が再婚して、姓も変わった。この人は僕を「青山」とは呼ばない。
「いえ。……あの、ところで、食事は」
「もちろん、キャンセル代はこちらが負担します」
「それはいいんですけど、もったいないので、もしよかったらご一緒しませんか」
蓮の申し出に男は面食らっている。当然だろう。
「ええと……実を言うと、僕のほうもお断りするつもりでいたんです。もちろん、妹さんがどうこうというのではありません。僕も、その」
「恋人がいらっしゃる?」
「……ではないんですけど」
「忘れられない人が?」
蓮は頷いた。
「ああ、それはまた二重に申し訳なかったですね。妹だけでなくあなたの気持ちまでないがしろにして……まったく俺ときたら、全然ダメだ」
男はふいに言葉を崩し、困ったように笑った。それがまた野上が自分の告白に当惑していた表情を思い出させた。
「大丈夫です。結果的には、誰も傷ついてないんですから」
傷ついたのは、あの日の、野上先生だけだ。そして、傷つけたのは僕。
「そう言っていただけると、少し、気が楽になります」
「じゃあ、この後もつきあっていただけますよね?」
蓮が再度誘うと、男は「はい」と微笑んだ。
オーナーが選んだにしては気の利いたレストランだった。半個室の落ち着いた席で、のんびりとフルコースを楽しんだ。忘れられない人がいる。誰にも言ったことのない秘密を明かしてしまうと、蓮も饒舌になった。
「でも、妹さんより先に自分が、とは思わないんですか? 独身なんでしょう?」
得意先の社長に対する言葉としては行き過ぎた話題のはずだったが、口が滑った。しまった、と思ったのは、それまで温和な微笑みを絶やさなかった男の顔が暗く陰った瞬間だ。
「すみません、失礼なことを言いました」
「……当然の疑問ですよ」男はナプキンで口の周りのソースを拭った。「実は私、同性愛者で」
「えっ」
「今はその相手もいませんが、まあ、とにかく、後継者という意味では、お役目を果たせそうにない。そういう事情です」
淡々と語る男に、今度は蓮のほうが面食らった。
「同族会社ゆえの問題ですね。私の代でそんなルールをひっくり返してやろうという度量もなくて。情けない話です」
いや、淡々と、ではないのだ。蓮は思う。この人はたぶん、ずっとその重圧に耐えてきた。たった一人で。――かつて突然クラス担任を任されて、孤軍奮闘していた野上先生みたいに。
「分かりますよ」
「そんなわけ……」
「僕もそうなので」
男の目が見開いた。
「今のを聞いて、やっと分かりました。なんで僕なんかを気に入って下さったんだろうって不思議だったんです。僕も同じだから、何か、通じるものがあったのかもしれませんね」
目と目が合った。
こうしてよくよく見ると、男は野上より派手な顔立ちをしていた。背は野上より高い。声は低い。パーツのひとつひとつは全然違うと言っていい。それでもどこか、野上に似ている。今では野上も三十代半ばになっているはずだ。目の前の彼も同じぐらいだろう。中堅教師として少しは出世しているだろうか。でも、こんな仕立てのいいスーツは着ていないだろう。
「忘れられない人がいると」
「はい。でも、そろそろ忘れたい、かな」
これは誘っているのだろうか。誘われたいと思っているのだろうか。自分の感情をうまく整理できないままに、男に手を握られた。その温かさも野上に似ていた。もっとも人肌の温度など、誰だってそう変わらないだろう。
――そうだ。誰だって変わらない。野上先生じゃないなら、誰だって変わりゃしないんだ。
蓮はこの日、男ともう一度会う約束をした。今度は、二人の、デートとして。
(次話につづく)
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