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Genuine U

――一生に一度の恋だったんだ。誰かをあんなに好きになれることなんてもうない。  高三の初夏のことだ。担任の先生が急に辞めた。妊娠していたらしい。本当なら喜ばしいはずのできごとだけれど、彼女は「受験を控えた高三生を受け持つ教師」だった。表向きは体調不良による自己都合での退職だったが、保護者や他の教師からの「入試が終わるまで見届けられるかどうかも分からない担任なんて無責任」というバッシングがひどくて「辞めさせられた」というのが実情らしい。 「あの先生、結婚してたよねえ?」  僕は朔弥さんに問いかける。朔弥さんは、その先生の後任として僕のクラスの担任になった。 「ああ、確か結婚して十年近く経ってた。こどもはずっと欲しかったけどできなくて、年齢的にももう諦めていたらしい。だから担任を持つことも引き受けた。その矢先に妊娠が分かったみたいだな。」 「タイミングが悪かったんだね。」 「どうだろう。俺が一人で彼女の入院先にお見舞いに行った時には、正直言うとホッとしたって言ってたよ。」 「そうなの?」 「受験学年じゃなきゃ、妊娠中もギリギリまで仕事していただろうし、職場にいればどうしたって無理してしまう。お腹の子より目の前の生徒を優先しなければならないことに耐えられる自信がなかった……そう言ってた。」 「今はどうしてるか知ってる?」 「年賀状はやりとりしてるよ。実はね、彼女、その二年後に双子も生んでて、あっという間に三児の母だ。その子たちもそろそろ手が離れたからって、この春から非常勤で職場復帰したってさ。」 「すごい。」 「女性は強いな。」  朔弥さんは少し遠い目をした。あの先生を思い出しているのだろうか。僕はもう彼女の名前もろくに覚えていないけれど、周りの友人が「年齢(とし)の割に結構イケてる」「人妻も悪くない」なんて下品な寸評をしていた記憶はあるから、そこそこの美人だったのだろう、と思う。 「朔弥さんは女の人とつきあったこと、ある?」  続いての僕の質問に、朔弥さんは飲みかけのお茶を吹き出しそうになる。 「なんだ、急に。」 「一人でお見舞いに行くほど親しくしていたなら、もしかして、って。」 「見舞いなんて、ただの義理だよ。まともに引継ぎする間もなかったから、担任する生徒のことについていろいろ聞いておきたかったしね。ま、ちょっとかわいそうな辞め方だったから多少同情はしてたが、それだけだ。」 「他には? 他の女性とも、何もなかった?」 「そんなこと聞いてどうする。」  その言い方からして、「何かあった」としか思えない。 「蓮は?」  こんな質問返しをするところを見ると、ますます怪しい。相当な「何か」があったんだ。 「僕はね、お見合いしたよ。二回。」 「み、見合いっ?!」  こっちのほうがびっくりしてしまうぐらい、朔弥さんは大声を上げた。 「仕方なかったんだよ、クリーニング屋に頼まれて。」 「クリーニング……?」 「一時期、クリーニング屋でバイトしててね。お得意様のところを定期的に回って集荷するんだけど、その時に、一人暮らしの男性に釣り書きを渡されてさ。結婚したいんだけど男ばかりの職場で出会いがないんだと。クリーニング店の人ならいろんな家庭に出入りしているから、良さそうな相手がいたら紹介してくれって。その人、すごく高給取りで、毎回高いスーツを出すんだよね。見た目も悪くない。それで店長に伝えたら、上手い具合にとんとん拍子で結婚相手が見つかって。そしたらその噂を聞いた人たちがうちの息子にも娘にもって、結婚相談所みたいになっちゃった。そのうち何故か僕にまで見合いの席をセッティングされて。」 「見合いする前に断れなかったのか?」 「とりあえず一度会うだけでいいからって言われたら断れないよ、雇い主の紹介だもの。」 「でも、二回も。」 「二回目は騙されたんだよ。一回目で懲りてずっと断ってたら、ドッキリみたいにさ、仕組まれて。」 「……そうか。まあ、断ったのなら、いいけど。」 「二回目の人とは少しだけ付き合ったよ?」 「へっ。」  朔弥さんにしては珍しく、妙な声が返ってきた。 「正確には、つきそいで来てた、彼女のお兄さんとね。」 「……。」 「すっごく優しい人だった。見た目も素敵で。」  朔弥さんの表情が段々と険しくなる。 「僕がその人を通して別の誰かを想ってることに気づいても、一言も責めなかった。」 「えっ?」 「朔弥さんに似てたんだ、彼。」  僕はうまく笑えているだろうか。 「忘れられない人がいるんだって言ったら、その人の代わりにしてもいいと言ってくれた。そこまで言われたら、僕だってそれに応えたいと思ったよ。……でも、だめだった。キスのひとつもできなかった。似てたから余計に、違うところばかりが目に付いて。」  朔弥さんの手が伸びてきて、僕の頬に触れた。その指先の動きで、僕は自分が泣いていたことを知る。 「彼は朔弥さんよりはっきりした二重で、背だって朔弥さんより高くて、朔弥さんよりよく響く良い声をしていて、好きだって言われるとゾクゾクした。」 「なんだ、そっちのほうが良い男じゃないか。」  朔弥さんが苦笑する。 「でも、朔弥さんじゃなかった。」僕は頬にあてがわれた手を、両手で握る。「あの人は、僕にとって、本物じゃなかった。」  自分で言った言葉に、自分自身が、ああ、そうか、と思う。  ずっと引っかかっていた。優しかったあの人の記憶。二度目の恋を、この人とならできるのではないかと思ったこともあったのだ。結局できなかったけど。「本物」ではなかったから。好きになろうとすればするほど、それを思い知らされたから。  あんなに優しくしてもらったのに、ひどいことをした。僕にとって、これは本当の恋じゃない。本当の恋人にはなれない。いくら頑張って好きになろうとしても、そう感じずにはいられなかった。 ――一生に一度の恋だったんだ。誰かをあんなに好きになれることなんてもうない。あなたをあの人の代わりになんかできない。このまま一緒にいてもお互い辛くなるばかりだ。だから、ごめん。  最後は一方的にそう告げて別れた。  朔弥さんの時だってそうだ。一方的に振り回して、勝手に消えてしまった。僕はいつもそうだ。  朔弥さんはじっとされるがままだったけれど、やがて口を開いた。 「その人も本物だったんだろう。蓮じゃない誰かにとっての。」  そんな勝手な僕を、朔弥さんは許してくれる。 「そうだったらいいな。」 「きっとそうだよ。今頃はその人も誰かと幸せになってるよ。」 「三児のパパになってたりして。」 「ないとは言い切れない。人生、何がどう転ぶかなんて誰にも分からないし、それが幸せかどうかは他人が決めることじゃない。蓮が本物だと思ったものを信じればいいよ。」 「……僕は、朔弥さんにとって、本物?」  朔弥さんの手が、それを包んでいた僕の手からすり抜ける。 「ああ。」  朔弥さんはそれ以上何も言わなかったが、その大きな手で、僕の頭を撫でてくれた。そんなことをしたところで、傍から見れば良い年をした中年男が二人。素敵な恋人たちには見えないだろうけれど、それはどうだっていい。  僕らが離れていた二〇年近い年月を、朔弥さんがずっと一人でいたとは思えない。僕に「あの人」がいたように、彼にだって「何か」はきっとあったのだろう。気にならないと言えば嘘になる。でも、それももういいのだ。  何故なら僕らは、互いの「本物」だから。

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