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第69話
ふと、尹儒はある異変に気付く____。
昼は極々普通に見える世界だが、呪いとやらに侵された夜だけ【欠離世】と化す、この異常な世界ではなく――かつて優しい母がいて父がいた王宮での暮らしを過ごしていた時には有り得ないと感じていた珀王と極めて親密な関係となったことで、つい先程までは異変には全く気付いていなかった。
しかしながら、ふいに――どこかすぐ近くの方から強烈な視線を感じた。
それに、先程まではすぐ側にいてくれて説教をすると同時に己を励ましてくれていた筈の珀王の姿が瞬時にして消えてしまっている。
まるで、風に曝される砂のよう____。
珀王の姿が突如として消えてしまった理由が分からずに戸惑いながらも、先程の彼の言葉に従って、為すべきことを自ら考えてみることにした尹儒。
そして、何故唐突に強い視線を感じたのか訳が分からずに戸惑いながらも尹儒はきょろきょろと辺りを伺う。
すると、謎の視線はしわしわに枯れている桜の木が植えられた付近の場所から感じるということに気が付いた。
「だ……っ____だれ……っ……!?」
声が震え、両膝はがくがくと震えていたが――そこには人がいる気配は感じない。桜の木のすぐ真下(正確にはやや右側だが)には、さほど大きくはない池があるものの、童子である尹儒でさえ、どう考えてみても水面は濁りきり、不快な臭気を放つ、どぶのような其処に人が浸かっているなどとは到底思えない。
微風が吹いてきて、草が擦れる繊細な音だけが聞こえてくる。
何とか勇気を振り絞り、おそるおそる至近距離まで歩いていったのだが、桜の木の裏やその付近に人が息を殺して潜んでいるとも、どうにも思えないのだ。
しかしながら、纏わりついてくるような強烈な視線を感じていることは確かであり、尹儒はあることを思い出して更に恐怖心を抱いてしまう。
そう、それは王宮で平穏に過ごしていた日々の中で己へと向けられていたものに____とても、よく似ている。
「____は……は、う……え?」
いくら童子といえど、心の奥底では自らに向けられる視線の主が愛する母ではないと分かっていた。
それでも、一縷の望みを抱いて尹儒はか細い声で咄嗟に呟いてしまった。
この場にはいないものの、母の次に愛おしいと感じる珀王が側に着いている時間が増えてきたとはいえ、まだまだ尹儒は幼い童子。
母親の温もりを求めてしまうのは、尹儒のみならず、この年頃の童子にとって本能といえなくもない。
母親の温もりを求め、なおかつ両目を固く閉じつつ再び己に立ち塞がる【謎の視線を向けられるという出来事】に対して、今後何をすべきなのか悩み続けていると、ふいに瞼の裏に母親と珀王の呆れと怒りの表情がぴったりと重なりながら思い浮かんだ。
(こんな時、母上ならどうするのだろう――郭の中に逃げるのがいいことなのか……それとも彼方へ行くのが……いいことなのかな____)
____と、またもや珀王に指摘されてしまった【他人に頼る癖】が出ていることを自覚した尹儒はそれを振り払うように首を左右に振ると、ゆっくりと池の方へと歩みを進めていく。
そして少し迷った後に、濁りきり淀んだ池の水面へと手を突っ込んだ。
尹儒がこの行動をした理由は、ただひとつ。
強風が吹いている訳でもなく、ましてや池に蛙や魚や虫等が棲んでいる訳でもないというのに、水面に波紋が広がっているせいだ。
(もしかしたら……この中に何かがあるかも____)
尹儒が突っ込んだ右手を引き上げると、その手の中に何か柔らかいものを握っていた。
泥まみれになり、汚れきった布人形____。
童子である尹儒の決して大きいとはいえない手中に収まるということは、おそらく同じ年頃の童子を模して作られたものだろう。
池の中に捨てようと思えば、簡単に出来た筈だ。
何せ、そのまま放り投げればいいだけのことだから出来なくはなかった。それにも関わらず、尹儒は懐から割りと綺麗な布を取り出すと、汚れきった布人形をそっと包み込み、再び懐へとしまったのだ。
そして、無意識のうちに大粒の涙を流し始める。
____
____
「____い、おい……お前何で泣いているんだ?まったく、呆けているかと思ったら……いったいどうしたって言うんだよ」
突如として、此方に向けられる珀王の呆れ声を聞いて尹儒は戸惑いを覚え、そのまま立ち尽くすしかない。
その後に尹儒は郭の中へと戻り、自らの寝所へ珀王と共に向かったけれども、何故に汚い池に手を突っ込んでまで布人形を自分のものにしたかったのか明確に答えることが出来なかった。
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