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第5話

 子どもたちのにぎやかな声が聞こえてきて、はじまったんだなと片耳を揺らした。足音が集まって、静かになる。二階の窓際でうずくまって、その音を感じながらうつらうつらしていたら、オシロがそろっとやってきた。 「こんなところで寝てねぇで、縁側に来りゃあどうだ。天気がいいんだからよぉ。ほかのヤツ等との顔つなぎもできるし、なによりここよりもずっと気持ちがいいぜ」  誘い文句に片目を開けて、窓から空を見た。空は高く澄んでいるけれど、どこかちょっとよそよそしい。秋らしい空から降ってくる陽光を浴びた縁側は、きっと最高に心地がいいだろう。だけど、オシロの誘いに乗る気にはなれなかった。  気のない顔で目を閉じると、オシロに鼻先でつつかれた。 「せっかくネコになったんだから、満喫しちゃあどうだ。縁側をいつもながめていたのも、そういうことがしたかったからじゃねぇのかよ」 (それは……まあ、そうだけどな)  首を持ち上げると、オシロが得意顔になった。 「そんなら、それを味わえばいいじゃねぇか。そんでネコのよさを体感して、きっちりネコになっちまえばいいんだよ」 (そんな気分になれないっての)  寝返りを打つと、オシロが前にまわって顔をのぞいてきた。 「いきなりネコになって、とまどってんだろう。そんなことすら、どうでもよくなっちまうぜ。縁側の日向ぼっこは」  そうかもしれない。きっと、なにもかもどうでもよくなって、ただただ気持ちがよくって、のんびりとした心地で過ごせるんだろう。だけど、俺は本気でネコになりたかったわけじゃない。 (うらやんではいたけどさ。まさか本気でネコになるなんて、想像もしてなかったんだよ) 「世の中ってぇのは、そんなもんだ。俺様だって、猫又になれるって思っていたわけじゃねぇ。気がついたら、こうなっていたのさ」  ゆらりと三本のしっぽを見せられて、里見さんの「オシロもさみしかった」という声が、耳奥によみがえった。 (なあ、オシロ) 「にゃぁおう」  なんで俺の声は、鳴き声にしかならないのか不思議だ。 「なんだよ」  おまえはいつから、猫又として生きているんだ。そう言いかけて、なんとなくためらって、別のことを音にした。 (俺はネコじゃない) 「ネコだろうが。すくなくとも、いまはな。どっからどう見たって、立派なネコだ」  鼻を鳴らされて、ムッとする。 (半獣とかなんか、そんなふうに言っていなかったか? そんな俺が出ていったら、野良ネコたちに警戒されるだろう) 「そんなことを気にしていたのか。問題ねぇよ。んなことを気にするヤツは、はじめっからここの家にゃあ、寄りつきもしねぇさ。なんせ、猫又の俺様がいるんだからな」  グッと胸をそらしたオシロは、だから来いよとつけ足した。こいつはこいつなりに、俺に気を使っているのかもしれない。おっくうそうに起き上がると、オシロはしっぽをひとつにして、悠々と部屋の外に向かった。しっぽを見ながら、それに続く。ふと、子どもたちはネコの姿を見たらさわぐんじゃないかと心配になった。 「どうした」  ひるんだ気配を察したオシロが振り向く。 (子どもたちがいて、大丈夫なのか)  オシロはちょっと首を持ち上げて、俺から目を離した。 「大丈夫でなけりゃあ、縁側に誘ったりしねぇよ」  ちゃんとそのあたりも考えてくれていたのか。案外、いいヤツなのかもしれないと思いながら、オシロの後を追いかけて縁側に出ると、数匹の野良らしいネコがのんびりと過ごしていた。すぐ横で習字教室が開かれていて、子どもが大勢いるのに気にしているふうもない。みんな、のんきな顔で好きに寝転んだり毛づくろいをしたりしている。 「子どもたちよりゃあ、大人の教室のほうがやっかいなんだよ。なんだかんだと、かまいたがるからな」 (子どものほうが、好奇心旺盛で触ってこようとしそうだけどな) 「手習い所の先生が、うまいこと言って納得させりゃあ、子どもは無理に触ろうとはしねぇんだ。いやがることは、しちゃいけませんってやつだな。大人のほうが、ちょっとぐれぇいいだろう、とか、自分だったら大丈夫だとか言って、かまってこようとするんだよ」  そういうものなのか。そうかもしれない。余計なおせっかいをしてくるのは、大人がほとんどだ。まあ、子どもは余計なおせっかいをしようとしたって、できることが限られているから、してこないだけかもしれないけれど。  とにかく、ほかのネコたちが気にしている様子もないので、俺も日向ぼっこの仲間に入れてもらうことにした。 (というか、俺が途中で人間の姿になるなんてことは、ないよな)  はじめに確認をしておけばよかった。可能性をすっかり忘れていた自分に不安になる。 「人間の精を受けなきゃあ、人の姿にゃならねぇよ。安心しな」  集まっているネコたちは、オシロの登場にそれぞれがちょっとだけ反応をして、俺に意識を向けてきた。といっても、視線を向けてくるなんてあからさまなものじゃない。なんとなく意識をされているなと感じる程度の、微弱な態度だ。 「こいつぁ、新入りの裕太ってヤツだ。俺の子分みてぇなもんだな。ほら、ベランダからながめていた人間がいただろう? そいつがネコになりてぇっつうから、ネコにしてやった。まあ、よろしく頼むぜ」  どんな説明だよとツッコミを入れたくなったが、ここで口論をしてもしかたがない。どうもと軽く頭を下げれば、どのネコも俺から意識を外してしまった。言葉にすると「ふうん。あ、そう」って雰囲気で。  人間からネコになったって聞いたんだから、もうちょっと興味を持ってもよさそうなのに、俺が誰かを知ったらもう、どうでもいいって感じだ。クールというか、無関心というか。それがネコの世界なのか? 仮にも俺は、おまえたちをベランダから、ほぼ毎晩ながめていた人間で、里見さんはたしか俺の視線をおまえたちが気にしていたって話していたはずだけど。 「受け入れられたな」  ニヤニヤとオシロに言われて、キョトンとする。受け入れられたって、どういうことだ。 「人間はどうか知らねぇけどな。おまえがいたって気にしねぇで、好きにするってぇことは、そういうことなんだよ。受け入れられねぇ相手にはケンカをふっかけるか、警戒をして匂いを嗅いだり観察したりするからよぉ」  ネコの行動を思い出せと言われた気がして、いままで見たことのある野良ネコの態度やテレビで観たネコの映像を記憶の中から探り出す。はたとこちらに気づいて警戒をし、ちょっと近づいただけでビャッと逃げ出した野良ネコ。あたらしいオモチャを与えられて、なんだこれはと前足でつついては飛びすさり、じわりじわりと様子をうかがっていた飼いネコの姿が頭に浮かぶ。  それらと比べれば、たしかにこの無視に近い態度は受け入れられていると取れなくもない。だけど、人間からすれば、もうちょっと新入りに興味を持ってもらいたいところではあるなぁ。  まあいいやと、空を見上げてマンションに首をめぐらす。あそこからながめていた光景のなかに、ネコの姿になって参加しているなんて、いまだに信じられない。 「なに、ぼんやりとしてんだよ。あの場所が恋しいのか? 未練がましいやつだなぁ」 (うるさいな。どこをどんなふうにながめていようと、俺の勝手だろ)  にゃあにゃあ反論すると、子どもたちの視線を感じた。子ども特有のまるみのある幼い声で「せんせー、ネコちゃんがおしゃべりしてるぅ」と報告される。そうですねぇと、里見さんのおっとりした声に、神経がふんわりとほぐされた。子どもたちを相手にしてるからか、里見さんの声はいつもよりゆったりしていた。  というか、なんでオシロの声はちゃんと人間の声で聞こえて、しかも子どもたちには聞こえていないんだ。俺は「にゃあにゃあ」になるのに。妖怪とただのネコ――といっても、もとは人間で、たまに人間になれるから、ただの、ではないけれど――の違いなのか。 「猫又になりてぇんなら、協力してやるぜ」  俺の考えを察したのか、オシロが鼻先でつついてくる。 「ネコになりたかったんだろう? 普通のネコをすっ飛ばして、猫又になれる機会なんて、そうそうねぇぞ。だから、俺様におとなしく抱かれろよ」 (本気で、ネコになりたかったわけじゃない)  ほう? と不思議そうにオシロが片目だけ細くした。 「じゃあ、なんでネコになりてぇって言ったんだ」 (それは……)  口をつぐんでうなだれる。本当にネコになりたかったわけじゃない。だけど、ここで過ごすネコたちがうらやましかった。これといった不満があったわけじゃない。職場はいわゆるホワイト企業で、めちゃくちゃ人間関係がいいというわけではないけれど、悪くもない。つかず離れず、大人の距離感が取れていて、不用意にプライベートに入り込まれることもない。  彼女はいないけれど、結婚をしたい願望が強いわけじゃないから問題ない。結婚していないからといって、紹介してやろうかなんて世話を焼かれることもない。彼女や妻、子どもの話をしている同僚や先輩を見たって、幸せそうだなと思うだけでうらやみはしない。  両親は健在で、引き継ぐほどのものといったら先祖代々の墓と両親の面倒ぐらいだが、結婚した兄貴がそれをすべて引き受けてくれている。だからなのか、内心はどうであれ親から結婚しろなんて言われていないし、兄貴からも好きにすればいいと気にされていない。よくもわるくも放置気味な、だけど家族としての縁はきっちりつながっている悠々自適な環境だ。  そのどこに不満があるというのか。  俺自身でさえ、そう考えている。なんとも幸福で、人間の中ではネコみたいに自由な人生じゃないか。それなのに、縁側のネコにあこがれた理由はなんだ。心のどこか奥底に、しんしんと暗いものが降り積もっている。まったくもって意味不明だ。不足はないのに、満ちてもいない。いろいろと苦労をしている人からすれば、贅沢だと言われかねない。  強いて言えば、上を見ればきりがないし、下を見てもきりがないというたぐいのものかもしれない。  わからない。  だけどとにかく、俺はここのネコたちをうらやんで、あこがれて、仲間に入りたいと半ば本気で、かなわないものと思い極めながら「ネコになりたい」とつぶやいていた。  オシロはじっと、俺がなにか言うのを待っている。真剣でも、からかうでもなく、ただただ返事を待っている。あたりまえの顔をして、俺がなにか言うのをじっと見ている。  ふいに胸の奥が苦しくなって、俺はオシロから顔をそむけた。オシロは気にした風もなく、その場にうずくまって、あくびをひとつ。そのまま目を閉じてしまった。  もうちょっと気にしろよ、なんて言える立場じゃない。だけど言いたくなってしまった。なんだかどうでもよくなって、俺もゴロリと横になる。空の端が茜色に染まりはじめて、だんだん藍色に変わっていく。秋の空は暮れるのもはやい。  教室には電気がつけられて、子どもたちが課題を提出して、里見さんが朱を入れて説明をしたりほめたりしている。今日はここまでと里見さんが言って、子どもたちが片づけをして、さようならとあいさつをして、なかには縁側に向かって「バイバイ」と言う子どももいて。  縁側のネコたちはそれに反応しないから、俺もそれにならって寝転がっていた。  子どもたちの足音が遠ざかっていく。しばらくして、里見さんが戻ってきた。 「そろそろ、夕食の準備をはじめますから」  首をめぐらせると、里見さんがほほえんでいた。起き上がって「にゃあ」と鳴く。どうし て「はい」と言えないんだろう。里見さんには、ちゃんと人間の言葉として聞こえていてもよさそうなのに。  言葉が伝わらないって、こんなにせつないことなんだ。  俺が前足を上げると、里見さんはしゃがんで手のひらを差し出した。肉球をそこに置いて、首を伸ばして「にゃあ」と言う。里見さんと呼びかけた俺に、里見さんは「はい」と目じりを下げた。 「今夜は、キノコと秋野菜の炒め物です。きらいな物でなければいいのですが」  これといって好ききらいはない。首を振ると、よかったと里見さんは立ち上がった。 「すぐに作りますから、待っていてくださいね」  そう言って去っていく後を追うかどうか迷っている間に、里見さんの姿は台所に消えてしまった。空を見上げれば、すっかり藍色に支配されている。茜の気配はどこにもない。秋の空はつるべ落とし、なんて言葉がふいに浮かんで、いつどこでその言葉を知ったんだっけと、とくに気にもなっていないくせに考えてみた。  細い月が淡く、けれど存在をしっかりと主張して輝いている。すぅっと空気が冷えて、太陽のぬくもりはあっという間に消えてしまった。  ブルッと身を震わせて、里見さんの傍へ行こうと縁側を離れた俺のしっぽに、オシロのもの言いたげな視線が絡みついた。

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