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第7話
里見さんの匂いがする。目を開けると、里見さんがいた。長いまつげが不安そうに揺れて、その奥の目は濡れたみたいに光っている。すごく、キレイだ。
「気がついたんですね」
よかったとつぶやいた里見さんの指が、俺の背に触れる。俺の体になにかがかけられていて、指は直接あたらなかった。首を持ち上げて、バスタオルにくるまれているのだと知る。
俺、どうしたんだっけ。
立ち上がろうとしても、込めた力が抜けていく。頭がクラクラして気持ちが悪い。
「ネコに慣れていねぇだけで、たいしたことはないと思ったんだがな。人間のこたぁわかんねぇから、連絡したんだよ」
オシロが俺の鼻先に顔を近づけて、フンフンと匂いを嗅いだ。
「そのために、ちょっとばかし噛みついたが、そんなに吸ってねぇよ」
なにをと問うまえに、血のことだと察しがついた。ネコの姿じゃ電話はできない。人型になるために、俺の血を吸って里見さんを呼んだんだろう。
(里見さん)
「なぁおう」
「寝ていてください」
そっと手のひらで押さえられた。里見さんの匂いに体が引き寄せられる。前足を伸ばして膝に触れると、バスタオルごと抱き上げられた。
「泉さん」
憂い顔の里見さんに、心臓のあたりがムズムズした。口を開いたけれど、なんの音もでてこなかった。呼びかけたはずなのに。
里見さんの手が顔にかかる。そっと撫でられて目を細めると、里見さんの匂いが強まった気がした。すごくおいしそうな匂いに誘われて、目を閉じたまま首を伸ばしてかぶりつく。
「いたっ」
ちいさな悲鳴の後に、細い糸みたいにスルスルと甘くてうっとりするくらい、おいしい液体が舌に触れた。前足を伸ばしてそれを捕まえて、夢中になって吸いつくと骨の芯からふんわりとあたたかくなった。ふつふつと細胞が浮き立って、ものすごく気持ちいい。意識がふわふわとして、春の日差しに包まれているみたいな気分だ。
もっともっと、それが欲しい。もっともっと、体の奥までそれに満たされたい。
「い、泉さんっ」
困惑した声に目を開けると、泉さんが床に倒れていた。じっと俺を見上げている。白い頬がほんのりと赤くなっていて、黒い瞳が艶やかで、ドキドキした。
「ん……っ」
甘いものは、もう糸のように舌の上に乗らなかった。味の名残を求めて口を動かす。ぼんやりとして、あたたかくて、うっとりとして、気持ちがよくて。
本能がなにかを目指して、腰のあたりを疼かせている。
「は、ぁ……んっ」
「泉さん」
かすれた里見さんの声に顔を上げる。火照った体が出口を求めてわなないている。もっともっと里見さんの匂いが欲しくて、しっぽを揺らして首に鼻をすりつけた。
「っ、泉さん」
首筋を舐めると、すごくおいしかった。そのまま続けていると、仰向けに寝かされた。
「泉さん」
かすれた里見さんの声に笑いかける。ゴクリと里見さんの喉仏が動いた。口を開いて、音にならない声で鳴く。
里見さん。
さっき俺が里見さんにしたように、俺の毛づくろいもしてほしい。
その願いが通じたのか、里見さんが顔を近づけてきた。だけど唇は首じゃなくて、俺の口にかぶさった。
「んっ、ん」
ついばまれて、呼気が触れて、舌が入ってくると股間がキリキリと痛んだ。だけど不快なものじゃない。気持ちのいい痛みがあるなんて、知らなかった。
腕を伸ばして、里見さんの頭を抱える。唾液が湧きだして、里見さんの舌にかき混ぜられて、里見さんの唾液と混ざったそれを飲み下すと腰が震えた。
「んっ、ふ……っ、ふぁ、むっ、んうっ」
もっと、もっと欲しい。だから俺も舌を伸ばして、里見さんの舌に絡めて、舌を吸って、もっと奥に里見さんの舌が入るように首の角度を曲げたりしながら、じゃれあった。
「はっ、はふっ……ぅう、んっ、ん、ふ、ぅう……は、むぅ、んっ、ふぅう」
体中が疼いて、その中でもとくに股間がキリキリと追い詰められて、あとすこしで決壊するとわかったら、そこまで行き着きたくなった。
「は、ぁふ……んぅうっ、う……はふっ、んっ、む、ううっ」
わかってくれたらしい里見さんは、たっぷりと俺の口内を舌で撫でまわしてくれた。潤んだ瞳の奥に、鋭く揺れる炎が見えた。柔和でおだやかな里見さんの、激しい部分がそこにある。それが俺に向けられているのが、とてつもなくうれしい。
そう感じた瞬間、俺の腰がおおきく跳ねた。
「んぅうっ」
意識が真っ白になって、なにもかもわからなくなって、開放感に包まれる。脱力して、ほうっと息を吐き出すと、苦笑交じりの里見さんに「大丈夫ですか?」と問われた。
「どこか、具合がおかしかったり、気持ちが悪かったりしませんか」
気だるくて、すぐに声がだせなかったから首を振った。
「……なんか、すごくいい気分です」
間の抜けた声が出た。里見さんはちいさくうなずいて、俺の上から離れてしまった。
「ちょっと、買い物に行ってきます。晩御飯の……その、なにも買ってきていませんから。それと、区民センターに連絡もしておかなければならないので。無理をしないで、ゆっくりしていてくださいね。――オシロ。あとは、頼みますよ」
「おうよ」
そそくさと去っていく里見さんの背中を見送る。もっとそばにいてほしいと、視線に込めてながめても里見さんは振り向かなかった。靴を履いて、出かけていく音がする。遠ざかる足音が聞こえなくなって、天井に向けて息を吐いて目を閉じたら、オシロの声が耳元でした。
「ずいぶんと、相性がいいみてぇだな」
「なにが」
「仁志の精をもらって、最高に気持ちよくなっちまっていただろう」
なにを言っているんだコイツは。精をもらって気持ちよくって……気持ち、よく?
はたと気づいて飛び起きて、自分の股間を確認する。しんなりとしているそこの周辺に、射精をした証拠があった。
「う、ぁ」
満面が熱くなる。俺、里見さんとディープキスして、それでイッてしまったのか! なんで、そんなことになってしまったんだ。すごくいい匂いがして、それに惹かれて……そうだ。あれは里見さんの血の味だった。フラフラしながら噛みついて、血を吸って、その後で里見さんに擦りついて、キスされて、俺からもキスを返して。それで、それで――。
「うあぁああ」
両腕で頭を抱えると、血の気が引いた。あんなことをしでかして、里見さんはなんて思っただろう。そそくさと出て行ったのは、顔を合わせづらいからに決まっている。俺がもう大丈夫だってわかったから、里見さんは買い物を理由に家から出て行ったんだ。
「なんてことしてんだ、俺は」
「赤くなったり青くなったり、せわしないヤツだなぁ」
のんびりしているオシロをにらみつける。
「なんだよ」
「どういうことなんだよ、これは。なんで吸血鬼みたいなことになってんだ」
「吸血鬼だぁ? 血をすする妖怪と、猫又をいっしょにするんじゃねぇよ」
「違わないだろう。里見さんの血を吸ったら、気分の悪さが治ったんだぞ? つまり、そういうことだろうが」
ハンッとあきれた笑いで見下される。ムカついて手を伸ばしたら、スルリとかわされた。
「逃げるなよ」
「剣呑な顔で手を伸ばされりゃあ、逃げるに決まってんだろ。八つ当たりはカンベンだぜ」
「八つ当たりじゃないだろう。もとはと言えば、おまえのせいなんだからな」
「それを言うなら、裕太がネコになりてぇって望んだのが原因だろうが。そんなつぶやき聞かなけりゃ、俺様だって余計な力を使いはしなかったんだぜ? そうホイホイと人間をネコにできるとでも思っていたのかよ」
「ぐっ」
つぶやいたことは間違いないから、反論できなくなった。オシロが三本のしっぽをゆらめかせて、首をめぐらせる。つられて俺も周囲を見たが、なにもない。
「なんだよ」
「発情期、だなぁ」
「は?」
「だから、おまえがだよ」
くいっと鼻先で示されて、キョトンとした。
「発情期? 俺が」
そうだとオシロが首を動かす。
「おまえは仁志に惹かれてんだろうぜ。だから、発情しちまった。人間の発情とネコの発情は、なんかが違っていたんだろうな。体がうまく順応できねぇで、気分が悪くなっちまったんだろう。俺様はネコのこたぁわかるが、人間の部分はわかんねぇからな。だから仁志に連絡して、帰れっつったんだよ。発情期なら相手がいりゃあ、なだめられる」
つまり里見さんは、俺の症状が発情期だと知っていて、だからディープキスなんてしてくれたんだろうか。俺の具合を治すために。
「気持ちよかっただろう」
「それは、まあ」
答えて、ハッとする。ニヤニヤするオシロを、なんとなく殴りたくなった。
「つまり、おまえは仁志に発情したんだな。まあ、そんなこったろうとは思ったけどよ。いい傾向じゃねぇか」
「ちっともよくない。どんな顔して里見さんと会えばいいんだよ」
両手で顔をおおうと、音もなく近づいてきたオシロが膝に乗った。
「どんなもこんなも、その顔で充分だろうが。あいつが帰ってきたら、おかえりって言ってやりゃあいいだけだ。あいつはそれが、うれしいんだよ」
「うれしい?」
指の隙間からオシロを見ると、妙に重々しい雰囲気で首肯された。気を引かれて手を下ろすと、オシロは目を細めて姿勢を正す。そういう姿勢になると、とたんに威厳めいたものが漂ってくるから不思議だ。
「初音がいなくなってから、あいつはずっとひとりだったからな」
「初音って?」
膝から下りたオシロがどこかに向かう。三本のしっぽに、ついてこいと示されてバスタオルを腰に巻いて追いかけた。
オシロが入ったのは仏壇のある部屋だった。
「仁志のバァさんだよ」
オシロの視線の先に、上品な老婆の写真があった。
「ちいさいころは、そりゃあ愛らしいガキだった。年を取ってからも、キレイだったな。おとなしそうに見えて、芯が強くてガンコでな。仁志を引き取って育てたんだよ」
「里見さんの両親は?」
「生きてるぜ。いまでもどこかで、元気に過ごしていることだろうよ。年賀の手紙は届いているみてぇだから、な」
なんで、両親と離れて祖母に育てられたのか。知りたいけれど、聞いてもいいのかわからない。じっと写真を見つめていると、オシロがポツポツと語りはじめた。
「この家は代々、ネコが憑く家系なんだ。ずうっとそれでやってきた。けどなぁ、明治だとかなんだとか人間が言い出したくらいから、ちっとばかし妙なことになりはじめたんだ。科学ってぇもんがもてはやされて、妖怪なんてぇもんは目の錯覚とか、意識違いだとか、そんなふうに言われるようになっちまった。いまでは信じている人間なんて、ほんのちょっぴりしかいねぇ。――俺様と会うまでは、おまえもそのクチだったろう?」
「それは、まあ」
霊感なんてものはないから、幽霊も妖怪も、いないとまでは断言しないが、いるとも思っていなかった。オシロは口の片端だけで器用に笑うと、話を続けた。
「蒸気鉄道なんてバケモンが走って、それが電車とかいうもんに変わって、鉄の鳥が飛ぶころには獣憑きの家系だなんて、人に知られちゃいけねぇことになっちまった。憑き物筋の人間ぜんぶが、獣憑きになるわけじゃねぇ。まったくふつうの人間の場合もあるんだ。昔は獣憑きじゃないヤツは、家を継げないできそこないだったが、いまじゃあ獣憑きのほうが問題になっちまった。――初音は猫憑きの力があったんだが、世間にそれを隠していた。俺様にも、うっとうしいくらいに猫又ってことを隠せと言ってきた」
そりゃあそうだろう。いきなりネコがしゃべったら、だれだって自分がおかしくなったってパニックになる。幻覚を見るくらいに疲れているんだって、寝込むかもしれない。
「初音は結婚をして、子どもを産んだ。三人の子どものどれにも憑き物筋の特徴はなかった。だから初音は子どもたちにも、自分のことは話さなかった。秘密ってぇのは、知っている人間がすくなければすくないほうがいい。ガキのころに説明しちまったら、うっかり外でしゃべるだろう。そうなったら、変人扱いされちまう。大人になって告白したって、頭がおかしいと思われて終わりだからな」
おだやかな笑みを浮かべる遺影をながめながら、どんな気持ちで過ごしていたのか想像してみる。夫にも子どもにも、ひみつにして生活をするなんて、窮屈そうだ。オシロは初音さんの子どものころを知っている。つまり、ネコにしては長寿すぎる。だけどこの家にずっといた。オシロの正体を隠して、それでもともに過ごすために、どんなに頭を悩ませたのか。
考えても考えても、ちっとも想像がつかなかった。
「俺様と仁志が会ったのは、あいつが生まれてしばらくしてからだ。孫を見せに来たっつって、連れてこられた。ひと目で猫憑きだってわかったぜ。初音もそれに気がついた。だけど、どうにもしようがねぇ。憑き物筋ってことを、子どもにも言っていなかったんだからな。説明したって、ボケたか妙な妄想に憑りつかれたかって思われるのがオチだ。初音は心配した。そんで、心配はそのまんま形になって現れた」
吐息をこぼしたオシロが、なつかしい目で遺影を見上げる。心の中で初音さんに話しかけているんだろう。その時の苦労を思い出して、いろいろと。
話の先が気になりつつも、邪魔しちゃいけないと黙っていた。しばらくして、オシロはうつむいて口を開いた。
「仁志の周囲に、ネコが集まるようになっちまった。はじめは、そういうこともあるだろうってぇ偶然の範囲だった。けどな、限度ってもんがある。どんなネコにも好かれて、なかには仁志に土産を持っていくヤツもいた。なんで自分がネコに好かれるのか、仁志はさっぱりわからねぇ。土産は困るってネコに話しかけたって、人間の基準と俺様たちの基準は違うから、通じるはずもねぇ。俺様たちは、したいことをしたいようにする。もちろん、なわばりとかいろいろな決まりは守るぜ? けどな、それは人間のものじゃねぇ」
わかるだろうと視線で同意を求められた。うなずきながらも心の中で、それがわかっているんなら俺を勝手にネコにするなよと文句を言った。
「具体的に、どんなことがあったのかは知らねぇんだ。言いたがらないもんを、無理に聞き出すわけにもいかねぇだろう? けどな、あいつがこの家に来たときに、相当なことがあったってこたぁ察せられた。まだちっせぇガキがよぉ、思いつめた真剣な顔で初音に言ったんだ。このままじゃ、親がおかしくなっちまうから置いてくれって」
里見さんの、どこかさみしげな笑顔が脳裏に浮かんだ。あれは、なにかをあきらめて、すべてに遠慮をして生きてきた結果なのかもしれない。そう思うと、冷たいものがみぞおちのあたりにわだかまって、いますぐに里見さんを抱きしめたくなった。
「初音はすぐに仁志を家に上げて、親に電話をした。漏れ聞こえたのは、お祓いがどうのとかなんだとか、そんな話だ。ネコに異様に好かれる仁志は、呪われているんじゃねぇか。なぁんてことを、考えたんだろうなぁ。仁志は部屋の隅で、じっとおとなしく座っていた。俺様が近づくと、ちょっとだけ笑った。子どもっつうより、年寄の笑顔だったな」
重い言葉が畳の隙間に吸い込まれていく。
「それから仁志は、初音から自分がなんなのかを教わった。そんでネコたちと意思疎通をする方法を覚えた。会話ができるってほどじゃねぇが、どう言えばネコが納得をするか。どんなふうに力を使えば、ネコたちを従わせられるかを身に着けた。未熟な間は、猫又の俺様が出先で守ってやった。学校に初音がついていくわけには、いかねぇからな」
ネコなら学校の近くでウロウロしていても、不審がられない。オシロは里見さんが力の使い方をマスターするまで、ずっと影で守っていたのか。なんか、ちょっとうらやましくなったのは、なぜだろう。
「まあ、そういうわけで。仁志は初音以外の人間とは、あんまり深くかかわらねぇようになっちまったんだ」
「どうして。力の使い方を覚えたんなら、大丈夫なんじゃないのか。初音さんはそれで、結婚をして子どもを産んだんだろう」
「そうなんだけどな。ガキのころの衝撃が強すぎたんじゃねぇか? そんときの恐怖かなんかが、仁志を用心深くさせちまっているんだろうぜ」
「そんな」
柔和に俺を受け入れてくれた里見さんが、人を避けているなんて信じられない。だけど、たしかに里見さんには仕事のほかで接する人はいなかった。二週間もあれば、一回くらいは友人からの連絡があってもおかしくはない。だけど、そんなものはなかった。出かけるのも買い物か、区民センターでの教室くらいで、だれかと会ってくるなんて聞いたことがない。だからといって、人にきらわれているとか、無理に避けているなんて感じはなかった。区民センターからの電話や、教室に通ってくる子どもたち、その親ともにこやかに接していて、どちらかというと人づき合いがうまい人という印象を持っていた。
だから、よけいにオシロの言葉がせつなく響いた。
「そんな仁志が、おまえに興味を持ったんだ。はじめはベランダの視線だったんだろうがな。出かけたり、帰ったりするときにおまえを見かけると、なんかちょっとうれしそうな顔をするようになったんだよ。おそらく、おまえに自分とおなじ、資質みてぇなもんを感じたんだろうな」
「資質って、なんだよ」
「獣憑きの資質だよ」
「はぁ?」
「俺様の術をあっさりと受け入れちまったのが、その証拠だ。あるいは別の資質なのかもしんねぇが、とにかく憑き物に好かれやすい体質ではあるってこったな」
「そんなもの、意識したことなんてないぞ。霊感とか、ちっともないし。奇妙な体験だって、したことないし」
「そんなこたぁ、知らねぇよ。俺様は自分の見立てを言っているだけだからな。まあ、ほかに理由があるのかもしんねぇが、仁志がおまえに興味を持っているってぇのは間違いねぇ。俺様の知る限り、はじめての相手だな」
長話をしちまったぜと、オシロはヒゲをつくろいはじめた。こいつなりの、照れ隠しなのかもしれない。
「だから、どんな顔でもいいんだよ。合わせる顔なんざぁ、な。おかえりって言ってやりゃあ、それでいいんだ」
「もしかして」
俺はオシロをまじまじと見つめた。
「里見さんのためを思って、俺をネコにしようと考えたのか?」
そうすれば、俺は里見さんのそばにいるから。
「俺様も、退屈していたしな」
ふいっと顔をそむけて、オシロは出ていった。
「おかえり、か」
そう迎えられたのは、たしか正月に実家に帰ったときだった。里見さんは、いつから「おかえり」を聞いていないんだろう。
手のひらを見つめて、握ったり開いたりしながらつぶやく。
「人間の姿のままじゃなきゃ、おかえりって言えないじゃないか」
ネコになった俺の言葉は、里見さんには通じないのだから。
ほほえむ初音さんの遺影を見つめる。
ネコの姿になってしまうまえに、里見さんが帰ってきますようにと仏壇に手を合わせた。
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