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第6話

 食後のお茶をたのしんでいると、時計を確認した里見さんが腰を上げた。俺も立ち上がってシンクに食器を運ぶ。 「それでは、すみませんが」  遠慮がちな笑みを浮かべる里見さんにうなずいて、カバンを手に玄関に向かう里見さんの後を、人型のオシロといっしょに追いかける。 「では。いってきます」 「いってらっしゃい」 「今日の土産は鮭がいい」  俺とオシロに、はにかみながらまぶたを軽く伏せて里見さんは出かけていく。今日は区民センターで習字の講義だ。この家で教室をするだけでなく、外にも教えに行くと聞いてから、俺は居候だしと家事を請け負うことに決めた。はじめは遠慮をされたけど、なにもしないで過ごすのはストレスになるから、役目を与えてほしいと頼めば了承された。  台所に戻って食器を洗う俺の背後で、人型のオシロはのんきにあくびをしながらイスに座る。 「なあ、オシロ。おまえはいつも、里見さんに血をもらって、人型で飯を食ってんのか?」 「いつもってぇわけじゃねぇさ。ちかごろのネコのエサは、捨てたもんじゃねぇからな。だが、おまえが人間の飯を食うってんなら、俺様もおなじもんを食いたくなるだろう」 「そういうもんか?」 「そういうもんだ」  案外、俗っぽいんだなと言いかけてやめる。妖怪といったって、もともとは普通のネコなんだから、俗っぽいところがあっても不思議はないよな。  食器を洗い終えて、次は掃除にとりかかる。俺が人間の姿でいられる時間は限られているから、さっさと済ませないと。  里見さんが出かけているのに、人の気配がするのは不審だ。だから音のする掃除機はかけられない。ホウキで畳を掃いて、硬く絞った雑巾で目に沿って拭いていく。こんなふうに畳を掃除するなんて知らなかった。  俺が掃除している後を、オシロは手伝うでもなくついてくる。ちょっとは手伝ってくれてもいいのにと、前に文句を言ったら鼻先で笑われた。 「おまえは居候かもしれねぇが、俺様はこの家の主みてぇなもんだからな。働く必要なんざ、ねぇんだよ」  食い下がるほど頼みたかったってわけじゃないから、そうかと受け流した。ネコは家に憑くとかなんとか聞いたことがあるから、そういうことなんだろうなと勝手に納得した。ましてや妖怪なんだから、その傾向は強いのかもしれない。  拭き掃除の途中で、体がほんのりたわんできた。ネコに戻る兆候だ。  いそいで雑巾を片づけて二階へ上がる。奥の部屋に入ったところでネコの姿になった。抜け殻になった服から這い出て、一階へ戻るとオシロもネコの姿になっていた。 「わざわざ、ご苦労なこったな」 (なにが) 「二階に上がるなんざ、めんどうだろうが」 (脱ぎ捨てた服がそのへんに転がっているのが、いやなんだよ) 「なんで」 (なんでって、人ん家だからだろ)  自分の家なら、そのへんに脱ぎ捨てたものがあっても気にしなかった。だけどここは、里見さんの家だ。里見さんが帰ってくるまで、脱ぎ捨てた服をそのままにするのは気が引ける。かといって、ネコの姿で服を片づけるのは大変だ。だから二階の奥の、俺の着替えを置かせてもらっている部屋でネコに戻ることに決めていた。――って、ネコに戻るってなんだよ。俺はもともと人間だろう。 「人の家……なぁ」  もの言いたげな流し目をくらった。 (なんだよ。俺の家じゃないんだから、人の家だろう)  オシロの家だと言いたいのか。 「おまえも、ここの住人になっちまえばいいじゃねぇか」  天気の話をするくらい気楽な声音に、俺はすぐに返事ができなかった。頭の隅に、オシロもさみしかったんだと言った里見さんの姿がある。里見さんの本心の半分くらいは、俺をこのままオシロの仲間にしたいんじゃないかと疑っている。だってもう二週間が経とうとしているのに、里見さんはちっとも俺を元に戻す方法を探していない。俺の知らないところで、なにかしているのかもしれないけれど。 「おまえが来てから、仁志はなんかたのしそうだしな」  オシロがふいっと背を向けて縁側へ向かう。俺もその後に続いた。ゆったりとした日差しが縁側に注いでいる。だけど、ちょっと肌寒い。それでも庭先は、ちょっとしたネコだまりになっていた。オシロは定位置の座布団に乗って、俺はその近くにうずくまった。疲れているわけでも、寝不足なわけでもないのに、自然とあくびが出てしまった。 「おまえがいると、仁志の表情が明るい。あいつはずっと、ひとりだったからな」  ぼそりとオシロが言う。俺はうずくまったまま、目を閉じて返事した。 (里見さんと、おなじようなことを言うんだな) 「なんでぇ、そりゃあ」 (里見さんも、そんなことを言っていたんだよ)  ちょっとの間があってから、オシロはカラカラと笑った。ネコがそんな笑い方をするわけはないから、そういう雰囲気が伝わってきたと表現するのが正解かもしれない。 「あの小僧も、生意気なことを言うようになったもんだ」  機嫌よく言ったオシロに、前足でつつかれる。 「おまえは、仁志が好きか?」 (へっ?!)  唐突な質問に首を上げて目をまるくすれば、問いを繰り返された。 (まあ……いい人だよな。雰囲気もやさしいし、気遣いもできるし、料理はうまいし) 「そうだな。その上、あいつはネコにも好かれている」 (ネコが憑く家系なんだから、それが普通なんじゃないのか?) 「猫憑きの家系だからって、かならずネコに好かれるってもんでもねぇんだよ」  ネコ好きがネコに好かれるとは限らない、みたいなものか。 「なあ、裕太。おまえこのまま、この家に居着いちまえよ」 (なんで) 「仁志はきらいじゃねぇんだろ? 仁志もおまえが気に入っているみたいだしな。俺様もこいつらも、おまえを受け入れている。なにより、ネコになりてぇっつってんだから、文句はねぇだろ。完全にネコになっちまうってぇのに抵抗があるんなら、半獣のままでいりゃあいい。あっちの住まいを引き払っちまえよ。人別帳があったって、行方不明者はべつに珍しくもねぇだろう? おまえのことなんざ、すぐに忘れ去られるさ」  そういうわけにはいかないと、反論の言葉が喉にひっかかった。オシロの言葉が胸に深く突き刺さっている。  俺のことなんて、すぐに忘れ去られる。  そうかもしれない。きっとそうだ。だから俺は、過不足のない平坦で平穏な日々に、奇妙な焦燥を抱えていたのかもしれない。だけどそれは、俺自身が招いた結果だ。必要とされたいのなら、恋人を作ったり家庭を持ったりすればいい。それは互いに「あなたがいい」と、大勢いる人間の中から選び、選ばれた関係だからだ。 (俺は……)  そんな気がすこしも湧かないのに、それでも俺を必要とされたくて。だけどその矛盾に気がついていて。だから他人のことなんて気にしていない、自儘に過ごしているとしか見えないネコにあこがれたのか。それぞれが干渉しすぎず、だけど無視をしているわけでもない距離感で過ごせるネコになりたいなんて、ぼんやりと考えていたのかもしれない。  この場にいるのが恥ずかしく、申し訳ない気持ちになって起き上がる。 「なあ、裕太」  オシロの声がしっぽにかかる。 「ここには、おまえにいてもらいてぇってヤツがいるんだ。このまま過ごしているほうが、気楽だし居心地もいいんじゃねぇか」  それを無視して、二階に上がった。  オシロの言葉が蠱惑的に心に響く。――俺にいてもらいたい人がいる。そのひと言が、こんなに気持ちを揺さぶるなんて。  ホッと息を吐き出して、俺は寝室に入った。きちんと畳まれている布団に近づけば、ふわりと里見さんの匂いがした。飛び乗ってうずくまる。里見さんのぬくもりは残っていないけれど、縁側よりもあたたかく感じられて目を閉じた。 ――おまえのことなんざ、すぐに忘れ去られるさ。  そうかもしれない。オシロの言うとおり、俺のことなんて、あっという間に忘れ去られそうだ。両親や兄貴なんかは、行方不明になったと聞いて心配をするだろう。だけど、オシロの言っていることは、そういう種類のものじゃない。いなければ困るとか、傍にいてほしいとか、そういうことを言っている。  親父やお袋は、ちょっと放任主義なところがあるけれど、俺を無視しているわけじゃない。世間並みの親程度には、俺がいなくなったら心配をするはずだ。兄貴だって、兄弟仲がめちゃくちゃいいってほどじゃないけど、悪くもないから俺の行方は気にするだろう。だけど、傍にいてほしいってわけじゃない。とりあえず元気に過ごしていれば、それでいい。そんな関係だ。  仕事も、可もなく不可もなく。優秀だとは言わないけれど、役立たずなわけでもない。だれかが休めばカバーができる体制が整っているから、俺は有給をすぐにもらえた。繁忙期じゃなかったって理由もあるけど、俺がひとりいなくなっても、仕事はまわる。専門職ってわけじゃないから、俺じゃなきゃだめなんてことはない。まあでも、世の中なんてそんなもんだ。  そう思っているくせに、俺はなんでオシロの言葉に動揺をしているんだろう。ネコになりたいって望んだ時点で、無意識に「俺じゃなきゃ」って言われる場所を求めていたのか。  情けない。  女々しい。  ばかばかしい。  不満がないから、そこそこ満足。べつになにも困っていないが、充足をしているわけでもない。これといってしたいこととかあるわけじゃないから、まったくもって平穏な日々。  彼女や妻とケンカしただのなんだのと文句を言っているヤツに、それも仲がいいからだろうって笑うヤツがいた。グチという名のノロケなんだって。だから、ちょっとうらやましい。そんなふうにそいつは言って、そういうものかと聞き流した。大変だなぁと思いこそすれ、うらやましいとは感じていない。だから俺には彼女ができないんだと返された。  里見さんは、俺が居着いても迷惑じゃないのか。  オシロの言うように、俺がいてうれしがってくれているのか。  送り出したときの、はにかむ里見さんがまぶたに浮かぶ。ひかえめな微笑からにじみ出るやさしさに、ここにいてもいいんだと言われた気がした。  心の奥がうずいて、ほんのりと熱を持ってむずがゆくなった。  布団に顔を押しつけると、体中が里見さんの匂いに満たされる。ドッドッと鼓動は激しくなるのに、心地よくて落ち着く気持ちはなんだろう。困ったような里見さんの笑顔を思い出すと、心臓がキュウッと締めつけられた。  なんだ、これ。  グラグラと意識が揺れるのに、それをもっとずっと味わっていたくなった。ふわふわと体の輪郭がおぼつかなくなって、浮かんでいるような錯覚に包まれて、もっともっと里見さんの匂いが欲しくなった。  なんだかよくわからないけれど、マズい。  会社の飲み会で断れなくて、飲みつけない日本酒をあおったときに、こんな感覚におちいった。いまのところ吐き気はないけれど、酒酔いに似た感覚だから、そうなってもおかしくない。布団を汚すわけにはいかない。吐き気に襲われて汚しても、掃除がしやすい場所に移動しないと。  畳の上もだめだ。とにかく、どこか……ああ、そうだ。オシロに気分が悪いとうったえよう。オシロは里見さんと話ができるから、いまのうちに体調不良を説明しといて、里見さんに伝言を頼んでおけば安心だ。  フラフラと部屋を出て、階段を目指す。段差がグニャグニャに見えて、体を落とすように横向きで下りていく。体から里見さんの匂いがなくなっていく。なんで里見さんの匂いが消えてしまうんだ。  見上げれば、階段はかなり高かった。いまから上って布団に戻るのは無理だ。里見さんの匂いが欲しい。里見さんの匂いの強い場所はどこだろう。布団のほかに、里見さんの匂いがする場所は。 「ん? おい、どうした」  オシロの声がした。なにかオシロに伝える用事があった気がする。だけど思い出せない。目がまわる。里見さんはどこだ……里見さんに会いたい……里見さんの匂いが、視線が、ぬくもりが…………里見さんが、欲しい。 「おい、裕太。おい」  オシロの声がウワンウワンとぼやけて広がる。邪魔をしないでくれ。俺はいま、里見さんを探しているんだ。里見さん、里見さん、里見さん、里見さん、里見さん……ああ、里見さん……俺を…………――――。

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