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第3話
布団がかけられている。手を見ると人間のもので、ホッとしながら体を起こした。広い畳の部屋に寝かされている。縁側と夕闇に染まっている庭が見えて、習字教室に使っている部屋にいるのだとわかった。
俺、寝てたのか。
つまり、俺がネコになってしまったというのは、夢の出来事だったのか。あまりにも気持ちがよすぎて、ついウトウトとしてしまったんだな。ネコになりたいなんて、うらやみながらこの庭をながめていたから、そんな夢を見てしまったんだ。
オシロがしゃべるなんて、おかしすぎるもんな。
まったく夢というものは、ファンタジーすぎることすら本当みたいに思えてしまう不思議な世界だ。現実の体験や考えと、本や映画なんかで見聞きしたものを混ぜこぜにして、疑似体験をさせてくる。目が覚めれば「なぁんだ」で済むけれど、夢の最中は本気でそうだと信じているから心臓に悪い。まあ、たまに「これは夢だ」と思っているときもあるけどさ。
なんだか、おいしそうな匂いがする。というか、もう夕方って……。俺、はじめて訪れた家で、めちゃくちゃ本気で寝ていたのかよ。
とりあえず布団から出て、服がきちんと畳まれているのを見つけて、自分が裸だと気がついた。まさかと頬を引きつらせ、おそるおそる頭に手を持っていく。
「……ある」
人間の耳のほかに、頭の上に動物の耳が生えている。もしかしてと見下ろすと、まってましたとばかりに、茶色のしっぽが腰をまわってヘソのあたりに姿を見せた。
「作りもんじゃ……ない」
しっぽは俺の意思で動いている。いたずらじゃない。
「さ、里見さんっ!」
あわてて、おいしそうな匂いが流れてくるほうへ行くと、そこは台所だった。エプロンをつけた里見さんが、なにやら調理している。
「目が覚めましたか」
「あのっ、俺……耳としっぽ……ええと」
なにをどう言っていいのかわからずに、手をあたふたと動かしてうったえると、眉を下げた里見さんが丁寧に頭を下げた。
「すみません。僕が目を離したスキに」
謝罪をされて、ますます混乱した。
「どういう、ことなんですか」
緊張した喉から出た声は詰まってしまった。
「とりあえず、あの、服を着ていただけますか? 風邪をひいてしまいますし」
遠慮がちに言われて、素っ裸のままだったと思い出し、あわてて着替えをしに戻った。しっぽが邪魔でパンツとズボンが穿きづらい。かといって、ずらしていくわけにもいかないから、窮屈だけどガマンする。
「よし」
ちゃんと服を着て、あらためて台所に向かうと、食卓に料理が並んでいた。味噌汁に、ご飯に、おいしそうな炒め物と漬物だ。
「ありあわせのもので作ったので、ごちそうではないですが。よろしければ」
「は。あ、いえ……ええと」
遠慮しようかと思ったけれど、手料理に飢えていたし目の前の料理はおいしそうだし、すでに俺の分まで用意されているし、ここで断るのは失礼にあたるよな。
「じゃあ、遠慮なく」
「どうぞ」
ニッコリとした里見さんは、同性なのに見惚れるほど優美というか、なんというか。しっとりとして色っぽいくせに、清楚だ。こういう日本家屋に住んでいて、和服を着て習字の講師をしていたら、そういう物腰になってしまうものなのだろうか。
向かいあって席に着き、いただきますと手を合わせる。炒め物は野菜と豚肉の味噌炒めだった。味噌汁の具はキノコ。料理を作った相手と、いっしょにそれを食べるなんて久しぶりすぎて、なんだか照れくさい。
「お口に合えばいいのですが」
「うまいです。めちゃめちゃ」
「それは、よかった。どうぞ遠慮せずに、おかわりもしてくださいね」
「ありがとうございます」
お世辞ではなく、ほんとうにうまかった。俺は夢中でご飯を食べて、食後に出されたほうじ茶になごんだ。
「はぁ……ごちそうさまでした」
「いいえ。お粗末さまでした」
そう言って食器を片づける里見さんの物腰に、視線が吸い込まれる。なよやかなんて男に向ける言葉じゃないだろうけれど、里見さんにはしっくりくる。
「こうして、だれかに料理を作るのは久しぶりで」
はにかみながら、食器を洗う里見さん。
「俺も、だれかの料理を食べるのは久しぶりで、おいしかったです。いつもは冷凍とか、総菜とか買ってきて、適当に食べているもんで」
「自炊は、あまりなさらないんですか?」
「なんというか、作る気になれないんですよね。めんどくさいっていうか、腹がふくれればいいっていうか。そんで適当に腹に入れて、ビール引っかけて寝るのが日課みたいなもんです」
「ベランダに出て? これからの季節は、ビールだと冷えるでしょう」
「いやぁ、それは」
庭をながめていたことを、とがめられたわけでもないのに、なんだか決まりが悪くなる。
「なに、ふたりでいい雰囲気になってんだ」
足音もなくテーブルに上がってきたオシロにギョッとする。コラッと言いながら、里見さんがオシロを抱いて膝に乗せた。
「すみません。――あの」
里見さんの視線が俺の頭に移動した。
「まさかオシロがここまで泉さんを気に入るなんて思わなくて。うかつに誘ってしまった僕の失態です。ほんとうに、申し訳ありませんでした」
頭を下げる里見さんの膝上で、オシロはしれっとした顔でヒゲの手入れをしている。
「状況がまったくわからないんですけど、説明してもらえますか?」
「説明もなにも、俺様が猫又で、おめぇがネコになりてぇっつったから、希望をかなえてやったってだけじゃねぇか」
あきれ顔のオシロの口を、里見さんがそっと手で押さえた。
「僕はネコ憑きの家系なんです」
「ねこつき?」
「狐憑きとか、そういうものを聞いたことはありませんか」
「妖怪とか、そういうアレのことですか」
そうですと里見さんがうなずいて、俺はオシロを見た。
「憑き物筋っつうもんがあるんだよ。わかりやすく言やぁ、ある特定の妖怪やらなんやらに、好かれやすい血筋ってこったな。そんで、仁志の家系はネコってこった」
「それって、原因のわからない病気を、妖怪のしわざだと言ったりしてたってだけだろう? 医療が発達して、そうだったってわかったんじゃなかったっけ」
「俺様を目の前にして、よくも言えるな」
三本のしっぽを、証拠だと言わんばかりにオシロが揺らす。俺は額に手を当てて、うなった。これもまだ夢の続きなのか? 夢から覚めたら、また夢でしたってオチなんじゃないか。
「現代では、獣憑きつったら変人扱いされるだけだから、そういう家系の人間は隠して生きてんだよ。まあ、変人扱いは、いまにはじまったことじゃあねぇか。――異国の文化が入ってきて、科学だなんだってぇなモンが広まって。そんで、俺様たちは勝手にいねぇことにされちまったってぇだけなんだよ。なんでもかんでも、わかりやすい原因ってぇのを欲しがるからなぁ、人間は」
ばかばかしいとオシロがテーブルに前足を乗せる。
「こうして俺様がいることが、動かぬ証拠だろうがよ。でなきゃ、俺様が仁志に憑いているわけがねぇし、お前がそんな姿になっちまってる説明もつかねぇじゃねぇか」
クイッとオシロが顎を動かし、俺の頭に生えたネコ耳を指摘する。反射的に頭に乗せた手に、まぎれもなく獣の耳としか思えない感触がなかったら、里見さんが俺をからかうために腹話術でも使って、オシロがしゃべっていると見せかけているんだと思っただろう。だけど、俺の頭には立派(?)にネコ耳が生えているし、尻にはしっぽもある。信じないでいるなんて無理だ。だけど――。
「憑き物っていったら、狐って相場は決まっているもんじゃないのか」
やっぱり信じたくなくて、文句を言ってみる。
「有名なのは狐だろうがな。ほかにもいろいろ、憑く動物はいるんだよ」
「ええと……つまり、里見さんはオシロに憑りつかれていて、操られているってことですか?」
いいえと里見さんが、わずかに首を動かした。
「たしかに、憑き物といえば乗り移られた、というイメージがいまは一般的なようですが、そうではないんです。そういうものもありますが、その場合は一代限り、その人のその場限りなんです。僕たちのような憑き物筋の家系は、代々その獣を使役するというか、共存するというか、そういう感じなんですよ」
里見さんの言葉を、俺なりに解釈してみる。
「それって、陰陽師の式神とかそういうものみたいな感じですか?」
「厳密に言えば違いますが、そう思ってくださっていて結構です」
「無知な人間に詳しく説明したって、しかたねぇしなぁ」
「オシロはすこし、黙っていてください」
厳しい声で、里見さんがオシロの喉をくすぐると、オシロは気持ちよさそうに目を細めてゴロゴロと喉を鳴らした。
「憑き物筋の家系は、憑き物が自分の居場所を確保するために、その家を存続させようとします。それが人を搾取するタイプか、共存するタイプかに別れるのですが、うちは後者なんです。ですが、僕がまだ未熟なために、オシロには押され気味で。そのせいで、泉さんに迷惑をかけてしまって。本当に、申し訳ありません」
「そう、ヘコヘコと頭を下げるんじゃねぇよ、仁志。コイツがまったく素質がなくって、ネコになりてぇとも思っていなかったら、俺様の術にだってかからなかったんだ。半分はコイツが自分で招いたようなモンなんだぜ」
「俺が?」
たしかにネコになりたいと言った。それを聞いたから、オシロは俺に妖術を使ったっていうのか。そして俺がそんな気持ちを持っていたから、こうなってしまった。というか、素質ってなんだ。
「あの、オシロの言う素質って、なんですか」
霊感とか、ないはずなんだけど。
気の毒そうな顔で、里見さんがオシロに視線を落とす。
「泉さんが庭をながめているって、ネコたちが気にしていたんです。人に見られていたって、近づかれたりしなければ、あまり気にしないものなんですが。距離も距離ですし」
言いながら里見さんが目を上げる。ベランダからながめていたって、ネコからすれば危害を加えられない安全な距離だと言いたいのだろう。俺がうなずくと、里見さんは言いづらそうに続けた。
「つまり、ネコたちが気にするだけのものを、泉さんは持っているんです。それが、どういうものなのか、僕はうまく説明ができません。おそらくそれが、オシロの言っている素質です」
わかったような、わからないような。とにかく里見さんとしては、それが精一杯の説明らしい。気の毒なくらい恐縮している里見さんを見ていると、気にしないでと言いたくなる。気にされなくなると、めちゃくちゃ困るんだけどな。
「僕が泉さんを誘うチラシなんて作らなければ、こんなことにはならなかったのに」
「この小僧がネコになりてぇって言ったから、俺様はそうしてやったんだっつってんだろ。仁志が気に病むことじゃねぇって、何度言ったらわかるんだ」
「だからといって、していいことと悪いことがあります」
ひょいっと里見さんの腕から逃れたオシロが、俺の前にやってくる。小首をかしげて、ななめに俺を見上げてくるオシロは、人間でいえば流し目をしてくるホストみたいだ。
「ネコになりてぇんだろう? だったら、おとなしく俺に抱かれろ」
「だっ?!」
なんてことを言うネコだ。赤くなったら、「ずいぶんとウブな反応だな」と笑われた。ネコに笑われるなんて、なんか悔しい。
「ちゃんとした人間に戻してくれ」
耳としっぽが生えたままじゃ、会社に行くどころか近所へ買い物にだって出られやしない。
「そりゃ無理だ」
「そんな、あっさり」
「無理なもんは、無理なんだからしかたねぇだろう。あきらめて俺に抱かれて、ネコになれよ。たのしいぜぇ?」
クックッとあくどい笑い方をされた。
「そういうわけにも、いかないんだよ。しっぽはともかく、耳だけでもなんとか消してくれ。これじゃあ、会社に行けないだろう」
「そんなもの、ネコになっちまやぁ平気だろ。あくせくしねぇで、気ままにのんびり暮らそうや」
それはちょっと魅力的な提案だ。だけど、そのためにオシロに抱かれなきゃいけないとか、ぜったい無理だろ。だいたい、ネコがどうやって俺を抱くんだよ。想像もつかないっての。
「ほんと、どうすりゃいいんだよ」
頭を抱えると、里見さんがおずおずと提案してくれた。
「とりあえず、インフルエンザだと言って、会社に休みをもらってはいかがでしょうか? インフルエンザなら出勤するわけにも、いきませんよね。日曜ですが、会社の方に連絡は取れますか」
「あ、はい」
なにかトラブルがあったときのために、上司の携帯番号は知っている。
「それでは、すぐに連絡をしてください」
急かされて、不思議に思いつつスマートフォンを操作する。上司の定岡課長はすぐに電話に出てくれた。インフルエンザだと言えば、有給が残っているから、いまは忙しい時期でもないし、いまのうちに使ってしまえと提案された。
「有給消化の実績を作りたいのに、おまえだけいつも未消化だろう? 部下の管理もできないのかって、俺の査定に響くんだよ」
笑いを含んだ定岡課長の言葉に、ありがとうございますと礼を言って有給を使わせてもらうことにした。この奇妙な術がいつ解けるかわからないから、時間的余裕をすこしでも長く持っていたい。
「どうでした」
通話を切ったら、里見さんが案じ顔で聞いてきた。
「とりあえず有給が残っていたので、それを使うことになりました。いまは仕事が忙しくないので、どうせならって上司が勧めてくれて」
「そうですか。それで、どのくらいの期間、休めるんですか?」
「まったく使っていなかったので、まるまる……ええと、去年の繰り越しも含めて四十日ですね。厳密に言ったら、土日を含まないから、もっと休めることになりますけど。まあでも、いきなり全部を消化するのは気が引けるだろうから、とりあえず今年消滅する去年の繰り越し分の二十日分だけは、きっちり休むことにして、体調がよくなかったら追加で今年の分を使えばいいって言われました。だから、とりあえず一か月ほどは休みです」
そんなに休むと、会社に行く気がなくなりそうだ。学校の夏休みはそのくらいあったはずで、それでも学校にはなんとなく行けていた。だけどそれが会社となると、出勤したら俺の席がなくなっていそうだな、なんて考えてしまうのはなぜだろう。
なるほどと、里見さんとオシロが異口同音につぶやいた。
「それでは、その間にかならず泉さんがもとに戻れるように、尽力しますね」
「そんじゃあ、その間に完璧にネコになるってぇ、覚悟を固めておくんだな」
ふたつの言葉に、あいまいに笑った俺の視界がグングンと下がっていく。おどろいている間に俺の体はずんずん縮んで、ネコの姿になってしまった。
「にゃあ」
なんで、と言ったはずが鳴き声にしかならなかった。
「そろそろネコになると思っていましたが、間に合ってよかった」
だからすぐに電話をしろと言われたのか。里見さんにそっと抱き上げられて、目の奥をのぞかれる。
「これからしばらく、よろしくお願いしますね。泉さん」
どこかさみしげなほほえみに、俺の心臓はトクンとちいさくわなないた。
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