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第9話

 走りつかれて、俺はフェンスの張り巡らされている空地の草陰にうずくまった。これからなにか建てるらしい空地は、俺の背中を超える程度の草が生えているから、身を隠すのに都合がよかった。草の影から車や人の通る姿が見える。それをぼんやりながめる俺の目は、見えている光景じゃなくキスをしている里見さんとオシロの姿を映していた。  幻みたいな記憶のふたりが、どうしてずっと見えているんだろう。胸の奥がムカムカしてきて、腹の底がひんやりしていて、背中がゾワゾワと気持ち悪い。あんなふうに里見さんはオシロとキスをしていたのかと考えると、頭が痛んでしかたなかった。  俺は、どうしてしまったんだろう。  ため息をついて息を吸うと、草の匂いに鼻をくすぐられた。そっけないけれど落ち着く匂いに、対照的な里見さんの匂いを思い出す。  やさしくてあたたかくて、どこか甘さのある匂い。場所によって強弱はあるけれど、あの家の中ならどこでも嗅げた里見さんの匂いは、当たり前だがここにはない。  それがとても不思議な気がして、なんだか頼りない気分になった。自分から飛び出したくせに、なんでこんなに心細くなっているんだろう。  俺は、ふたりにとっては邪魔ものだったのかな。  空を見れば、腹が立つほどいい天気だった。縁側で寝そべっていたら、ちょっと肌寒いけれど気持ちのいい眠りをむさぼれそうだ。だけどここは空き地で、縁側じゃない。やわらかな空気も、快適な座布団も、里見さんの気配もない。土と小石と雑草だらけの空き地だ。  里見さんは、オシロがさみしかったから、俺をネコにしたんだと言った。オシロは里見さんが、人とあまり関わらなくて、俺がいるとうれしそうにすると言った。俺はそれを真に受けて、ちょっといい気分になっていた。俺を必要としてくれているんだと考えて、里見さんといられるのなら、ネコになってもいいかなって迷いもした。  ふたりの濃厚なキスシーンを見て、ふだんからしていたと聞いたいまは、ふたりが互いを気遣っていただけなんだと思う。  人間と妖怪のふたりは、それぞれがそれぞれを心配していた。里見さんはオシロが仲間を求めて、俺をネコにしたんだと考えた。オシロは里見さんが俺に興味を持ったから、俺をネコにして与えようと決めた。  でも、里見さんは俺が完全にネコになるには、オシロに抱かれなくちゃいけないと知って、いやになった。オシロが好きだから、ほかのだれかにオシロがキスとかそれ以上をするなんて、許せなかった。だから俺を人間に戻すと言って、遠まわしにオシロに想いを伝えていた。  そう考えると、しっくりくるじゃないか。  鼻先で笑って、よけいに落ち込む。オシロは俺が人間に戻るには、里見さんが俺を抱けばいいと言っていた。里見さんにはそんなことできないって、わかっていながら言ったんだ。だって里見さんはオシロが好きだから。それを聞いて、きっとショックを受けただろう。そしてほかの方法を探すと決めた。  でも、里見さんは俺にキスをしてくれた。あれは……まあでも、俺が具合が悪くなって、それをなだめるためだったから、しかたがなかったのかもしれない。というか、発情期だったんだから、オシロがしてもよかったはずだ。あいつだって俺を落ち着かせられたんじゃないか。だけど里見さんを呼んだ。それはオシロが、俺と里見さんを仲良くさせようと考えたから。里見さんが俺にキスをしてくれたのは、オシロと俺がキスをするのが許せなかったから。  どんどん納得のいく説明が出てきて、そのたびにどんどん気分が落ちていく。なんで俺、自分で自分をへこませているんだよ。だけど考えは止まらない。オシロと里見さんが、すれ違いの両想いだったらと想定して、いままでの出来事を当てはめていくと簡単に説明ができていく。  里見さん。  いまごろ、午後の習字教室の準備をしているのかな。俺が飛び出したことで、オシロと痴話げんかして、お互いの気持ちを告げて、それで一件落着して。――俺のことなんて忘れて、ふたりで仲良くしているんだ。  いってきますとほほえんでいた、里見さんを思い出す。ふんわりとした声で、俺を呼んでくれた里見さん。困った顔で笑っている里見さん。さみしげな雰囲気の瞳と、長いまつげ。通った鼻筋と形のいい唇。俺を撫でてくれた長い指。  目を閉じて、頭の中を里見さんでいっぱいにする。しあわせなのにかなしくなって、いますぐに里見さんに抱き上げられたくなった。  ほんのすこし風を感じて目を開けた。空は相変わらずで、草はちょっぴり揺れていた。人の足音が聞こえる。ずいぶん急いでいるようだ。俺もこうなる前は、そうやって急いだりしていたな。べつに次の電車でも遅刻はしないのに、目の前に電車が来ると乗らなきゃいけない気になって。  まだ一か月も経っていないのに、ひどく遠い思い出みたいだ。食事の時は人間の姿でいるけれど、そのほかはずっとネコとして過ごしていたからかもしれない。すっかりこの体にも慣れてしまった。  ――完全にネコになっちまうってぇのに抵抗があるんなら、半獣のままでいりゃあいい。あっちの住まいを引き払っちまえよ。人別帳があったって、行方不明者はべつに珍しくもねぇだろう? おまえのことなんざ、すぐに忘れ去られるさ。  オシロの言葉を噛みしめる。そうだなぁ。それもいいかもしれないなぁ。このまま野良として、過ごしていくのも悪くないかもしれない。はじめはいろいろと不慣れで困るだろうけれど、順応性は高いほうだと思っているから、なんとかなるんじゃないか。人間に戻るためには、ほかの人間の心臓を三つも食べなきゃいけないとか、ハードル高すぎるし。どうしても人間に戻りたいってわけでも、ない気がしてきたし。 「泉さん」  そんなふうに、里見さんに名前を呼ばれないのなら、もうどうでもいいや。 「泉さん。いるんですよね、泉さん」  幻聴が聞こえるとか、俺ってどんだけ里見さんが好きなんだよ。ああ、そうか。俺、里見さんが好きなんだ。だからこんなにショックを受けて、飛び出してしまったのか。告白する前に失恋とか、すごくダサいな。まあでも俺しか知らないから、問題ないか。 「泉さん。そこにいるんでしょう! 姿を見せてください、泉さん」  こんなにおおきな里見さんの声なんて、はじめて聞くなぁ。必死で、不安で、ちょっと泣きそうな感じがする里見さんの声。俺って、妄想が強いのかな。そんなふうに里見さんに呼び戻されたいとか、無意識に考えていたのかな。 「泉さん! 出てきてくれないのなら、僕がいきます。逃げないでくださいね」  ガシャンと金網が鳴って、あれっと思って顔を向けると、里見さんがフェンスをよじ登ろうとしていた。  いやいやいやいやいや! そんなことしたら、完全に不審者ですよ。  あわてて飛び出したら、里見さんがホッと表情をゆるめた。 「ああ、よかった。泉さん、すぐにそっちに行きますから」  なおもフェンスを登ろうとする里見さんを止めるために、俺はあわてて道に出た。通りすがりの不審そうな目をした人が、俺に手を伸ばす里見さんを見て納得顔になる。行方不明の飼いネコを見つけたのかと、あの人の中で理由がついたのだろう。そんなことを考えていたら、抱き上げられた。 「いきなり飛び出していかれて、おどろきました」  どうして俺の居場所がわかったんですか。 「んにゃぁお、う、にゃあう、にゃ」  ああ、そうだ。俺の言葉は里見さんには通じないんだ。俺がきちんと猫又になれば、オシロみたいに里見さんと会話ができるのかな。そうなれるのなら、オシロに抱かれてもいいかもしれない。 「すみません。僕が未熟だから、泉さんの言葉がわからなくて」  しゅんとした里見さんの頬に前足を伸ばす。 「ふふ。なぐさめてくれるんですね。ありがとうございます」  やわらかな笑顔に、心がふんわりした。俺、ちゃんと里見さんが好きなんだな。いつの間にか、好きになってしまっていたんだな。片思いでもいいから、この人の傍にいたい。さっき野良として生きていくか、なんて考えたばかりのくせに、里見さんの匂いを嗅いだら、ずっと傍にいたくなってしまった。 「帰りましょう、泉さん」 「にゃあ」  しっかりと俺を抱えて、里見さんは家に戻った。ずいぶんと走った気がしたけれど、そうでもなかった。ただいまと里見さんは言って、俺を上がり框に下ろした。オシロが顔を出して、ニヤリと笑って引っ込んだ。 「泉さん。どうして逃げ出したのか、お話を聞かせていただきたいんですけど、もうすぐ生徒たちが来るので、そのあとでもいいですか?」  不安そうな里見さんに、はいと返事をする。里見さんには「にゃあ」としか聞こえないけれど通じたみたいで、よかったとほほえまれた。 「ちゃんと、家の中にいてくださいね」  また「にゃあ」と返事をして、いそいで習字教室の準備をはじめる里見さんを横目で見ながらオシロを探す……までもなく、いつもの座布団の上にいた。 (ちょっと、話があるんだけど。いいか) 「ここでは、できねぇのか」  めんどくさそうなオシロが、机を並べている里見さんを見て起き上がった。 「二階に行こうぜ」  階段を上る間に、オシロのしっぽが三本になった。布団のある部屋に入ると、オシロは窓際の日が当たる場所に落ち着く。俺はその向かいに座った。 「話ってなぁ、なんだ」 (里見さんは、どうやって俺を見つけたんだ) 「なんだ。そんなことか。そのへんのネコに聞けば、一発だろ」 (ほかのネコの言葉は、わかるのか)  俺の声はわからないのに。 「なんとなく、察しているって程度だが、それで充分だろう。おまえがここで暮らしているってぇことは、ネコたちの間に広まっているからな。新入りのおまえがどこかに行った。探しているってぇ言やぁ、あっちに行ったって首を動かすだけで足りるしな」 (そうなのか) 「そんなことを聞くために、わざわざ縁側から俺をひっぺがしたのかよ」  めんどくせぇなとオシロがあくびをする。 「まあでも、おとなしく捕まって正解だったぜ。いくらおまえが俺様の子分つったって、よその縄張りに入っちゃあ無事でいられなかったかもしれねぇからな。逃げまわったあげくにケガをしたとあっちゃあ、仁志が落ち込む」  そうか。あのまま逃げてしまうって道もあったのか。 「ガキどもが帰ったら説教が待っているだろうが、まあ……自業自得だな。なんで飛び出したのかは、そこできっちり説明してやれ。でねぇと仁志は、いろいろと考えすぎちまうからよ」 (……う、ん)  うまく説明できるだろうか。というか、どうして飛び出したのかを言うってことは、俺が里見さんを好きだってことを伝えるってことになる。失恋確定なのに告白をしなくちゃいけないなんて、どんな罰ゲームだよ。オシロの通訳がいるっていうのも、苦行にしかならない予感に拍車をかける。俺の言葉で伝えたくても、ネコのままでは里見さんには通じない。かといって、人間になるために里見さんの精気を取るのは気が引ける。それがいやで、指を噛むのを拒否したから、オシロは里見さんにキスをして人の姿になって――。 (オシロは、里見さんとキスをして人間になれるんだよな) 「口から精を吸えば、噛みついてケガをさせなくてもいいだろう」 (それって、俺でもできるのか) 「できるだろ。つうか、体験してるじゃねぇか」 (えっ?) 「発情期をなだめるときに、しただろう。あんときはいつもより、長く人間でいられたじゃねぇか」  思い出すと、体中が熱くなった。オシロに豪快に笑われて、恥ずかしくなる。 (なんだよ。笑わなくてもいいだろう) 「いやいや。おもしれぇから、笑っちまったんだろ。裕太もずいぶんと、仁志を気に入ったみてぇじゃねぇか」 (それは、まあ) 「おおかた、飛び出しちまったのは、俺様が仁志の口から精を吸ったのがいやだったからだろう」  図星過ぎてなにも言えない。 「ツガイになりてぇのか」 (ツガイって) 「人間風に言やぁ、夫婦ってこったな」 (っ!)  全身の毛としっぽが逆立った。オシロが愉快そうに体を揺する。 「あとで、俺様がそう仁志に伝えといてやるよ。どうせおまえ、仁志の精を吸わねぇだろう? そうなったら俺様の通訳が必要だからな」 (それは、そうだけどさ。もっとほかに、なんかこう、穏便にそれらしい説得力のある言い訳はないかな) 「ほかにもなにも、事実はそうなんだろう? だったら、そう言えばいいじゃねぇか」 (それで気まずくなったら、困るだろ) 「なんで、気まずくなるんだよ」 (それは……まあ、なんというか、いろいろと) 「ふうん?」  わかったようなわからないような顔で、オシロが首をかしげる。 (とにかく、俺が里見さんを好きっていうのは、秘密にしといてほしいんだよ) 「よくわからねぇが、そのほうがおまえの居心地が悪くねぇっつうんなら、別の理由を考えてやってもいい。――ところで、裕太」  オシロが俺に近づいて、鼻先をくっつけてくる。 「おまえ、ネコのままでもいいって思っただろう」 (なんで)  妙に迫力のある気配に後ずさった。オシロの金色の目が妖しく光っている。腰のあたりに不穏な気配を感じて、全力で警戒した。 「そう怯えるんじゃねぇよ。悪いようにはしねぇって」 (悪いヤツの常套句だぞ、それ) 「ふうん。なら、俺様は悪いヤツかもしんねぇな。すくなくとも、いまからしようとしているこたぁ、仁志に激怒されてもおかしくねぇ」  オシロの目の虹彩が細くなった。頭の中で警鐘が鳴り響く。視線をとらえられる前に顔をそむけて、伸ばされた前足を交わして部屋から飛び出した。 「逃げられると思うなよ!」  全力で走ったはずなのに、オシロの声は間近にあった。 (うわっ)  部屋を出切らないうちに、床に押しつけられる。 「ネコとして過ごす覚悟を一度でも決めたんなら、大丈夫だ」 (なにが) 「俺様に抱かれりゃあ、立派な猫又になれるって言ってんだよ」  振り向けば、剣呑な笑みを浮かべたオシロがいた。オシロが猛獣に見えて、ヒッと喉の奥で悲鳴を上げる。 「人間には戻れねぇが、完全な猫又になっちまえば人間のフリをして生きていくことも可能だぜ」 (……えっ) 「人型になるために、人間の精をいただかなくっちゃいけねぇがな。それさえできりゃあ、正体を隠して人間として生活できる」 (それって、だれかを襲って精気を吸うとか、そういうことかよ)  オシロはちょっと不機嫌に鼻のあたりにシワをよせた。 「そういうヤツもいたけどな。あいつは猫又の仲間内でも評判が悪かった。自分がたのしく暮らせりゃあ、ほかはどうでもいいって考えでな。猫又のだいたいは人間に飼われて寿命以上に生きたネコがなるもんだ。だから大抵は、人間とつかず離れず、共存する道を選ぶもんだが、どういうわけか清十郎は人間をエサとしか考えていなかった」 (武士みたいな名前だな) 「飼い主が武士だったんだよ。猫又になって、あいつが最初にやったことは、飼い主の武士を食い殺すことだった。その精で人間になって、あちこちで悪さをしては逃げまわった。いくら手配書を出しても、ネコになって逃げちまえば人間はわからねぇ。たまに貧乏な家に、金持ちから盗んだ金を分けてやっていたみてぇだが、あいつの悪行を数えりゃあ、埋め合わせにもなりゃしねぇ」  吐き捨てるような口調から、本気できらっているのが伝わってくる。呆然と聞いていると、話が反れたなとオシロは咳ばらいをした。 「まあ、そんなヤツもいたが、もっと穏便に合意の上で精をもらう方法がある。それをすりゃあ、問題ねぇ。ただ、あんまりおんなじ相手とばっかするのは、いただけねぇがな。精の回復が追いついてねぇのにもらちまったら、相手は衰弱しちまうからよ」 (つまりその、合意の上で精気をもらえる相手を、ちょくちょく変えればいいってことか) 「そういうこった」 (でも、そんなことをしたら正体がバレないか) 「そこは、うまいことすりゃあいいんだよ。そういう商売ってぇことで、うまいこと精を分けてもらっていたヤツがいたから問題ねぇ」 (そうなのか) 「どうだ、裕太。俺に抱かれて完全な猫又になりゃあ、ネコの姿でも仁志と会話はできるし、おまえの望み、ネコになりてぇってのもかなえられる。人としての生活も続けられて、万々歳だとは思わねぇか」  誰に迷惑をかけることなく、そうなれるのならちょっといいかもしれない。ネコの姿でも里見さんと会話ができたら、里見さんの精気をもらわなくても済む。そうすれば里見さんが体調を崩すこともないし、人間として過ごせるのなら里見さんと食卓を囲むことだって可能だ。  オシロに抱かれるっていうのは、ちょっと――かなり抵抗があるけれど。  俺は壁に目を向けた。日付のわかる時計がかかっている。俺の有給が終わるまで、あとすこし。そろそろ決断をしなければならない時期だ。 (オシロ。その、うまいこと精気を分けてもらう方法だけどさ。どうするんだ?)  その方法を知れば、オシロに抱かれず中途半端ないまのままでも、人間として暮らせるかもしれない。そう思って聞いたのに、オシロは俺が抱かれることを了承したと思ったようで、勝ち誇った笑みを浮かべた。 「決まっているだろう? 精を吸うんだから、いろんなヤツに抱かれるんだよ」  そんなこと、できるわけないだろう!  やっぱりいやだと断る前に、オシロの牙が俺の首にかかった。のしかかられた俺は、この世の終わりみたいな絶叫をほとばしらせて、全力で暴れまわった。

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