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第8話

 最近、里見さんの顔色が悪い気がする。頬がこけているように見えるというか、顔色がいつもより青白いというか、はかなげな印象がより強くなっているというか……。とにかく、体調が悪いのではと心配になるくらいには、顔色がよくない。  なにか無理をしているのなら、手伝えることなら教えてほしい。だけど人間の姿でいられる時間が限られている俺が、そう言ったって里見さんは遠慮をするだけなんじゃないか。むしろ心配をかけてしまって申し訳ないなんて、よけいに無理をしてしまう気がする。  いっしょに暮らしているんだから、もっと頼ってくれてもいいのに。 「それじゃあ、よろしくお願いしますね」 「いってらっしゃい」 「いってきます」  区民センターでの教室に向かう里見さんを見送って食器を洗っていると、オシロに背中をつつかれた。さっきまで食卓を囲っていたから、オシロは人型だ。黒髪に金の瞳。しなやかな体つきは同性としてうらやましい限りだ。ネコの耳としっぽがなければ。 「気づいてんだろう?」  俺のしっぽを触りながら、オシロが言う。 「なにが」 「仁志の体調だよ」 「それは、まあ」 「ふうん。それで、どう思う?」 「どうって……どういう意味だよ」 「どうにかしてぇと思うかって聞いてんだ」 「どうにかできるんなら、どうにかしたいさ」  食器を洗い終えて掃除に取りかかった。オシロは手伝うでもなく、俺の後をついてくる。 「どうにかできるぜ」 「えっ」  腕を掴まれて押し倒された。のしかかられて、肩を押さえつけられる。畳にしっぽが押しつけられて、つけ根がすこし痛んだ。 「俺様に抱かれろ」 「は? なんで里見さんの体調の話から、そうなるんだよ」 「おまえが観念すりゃあ、仁志の負担が減るんだよ」 「わかりやすく説明しろよ」  俺はひ弱な体格をしているわけじゃない。だけどオシロは余裕の顔で、押しのけようとする俺を抑え込んでいる。 「おまえ、人型になるためになにをしている?」 「……里見さんの指を、噛んでいるけど」 「それで、精を飲んでいるだろう」 「精って」 「精気……いわゆる、見えねぇ命の力ってぇやつだ。それをもらって、おまえは人間の姿になる。つまり仁志は自分の命を、飯を食う前におまえに与えてやってんだ。そんなことを続けていりゃあ、具合が悪くなって当然だろう」  フフンと笑ったオシロの金色の目が、意地悪く光っている。 「だからそろそろ観念して、俺様に抱かれちまえよ。きちんと猫又になっちまって、猫又として生きていく覚悟を決めるいい機会だぜ」  耳裏を舐められてビクリとしたら、オシロが悪役みたいに喉を鳴らした。 「なあ、裕太。そうすりゃあ仁志だって、おまえに余計な気を遣わずにいられるんだよ。ずっとここで、ネコとしてのんびり暮らすのも悪くねぇぜ」 「それは」  たしかに。ここで暮らすようになって、俺はベランダでここをながめていたときみたいな、妙なさみしさを感じなくなっている。里見さんは俺を受け入れてくれていて、やさしい目を向けてくれる。縁側で昼寝をするのは気持ちがいいし、なにをするでもなく里見さんの気配を感じて過ごすのはうれしい。  うれしい? 「観念して、俺様に抱かれちまえよ……裕太」  低く艶っぽい声を耳に注がれて、我に返った。 「いやいやいやいや、無理だから! おまえに抱かれるとか、ぜったい無理!!」  身をよじってオシロの肩を全力で押すと、あきれた息をかけられた。 「強情なヤツだな、おまえも。ネコになりてぇっつったくせに」 「だからそれは、本気でそうなるなんて思わなかったって言っているだろう。おまえだって、わかってないじゃないか」  不機嫌に半眼になったオシロがネコの姿になった。しっぽで俺の頬を叩いて、「つまらねぇ」とぼやきながら去っていく。  俺を抱くために、ネコに戻らずにいたのかよ。やれやれと立ち上がってホウキを握って畳を掃きながら、里見さんの血の味を思い出す。俺は里見さんの血じゃなくて、精気をもらって人間に戻っていたのか。それを毎日、三回も取られていたら、そりゃあ体調を崩すよなぁ。 「つまり。俺が欲しがらなければ、里見さんの具合は悪くならないってことか」  雑巾がけをしようとしたら、時間切れの気配がしたから二階へ上がった。オシロのせいで、掃除がいつもよりできなかった。けどまあ、里見さんの具合が悪い原因を聞けたからよしとしよう。  俺が人間に戻らなければ、里見さんの体調は回復する。里見さんの手料理が食べられなくなるのは残念だけど、このままどんどん体調を悪くされて、倒れられたら困るし。ネコの食事だって、いまはけっこう贅沢でおいしくなっているっぽいから、食べてみたら意外といけるかもしれない。CMなんかで、素材にこだわっているとかなんとか言っているし。  今日の昼から、実践してみるか。  そう決めた俺は縁側に向かって、里見さんが帰ってくるまでまどろむことにした。    ***  昼食を作り終えた里見さんに、指を差し出される。ものすごくいい匂いがして、口を開いてからハッとして顔をそむけた。 「どうしたんですか? 泉さん」  ムッと口をつぐんで、視線を上げるとオシロがニヤニヤしていた。なんだかムカつく。 「そいつぁ、おまえの具合を気にしてんだよ。仁志」 「僕の? どういうことですか」 「おまえの顔色が悪いってんで、遠慮してんだろう。なあ、裕太」  そのとおりと答えたら、里見さんは気を使いそうだ。かといって、ほかに血を飲まない――精気を吸わない――適当な理由が思いつけない。オシロは前足を伸ばして里見さんの頬に肉球を置くと、首を伸ばして顔をぶつけた。  オシロが里見さんの唇を舐めると、毛が逆立って人の姿になっていく。逃げようとした里見さんの頭を抱えて、オシロは舌を里見さんの口の中に押し込んで――。  目の前でふたりのキスを見せつけられて、俺は身動きができなくなった。もがく里見さんを押さえつけて、オシロはたっぷりキスをすると、満足顔で唇を舐めて俺を見た。 「来いよ、裕太。俺様がおまえを人型にしてやる」 「なにを考えているんですか!」  オシロの手が俺を掴むよりさきに、里見さんが俺を抱き上げた。 「仁志の体調を気にして、こいつは精を取らねぇんだ。ネコのままだと人間の飯が食えねぇだろう? そうしたら、せっかくの飯が無駄になるじゃねぇか。だから俺が先に人型になって、こいつに精を分けてやろうってんだよ。俺様なら、こいつより少ない量でいけるからな」  ほらよこせと手のひらを動かすオシロから、里見さんは俺を隠した。 「泉さん、気にしなくても大丈夫です。僕は平気ですから、ほら」  噛んでくださいと手を出されて、俺は里見さんを見上げた。ほほえむ里見さんの顔色は青白い。首を振ると、大丈夫ですからとまた言われた。 「ちっとも大丈夫に見えねぇから、そいつは噛まねぇんだろう。ほら、おとなしく裕太をよこせ」 「いやです」 「なんで」 「それは」  言いよどんだ里見さんが俺を見つめる。里見さんの顎にオシロの指がかかって、無理やり顔を上げられた。 「おまえは遠慮をしすぎなんだよ。指を嚙ませるんじゃなく、こうやって精を分けりゃあ、ちっとばかし楽だったろう」  顔を寄せたオシロから、里見さんが首をそらした。 「なんで顔をそらすんだよ。いままで何度もしてきただろう? なあ、仁志」  オシロの唇が里見さんの頬に触れて、唇に移動する。里見さんが身をよじったすきに、オシロは俺を奪い取った。 「あっ」 「はじめから、こうしていりゃあよかったんだ」  オシロが俺に口を寄せる。里見さんの手が乱暴に俺を掴んだ。 「いけません!」 「安心しろよ。完全にネコにするってぇのは、まだ待ってやる。こいつの覚悟ができるまではな。飯を食うために、人間の姿にしてやるだけだ」 「僕がします」 「こいつが嫌がってんだから、無理だろうが」 「泉さん」  オシロと里見さんに掴まれて、俺は中途半端な格好だった。頭の中がグチャグチャで、ふたりの会話は聞こえているのに意識の上を素通りしていく。俺の意識を占めているのは、さっきのオシロと里見さんの濃厚なキスシーンだった。それに関する言葉しか、俺の脳は反応してくれない。 (なあ、オシロ) 「にゃあ」 「なんだよ、裕太」 (おまえ、人間になるときは……いままでずっと、里見さんとキスしていたのか) 「にゃ、ぁおうん、ぁお、うあーん、にゃぁう」 「泉さんは、なんて言っているんですか?」  不安そうに里見さんがオシロを見る。 「おまえが来るまでは、俺様が人型になりてぇときはそうしていたぜ」  さらりと答えられて、俺の頭は激しく揺れた。ガツンと硬いもので殴られたみたいだ。さっきの、あんなキスを里見さんはオシロとしていた。しかも、何度も――。 「なにを言っているんですか、オシロ!」 「聞かれたから、答えたまでだ。なんで怒られるのか、わかんねぇなぁ」  わかっている顔でうそぶくオシロを、里見さんがにらみつける。里見さんでも、怒ることがあるのか。じゃなくて、里見さんとオシロはあんなキスを何度もするくらいの仲だったのか。だから里見さんは、オシロが俺をネコにするのを阻止しているのかも。オシロが俺を抱くのがいやだから、俺を人間に戻す方法を見つけようとしてくれているのだとしたら。  里見さんはオシロが好き、なのか。  ゾワゾワと毛虫が這い上がってくるみたいに、不快感が尻から背中へ登ってきた。ここにいたくなくて、全力で暴れるとふたりの手が離れた。 「あっ、泉さん」  床に前足がついた勢いのまま、俺は全速力でふたりから逃げた。体に張りついている不快感を振り払いたくて、やみくもに走って庭に飛び出す。 「泉さん!」  里見さんの声が追いかけてくる。俺は庭木の中に飛び込み、塀に上がって道路に下りた。昼下がりの日差しで道は明るく、俺の気持ちにそぐわない。とにかく遠くに行きたくて、無心に足を動かして落ち着ける場所を目指した。

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