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第40話

「はっ!」  それはあまり大きくない、短い声だった。  朝方、陣内はようやく、その悪夢から逃れる事ができた。  悪夢……それは逢坂の目の前で柚木に辱められ、弄ばれる夢だ。  陣内は起きるなり、洗面所へ行き、乱暴に顔を洗う。一体、どこにそんな力があったのか。 しかし、洗面所に備えつけてある鏡に目をやると、それ相応の顔が写っていた。  表情が暗く、まるで、死にかけた男の顔。  陣内はその自分の気持ちに合った顔に少しだけ安心して、水道の蛇口を閉じた。 「もう良い……」  その一言が、陣内の張り詰めていた顔を綻ばせた。 『もう良い……』  もう一度、その言葉を心で繰り返す。 「……」  それからの陣内の心は安定したものだった。喩えるのであれば、雲のない空か、その下に広がる、風のない海のような気持ちだった。  久し振りに、バイクに乗ってみるのも悪くない。  たとえ、これが俗にいう「逃避」だったとしても、苦しみのある人間に許された救済なのだ。  この逃避……にも近いこの行為は後の3人の関係を大きく動かす事になるなんて。  今頃、明慈大学の准教授として仕事する逢坂にも。今日も学会へ駆り出されている柚木にも。それに、陣内自身にさえも思い至りもしなければ、知りもしない事だった。

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