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第2話

 やわらかなものに体が沈んでいる。目を開けると、緑の庭が見えた。どこだっけと考えて、いつもながめていた縁側に座っているんだったと思い出す。家主の里見さんとお茶をして、ネコのオシロが膝に乗ってきて、そして、そして――。 「目が覚めましたか」  目を向けると、里見さんの顔がひどくおおきく見えた。近いからおおきく見えている、というわけではない。実際に、なんかおおきい。  まばたきをして首を持ち上げ、座布団に寝かされているのだと気がついた。だけどその座布団は俺の体がぜんぶ乗るほど、おおきなもので。  なんか、変だな。  首をめぐらせると、オシロがいた。ニンマリと口を持ち上げているオシロのおおきさも、なにかおかしい。身を起こして目を細めると、オシロが口を開いた。 「どうだ。念願のネコになった気分は」  ネコになった気分?  いったいどういうことだと聞いてみたら、にゃあ、とネコの鳴き声がした。オシロのほかにネコがいるのかと見まわしてみたが、見当たらない。というか、オシロがしゃべった? それに、里見さんの膝がとてもおおきい。膝の上にそろえられている、繊細なつくりの手は、俺の頭くらいのおおきさに見える。 (どういうことだ)  また、にゃあ、と聞こえた。見上げると、困った顔でほほえんでいる里見さんが「気をしっかり持ってくださいね」と言って、手鏡を俺に向けた。  そこに、茶色のネコが映っている。こんなネコいただろうかと振り返ってみたが、オシロしかいない。というか、なんで鏡を向けられているのに俺が映っていないんだ? 「ネコになりてぇっつうから、ネコにしてやったんだ。どうだ、うれしいだろう」  茶色いネコの肩口から、にゅっとオシロが首を伸ばして鏡に向かって得意げに笑っている。 (ネコにしてやったって、どういうことだよ)  しゃべっているはずなのに、にゃあにゃあとネコの鳴き声しかしない。なんなんだ、これは。いったいどういうことなんだ。  オシロの金色の目が妖しく光る。ゾワゾワと尻から悪寒が這い上がってきて、毛が逆立った。 「やめてください、オシロ」  手鏡を置いた里見さんが、俺をひょいと抱き上げる。 「コイツの希望をかなえてやっただけじゃねぇか。そう怒るこたぁねぇだろう、仁志。コイツには、素質があるぜ。でねぇと、こんなにあっさりネコになれねぇからな」  ニヤニヤするオシロのしっぽが、三本ある。目を擦って見直してみても減らない。というか、自分の手が猫の手になっている。――どういう状況だよ、これ。 「そう不安そうな顔をするなよ。ネコになりてぇんだろ? なぁに。俺様の精を受ければ、完全にネコ……っつうか、猫又の仲間になれるぜ。なあ、仁志。俺様はコイツが気に入ったんだ。かまわねぇだろう」 「いくら気に入ったからといって、人をネコにするなんてダメですよ。人がひとり消えると、大変なことになるんですから」 「人別帳のこったろ? けどよぉ、失踪する人間なんて珍しくもなんともねぇじゃねぇか。人はすぐ、どっかに行方をくらませちまうもんだろう」 「オシロがただのネコだった時代と、いまの時代は違うんです」 「人間もネコも、なぁんも変わっていやしねぇって。暮らしはだいぶ変わったのかもしれねぇが、中身はまったく違わねぇよ」  フンッとオシロが鼻を鳴らす。なにがなんだか、俺にはさっぱりだ。オシロがじっと俺を見上げる。どこか勝ち誇った顔つきに、なんとなく視線が吸い込まれる。そうするとオシロの眼光が鋭くなった。ふつふつと体の奥が熱くなる。  なんか、やばい。  逃げなければと、とっさに思う。いますぐオシロから遠く離れなければ、とんでもないことになる。 「あっ、暴れないでください。大丈夫ですよ、泉さん」  逃れようと身をよじれば、しっかりと里見さんの腕に包まれた。大丈夫って言われたって、ちっとも大丈夫な気がしないから逃げようとしているんです! 「泉さん、落ち着いてください。泉さん」  体の奥から得体の知れない熱が湧いてくるのに、おとなしくなんてしていられない。はやくそれから逃れたいのに、邪魔をするなと腹が立って、阻む白い指に思い切り歯を立てた。 「いたっ」  じわりとあたたかくて甘い、赤い液体が白い指に浮かんだ。それに惹かれて舌を伸ばす。舐めると、えもいわれぬ心地よさが広がって、体の奥に湧いていた奇妙な熱が引いていく。  なんだ、これ……すごく、うまい。  夢中になって吸いついていると、ふんわりと体がやわらかなぬくもりに包まれた。さっきまで俺を追い立てていたものとは違った種類の、気持ちのいい熱が体を巡る。ドクンと心臓が大きく跳ねたかと思うと、体がどんどんふくらんで、うっとりとした気分になった。  ものすごく、気持ちいい。  いい酒を口に含んだみたいな、馥郁とした香りが体に満ちる。ふわふわと身も心も軽くなって、空を飛べそうだ。 「っ、泉さん」  喉に詰まった里見さんの声が艶っぽくて、腰のあたりに血が集まった。ほんのりとした興奮に包まれて、ものすごくいい気分だ。 「は、ぁ」  上等な酔いにうっとりと息を吐く。里見さんのおおきさが、もとに戻っている。絹糸みたいな細い黒髪が床板に広がって、困惑顔でほほえむ表情はとても色っぽくて、妙な気分が腹の下でわだかまった。 「泉さん。あの、のいてもらえますか?」  表情そのままの声に、里見さんを縁側に押し倒しているのだと気がついて、あわてて離れた。 「わわっ。す、すみませんっ」 「いえ」  ゆったりと起き上がった里見さんが、着物の襟もとをさりげなく直す。妙に艶っぽいしぐさに、ゴクリと喉が鳴った。 「とりあえず、人目につく前に奥へ」  声を潜めてうながされ、よくわからないままに従った。 「あの、俺……いったい」  言いかけると、どうぞと服を差し出された。それは見慣れたもの、というか、俺が着ていた服だった。 「え?」  なんで俺の服を里見さんが持っているんだ。 「ズボンは、穿きづらいかもしれませんが」 「着る必要なんざねぇよ、裕太。ネコに服なんざいらねぇからな。あっていいのは、ネコじゃネコじゃの手拭いぐれぇだ」  カラカラと足元で、江戸っ子じみた威勢のいい声がする。見下ろすとオシロが俺の足に前足を乗せていた。しっぽは、やっぱり三本あった。  状況が把握できずに硬直していると、オシロが器用に口の端を片方だけ持ち上げる。 「頭と尻を触ってみな」  頭と、尻?  よくわからないまま、おそるおそる従った。ふわっとしたものが指に触れる。尻にあるものは長くて、手を滑らせて目の前に持ってくると、茶色のしっぽだった。ということは、頭にあるコレは獣の――ネコの耳なのか。 「裕太はネコになりてぇんだろう。だったら、俺とまぐわおうぜ。そうすりゃあ、完全にネコになれる。ただのネコじゃねぇ。猫又ってぇ立派なヤツに、一足飛びになれるんだ。悪い話じゃねぇだろう?」 「聞く耳を持つ必要はありませんよ、泉さん」  里見さんが険しい顔をすると、ハハンッとオシロは鼻先で笑ってしっぽを揺らした。なんだか、ものすごく偉そうだ。 「ネコになりてぇんなら、俺とまぐわえ。人間に戻りたいんなら、仁志とまぐわうんだな。どっちの精が欲しいんだ? 裕太」 「せ、精……って? まぐわうって」  エロいことしか思い浮かばないんだけど、まさか、そんなはずはないよな。ネコのオシロとエロいことをするなんてありえないし、里見さんは色っぽいけど男だし。 「まったく、意味がわからないんだけど」  というか、オシロがしゃべっているって奇天烈すぎるだろ。 「言葉をそのまま素直に受け取ればいいだけだ。なにもむずかしいことはねぇ。妙にこねくりまわして考えるのは、人間のよくねぇところだな。その点、ネコは正直でいいぜぇ」  言うやいなや、オシロがトントンっと身軽に俺と泉さんの体の間を飛び跳ねて、肩に乗った。ニヤッと牙を見せたオシロの顔を、泉さんがとっさに隠す。 「いけませんっ!」 「邪魔をするんじゃねぇやっ、小僧」 「勝手に妖術を使ってはいけないと、あれほど言っておいたのに!」  オシロを抱えた泉さんが眉を吊り上げる。オシロの三本のしっぽが踊るように揺れた。 「しゃらくせぇ。ちょびっとしか生きちゃいねぇガキが、俺様に指図すんじゃねぇや」 「飼い主は、この僕です」  ケッと吐き捨てるような口調のオシロに、キリッと里見さんが返している。まったく状況が呑み込めない俺の目の前で、ゆらゆらとしっぽが揺れる。それを見ていると、だんだんと目が回ってきて腰がくだけた。 「泉さんっ?!」  畳に体がぶつかるのと、里見さんのおどろきを含んだ悲鳴を認識しながら、俺の意識はシャットアウトした。

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