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第1話
缶ビールを片手にベランダに出る。日が落ちると、とたんに空気が温度を失っていく秋口に、ベランダでビールを飲むなんて、我ながら妙だよなぁ。だけど、そこでしか見られない景色がある……というか、そこから見えるものを求めて、俺はベランダに出てビールを飲む。
ベランダ用のサンダルをつっかけて、柵にもたれかかって見下ろした先には、日本家屋があった。マンションやコンクリートの家が増えているなかで、木造の日本家屋はとても目立つ。二階建てのそれはちょっとした庭があって、その庭と縁側の風景が俺の見たいものだ。
人の家の庭をながめるなんて、よくないことだとはわかっている。けれどやめられないほどに惹かれている。のぞきといえばのぞきだが、着替えや風呂をながめているわけじゃないし。
冷えたビールと日暮れの風で体が冷える。寒いなぁと思いながらも、ながめるのをやめられない理由はネコだ。
あの庭には、ネコがくる。
一匹や二匹のこともあれば、ネコの会議がはじまるのではと思うくらい、たくさん集まっていることもある。
日本家屋とネコなんて、最高の組み合わせじゃないか。
洗濯物を干しているときに、ふと見下ろして縁側にネコがいるのを見つけて以来、ヒマがあればこうしてベランダから隣の日本家屋の庭をながめるのが趣味になった。
三十二歳の彼女なし。平凡な会社の平凡なサラリーマン。貧乏なわけでもなく裕福なわけでもない、俺の名前は泉裕太。営業職だから髪は黒で短めに切ってある。自分でもなかなか好感度の高い、男らしい顔をしていると自負している。男前と男らしいは似て非なるものだとわかっているから、ナルシストじゃない。だけど、そう悪くはないとも考えている。
縁側には、黒色のネコが堂々とした態度でまるくなっていた。しっぽの先だけが白いネコは、あの家の飼いネコらしく、座布団の上で悠々と眠っている。なかなか体の大きなネコで、あの家の住人が膝に乗せると、はみ出ていた。
ちらほらと野良ネコが庭に集まってくる。暗がりからゆっくりと集まってくるネコたちに目を細めて、ビールを飲む。月見酒とか雪見酒なんてものがあるらしいから、これはネコ見酒だ、なんてシャレてみる。まあ、シャレてみてもそれを伝える相手なんていやしないんだけどさ。
藍色に染まる庭。家の中からあふれるやわらかな光。その中間地点に集まって、ゆったりと過ごすネコ。
なんてのんびりといやされる光景なんだろう。俺もあそこに混ざりたい。
「はぁ」
知らずため息がこぼれた。べつに仕事がしんどいとか、深刻な悩みがあるとかいうわけじゃない。うちの会社はいわゆるホワイト企業というやつで、いまどき(?)きちんと有給も取らせてもらえるし、人間関係も平穏だ。使う予定のない俺の有給は、ちっとも消化できていないけれど。
平々凡々。そこそこ平和で、そこそこ大変で、そこそこ充実していて、これといった不満もない日々。
それが一番だとはわかっているのに、なんだかむなしい。実家は兄貴が継いでいるからか、両親に結婚をしろとせっつかれることもない。いまの時代は結婚をしなくても生きていけるし、するに越したことはなくても、しなくても珍しくない。なにより俺は、彼女がほしいとか結婚したいとか、そういう欲望が昔からちょっと薄い。性欲は人並みにあるけども。
満ち足りていてもいいはずなのに、なんでこんなにむなしい気持ちになるのかがわからない。そんなときは、ネコたちを見て気持ちをなごませる。
どこか遠くへ行きたいな――。
そんな願望がふつふつと湧き起こったときに、ネコの集会をながめていると現実を忘れられる。
あの庭に、俺も混ざりたいな。
あそこにいる空想をしつつビールを飲むのが、いつの間にか俺の日課になっていた。
***
あの庭に行きたい。
その願望をかなえるチャンスがやってきた。
ポストを開けると、ちいさな手作りのチラシが入っていた。俺がいつもながめている、あの家の習字教室の勧誘チラシだ。いまさら習字をならうつもりはないが、黒ネコのイラストがあったからチラシを捨てる気になれなかった。尻尾の先が白いネコのイラストは、縁側の主みたいなあいつがモデルだろう。
チラシを見ながらエレベーターに乗り込み、自分の部屋のある階数ボタンを押した。
日本家屋で習字教室か。
しっくりきすぎて、逆に異次元であるかのように感じるのはなぜなのか。いまどき、そんな場所が残っているのはめずらしいからかもしれない。習字教室の簡単な説明に、読むともなしに目を走らせて、最後の部分に引っかかった。
『ネコを交えて、お茶会をしませんか』
教室の見学も兼ねたお茶会の誘いに、俺の心が揺れ動く。縁側で、のんびりとちいさな庭をながめながら、お茶とお菓子をいただく気軽なお茶会です。開催日は次の日曜日の午後二時から夕方まで。お好きな時間にお越しください、か――。
エレベーターから出て部屋に入り、カバンを置いてカレンダーを見る。趣味と言えるほどの趣味もなく、友達はだいたい結婚していて家族と過ごすか、結婚を前提にした彼女と過ごすかしているので、予定を確認しなくても空いているのに。
「行ってみるか」
自分に声をかけて、チラシをテーブルに置く。スーツを脱いで部屋着になって、冷凍庫を開けてレンチンでチャーハンを作り、食べながらチラシをながめる。
あの縁側で、お茶ができる。野良ネコたちは俺を警戒して近づかないだろうけれど、主みたいな黒ネコはきっといる。座布団でまるまっているネコと並んで、縁側でお茶をしている自分を想像したら、胸の奥がふくふくとあたたまった。
「行くか」
つぶやけば、その気になった。そうなると、一秒でもはやく行きたくなった。手土産はなにかいるかと考えて、悩んだ末にコンビニでネコ用のささみオヤツを購入した。これなら、仰々しくはならないだろう。
日曜日になった。
朝からソワソワしっぱなしで、時間になるのを待った。
はやめに行くと、教室に興味があるっぽく思われるよな。なんとなくヒマだから来ましたって雰囲気で行きたい。いやでもそれならネコのおやつを土産にするのはおかしいだろうとあれこれ悩み、一時五十五分になるとガマンができなくなって家を出た。
二時すこし前に家の前に立つ。立派な門に格子の引き戸があって、その先に飛び石が並んでいる。それほど広い前庭じゃなくて、大股で三歩ほどだ。とはいっても、立派な家であることに変わりはない。インターフォンを押すかどうかためらっていると、ガラスのはめられた玄関の引き戸がカラリと開かれた。
「あ、ええと」
「ようこそ、いらっしゃいませ」
現れたのは、いつも縁側でネコに囲まれている人だった。年のころは俺とおなじか、すこし年下かもしれない。まるく大きな、どこかネコっぽい目をしていて顔はちいさい。輪郭もやっぱり、どこかネコっぽかった。髪は黒で、サラサラと耳のあたりで揺れている。渋い色味の着物がしっくりきていて、タイムスリップをした気になった。浮世離れしたって、こういう雰囲気をいうんだろうな。
そんなことを考えていると、門の引き戸を開けられて招かれた。どうもと会釈してついていく。家の中は、ほんのりと木の匂いがした。
教室になっている畳敷きの広い部屋を通り抜けた先に、俺がいつもながめている縁側があった。座布団が置かれていて、あの黒ネコがデンと座っている。おもわず頬がゆるんだ。
「どうぞ、縁側でくつろいでいてください。すぐにお茶を用意しますので」
「あ、どうも」
なんとも間の抜けた返事をして、俺はさっそく縁側に向かった。黒ネコは近づいても目を開けようともしない。なんて肝の据わったやつだ。ポケットに忍ばせているネコ用おやつを出したら、起きるだろうか。だけど勝手に食べ物をやるのは、よくないよな。
座布団の横にあぐらをかく。黒ネコはやっぱり動かない。ほかにネコの姿はないから、ベランダからながめているときに見えるほかのネコは、みんな野良なのかもしれない。それか、外に散歩に出ている半野良か。
日差しはやわらかく、だけどあまりあたたかさを感じない。もうすっかり秋なんだなと、しみじみする。庭は凝った造りではないけれど、きちんと手入れをされていた。そういうものに興味がないから、どれがなにの木でどうたらこうたら、なんてことはさっぱりわからないけれど、ベランダから見ているときに想像していたよりもずっと、気持ちがいいながめだった。体中の毛穴から疲れが溶けていくようだ。気がつかなかっただけで、俺ってけっこう疲れていたんだなぁ。
「おまたせいたしました」
おだやかな声に振り向くと、さっきの人が盆に湯呑と饅頭を乗せて立っていた。脇には座布団をはさんでいる。
「すみません。オシロが座布団を占領していて」
「いえいえ。大丈夫です」
あわてて正座をするとクスリと笑われた。なんて上品な笑い方だろうと見惚れてしまった。
「この家の主で、習字教室の講師をしています。里見仁志です」
「泉裕太です。ええと、隣のマンションに住んでいます」
ちいさくうなずいた里見さんは、盆を置いて座布団をすすめてくれた。ありがたく受け取って尻を乗せる。縁側の板からじんわりとのぼってきていた冷えが、座布団に遮られた。どうぞとお茶を勧められ、湯呑を持ち上げる。ほっこりとあたたかな湯気に、緑茶のいい香りが含まれている。口をつければ、まるみのある味というか、ほんのりと後味が甘いというか、いままで飲んだことのないおいしさだった。
「おいしいです」
「それは、よかった」
にっこりとする里見さんの優美さは、なんというか、しどけなくて上品だ。どことなく色っぽくて、小学生のころに年上の美人なおねえさんと接していたときのような、ちょっぴりむずがゆい心地になる。同年代らしい同性相手にそんな気持ちになるなんて、なんだか緊張してしまう。だけど、悪い気分じゃない。
「あ、そうだ。――これ」
尻ポケットに入れておいたネコ用おやつを取り出す。近所のコンビニで手に入れた、いかにも適当に買ってきましたって雰囲気のそれを、里見さんは丁寧なしぐさで受け取ってくれた。
「わざわざ、ありがとうございます」
「いえ」
照れくさくなって、いただきますと饅頭に手を伸ばした。ふっくらとした手触りどおりの食感に、目じりがゆるんだ。
かたわらには眠っているネコ。目の前には緑あふれるキレイな庭。おいしいお茶と饅頭を食べながら、のんびりと日向ぼっこ。
贅沢だなぁ。
しみじみと幸福を味わう。高級料理を食べるとか、なにか高い時計やらなんやらを手に入れるとか、そういうものよりこっちのほうがいいと思うのは、オッサンになってきた証拠だろうか。いやでも、俺は昔からそうだった気がする。となれば、年齢的な問題ではなく、もともとの性格か。
ふと横に目を向けて、手を伸ばしてみる。座布団の上のネコは、背中を撫でてもピクリとも動かない。人よりも高い体温は、なんだかほっこりする。膝の上に乗せたいけれど、抱き上げたら起こしてしまうからガマンした。
「めずらしいですね」
「え?」
「オシロが、おとなしく触らせているなんて」
「オシロ?」
「そのネコ、尻尾の先だけが白いでしょう? だから、オシロというんです」
へえ、と座布団のネコを見る。名は体を表すというか、見た目から名前をつけられたのか。
「ピッタリな名前ですね」
里見さんのほほえみと、手のひらに伝わるオシロのぬくもりに、胸のあたりがあたたまる。このままずっと、だれにも邪魔をされずにいたいなぁ。
「そういえば、ほかにだれもいらっしゃいませんね」
「チラシを配ったのは、泉さんにだけですから」
「えっ?」
「いつも、この庭をながめていらしたでしょう」
顔が熱くなった。絶句していると、里見さんの笑みが深くなる。
「いやっ、あの、す、すみません」
「とがめているわけではないですよ。ただ、ネコたちも気にしていたので、お誘いしてみたんです。直接こちらにと声をかける機会もなかったので、遠まわしに。だまして来ていただいたみたいで、こちらこそ申し訳ありません」
頭を下げられて、あわてた。
「いえいえ! 俺がいつもながめていたのが悪いのであって、ぜんぜん、そんな、里見さんはちっとも悪くなんてないです」
「よかった」
小首をかたむけた里見さんに、照れ笑いを向けてオシロを見る。ここから俺が見えていたって、不思議はないよな。なんだか決まりが悪くて、照れくさい。文句を言うんじゃなく、招いてくれるなんてやさしいな。
ていうか、ネコたちも気にしていたって、どういうことなんだろう。俺の視線を感じたネコたちの様子がいつもと違っていて、それで里見さんは俺が見ていると気がついたってことなのだろうか。
「ネコ。お好きなんですか?」
「ああ、はい。好きというか、なんか、うらやましいなぁっていうか。これといった悩みがあるってわけじゃないんですけどね。なんとなく、むなしいっていうか……ぼんやりとした物足りなさ、みたいなものがあって。それで、こちらの縁側の風景をながめていると、そういうものがどうでもよくなるんですよ」
そうですかと、うなずきで里見さんが示す。
「どうぞ、お好きなだけ過ごしていってくださいね。今日は教室もありませんので」
スッと立ち上がった里見さんが部屋の奥に戻っていく。滑るような足取りは、とても優雅だ。所作がキレイだと、視線が勝手に吸い込まれてしまうものなのか。
里見さんの姿が見えなくなって、庭に目を戻した。オシロから手を離して湯呑を持つと、ピクリとも動かなかったオシロがむっくり起き上がって、のそのそと俺の膝に乗った。
おぉおお!
心のなかで感激の声を上げて、ニヤニヤしながらお茶を飲む。どっしりとしたぬくもりが膝に乗っている。ひんやりとした空気と、うららかな秋の日差し。心をなごませるネコの重みとぬくもりに、目にやさしい整えられた緑の庭。そしておいしい緑茶だなんて、最強の布陣じゃないか。
ずっと、ここでこうやって、のんびりと過ごしていたいな。ここで集会を開いているネコたちの仲間になって、ゆったりとした時間を味わってみたい。
「ネコになりたいなぁ」
ぽつんとつぶやけば、オシロが首を持ち上げた。
「ん? どうした」
じっと見上げてくる瞳は透き通った金色で、くるくるとまるく愛らしい。見つめ返すと、虹彩がゆらゆら揺れているというか、渦を巻いているみたいに見えてクラクラした。
なんだ、これ。
のんびりしすぎて、眠気でもやってきたのか。そう思った瞬間、オシロの目がカッと見開かれ、金色の光がグワッとぶつかってきた。
「いけないっ!」
里見さんのあわてた悲鳴を聞きながら、俺は金色の光に打ち砕かれて気を失った。
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