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第70話

______ ______ 尹儒は眠りについている内に、いつの間にか大粒の涙を流しつつも、はっと目を覚ます。 片手には、昨日手に入れたばかりの半乾きになっている布人形を握りしめたままだった。 * 『尹儒、俺と違って明日は非番にしてもらうつもりなんだろう?だったら、お前のやるべきことを明るい内にやっておくんだ。何をするべきか____そんなことは俺が考えてやることじゃない。いいか、いい加減誰かに聞くんじゃなくて、自分の頭で考えるんだ。それは、きっと――いや絶対に、これからのお前自身のためになるんだからな。魄様だって、再会できたら…………それを望んでいる筈だ____』 昨夜、珀王と別れる間際にした会話を思い出した。 その後に必死で考え抜いて思いついた、なけなしの尹儒の策というのは、何も難しいことではない。そうとはいえ、珀王が隣にいてくれなければ思い付きもせず、ましてや実際に行動してみようなどとすら思いもしなかったものだ。 それは呪いのない昼間の内に【屋 室 神】という郭にこっそりと侵入して、何かしらの手掛かりを探ってみるという案だ。 本心では頼りになる珀王と共に策を実行したかったのだが、郭の雑用係の仕事があるので同行するのは無理だと言われてしまい諦めるしかなかった。 今までぬくぬくと王宮で暮らしてきたせいで碌に一人で行動したことがなかった。この異常な世界に来るまでは、いつも母である魄か――もしくは彼に従順な付き人が身の回りのことを全てしてくれていた。 未だに不安はつきまとうものの、それでも自分一人だけで何とか前に進んでみようと勇気を奮い立たせて寝所を出て行く。 更に、《現実世界》から隔離されたこの《欠世かくりよ》なる世界に何者かによって連れて来られてからというもの、親切にしてくれる【新月・鬼灯花魁】にも相談をして何とか《雲隠れ》としての業務を別の日にしてくれることを了承してもらえたため、丁寧にお辞儀して彼に対して失礼のないように振る舞った。 そして、遂にその案を決行する時がきた。 ______ ______ その後、何日か前から【屋 室 神】に出向いている商人が【逆ノ目郭】に来ていることを、こっそりと鬼灯花魁から教えてもらった。 (もしかして……鬼灯花魁は、これから僕が何をしようとしているのか気付いているのかも____) ____と、少し不安になり無言のまま上目遣いで鬼灯の顔を遠慮がちに見つめたものの、特に何を言及する訳でもなく、にこりの普段どおりの笑みを浮かべるだけだったので安心した尹儒はそのまま例の商人の所まで行ってみた。 尹儒が来た時には商人の男は旦那さんと話をしているところで、物陰に身を隠した尹儒は耳を澄ます。 『いやぁ………逆ノ目郭の若旦那さん。まいった、まいった。神室屋で大事が起きてしもうて、ついさっき、わてが神室屋のとある場所で商売してたら妙なことに気付いてしもてなぁ…………』 『はて、妙なこととは何ですかいの?』 『いやな、厨房の隣の部屋で商売の準備をしていたら妙な声を聞いた気がしての。すぐ外に出て確かめたんやが、声どころか人っ子ひとりいやしない。そんでも、何やら気持ち悪いっちゅうことで商売準備を放って探索したんや。そしたら、わてが歩いている廊下を白い蛇がさささっと奥に向かって這いずっていった。わては気になって追い掛けたんやが、曲がり角に着いた途端に何処からともなく男の童子の声が聞こえてきてな……すぐに探そうと思ったんやが、ふと気付いたらさっき商売してた部屋に戻っていたんや。ほんの一瞬やで? 神隠しにおうたかと思ったわ 』 『しかも、なぁ……気味悪いことに一回目に聞こえたんは、男の童子の声じゃなかった。大人の男の声でな____いや、声っちゅうか……ありゃあ呻き声やったな。まあ、とにかく息苦しいとかやなくて、何や怒りをこらえきれねえって感じの声やったんや。ほんでの、二回目の童子の声を聞いた時は、はっきり聞こえたわ____「ちがう」っちゅう声がな。わてのことやなく……他の誰かに向けて言うような感じやった』 尹儒が襖に耳を擦り付け、夢中になって聞いた話の内容はそんなものだ。男の商人の話は、確かに奇妙なもので尹儒は気味悪さからくる不安とともに好奇心を刺激されてしまった。 しかしながら、それとともに尹儒は妙な既視感を抱く。 (何だろう…………昔、あの男の人と似たような話をしている誰かの姿を見たことがあるような____ずっと昔、僕がまだ今よりもうんと幼い頃____) 思いだそうとすればする程に、まるで指の合間から逃れようとする煙が如く記憶の中から 、その既視感はゆっくりと消えていってしまう。 (とにかく、今僕がすべきことは神室屋に行って手掛かりを探すこと…………) 音を立てないように気を配りつつ、ゆっくりと立ち上がった尹儒は己の部屋へ戻り、なるべく目立たないようにと既に準備していた質素な衣服に身を包むと、いざ【神室屋】へと足を運ぶのだった。 ______ ______

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