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第11話
物音に耳が反応する。首を起こすと、部屋の中から音が聞こえた。ずっとカーテンを開けっぱなしで留守にしているから、泥棒にでも目をつけられたのか。いやでも、なにかが違う。
窓に近寄って目を凝らすと、足先が見えた。この歩き方は、里見さんだ。どうして里見さんが、この中に?
座って待っていると、ガラス戸が開かれた。しゃがんだ里見さんが、ちょっぴり泣きそうな顔でほほえんでいる。きちんと正座をした里見さんは、ためらいがちに俺に手のひらを見せた。
「家が恋しくなってしまったんですね。すみません」
どうして里見さんがあやまるのか。俺はじっと里見さんを見上げた。
「人間に戻すと言っておきながら、僕はなにもできていない。だから不安になって、はやく元に戻りたくて、戻ってしまったんですよね」
そうじゃないと言っても、俺の声は「にゃあ」にしかならない。前足を伸ばして、里見さんの手のひらに乗せた。
「帰ったら泉さんがいなくて……オシロからマンションに登って行ったと聞いて。勝手に上がり込んでしまって、すみません」
俺を迎えに来てくれたのか。胸の奥がジーンとして、里見さんの手に頭を擦りつける。里見さんはクスリと笑って、俺の喉をくすぐった。ゴロゴロと音が鳴る。
「なにもしていなかったわけじゃないんです。言い訳に聞こえるかもしれませんが……祖母の遺品を探してみたり、オシロのほかに猫又がいないか聞いてみたり、獣憑きに関する本を調べてみたりしていたんですが」
そうだったのか。ぜんぜん気がつかなかった。俺がのんきに眠っている間に、里見さんはそうやって、いろいろとしてくれていたんだな。ありがとうと伝えたくて、里見さんの膝に乗って体を擦りつける。里見さんは両手で俺をあやしながら、また「すみません」と言った。
「もうすぐ会社の休暇が終わってしまうのに。……でも、仕事に行っている間くらいは、なんとか人間の姿を保っていられる方法は見つけました」
えっ、と起き上がると、里見さんは目じりを細める。
「ちょっとめんどうくさいですが、会社の近くで僕の血を飲んで、出勤するんです。
昼休憩のときにもこっそりと会って血を飲んで……通常の退勤時間に合わせて迎えに行くので、残業の場合はそのときにまた血を飲んでいただければ、問題なく勤務できるはずです。耳としっぽは、いつもより多めに取ってくだされば、消せますから大丈夫ですよ」
そんなこと、できるわけがない! 里見さんの体はどうなるんだ。食事のたびに血というか、精気を分けてもらっているだけで顔色が悪くなってしまったのに。それなのに毎日、いまよりもっと多くもらったら、里見さんが倒れてしまう。
必死になってうったえても、俺の言葉はネコの鳴き声にしかならなくて、ものすごく歯がゆい。里見さんの精気をもらえば会話はできる。だけど、里見さんの具合が悪くなるのはいやだ。
もどかしくて、どうしていいのかわからなくて、俺は頭を里見さんの腹にグリグリと押しつけた。
「どうしたんですか、泉さん。そんなに抗議して。そんなにうまくいくわけがないって、言っているんですか?」
俺が納得していないってことは伝わっている。里見さんが俺に指を見せる。噛めとしぐさで示されて、俺はフイッと顔をそむけて家の中に入った。里見さんはガラス戸を閉じて、ついてくる。
せまいキッチンや掃除の行き届いていない部屋をめぐって、こうなる前の生活を思い出す。いまの暮らしと比べてみれば、薄い膜に包まれているみたいな、現実なのに遠い世界の出来事のように感じられた。
ああ、そうだ。
俺はその感覚がいやで、だからネコがうらやましかったんだ。不満はないのに奇妙なさみしさがあったのは、存在しているのにここにはいない感じがあったから。ぼんやりと自分の存在が頼りないと思っていて、だれともつながっていない気がしていた。それなのに、強いつながりを作ろうとしなかった。それでいいと思っていた。だけど納得をしていなかった。
そういうことか。
俺は振り返って里見さんを見上げた。ネコになって、あの家で過ごして。自分がどうしてネコにあこがれていたのかを理解した気になっていた。でも、それは納得までには至っていなかった。俺は心のどこかで、つながりを持ちたいと思える相手が欲しかったんだ。
俺は、俺が傍にいたいと思える人を求めていた。
じっと見つめていると、里見さんがしゃがんだ。
「かならず元に戻す方法を見つけます。だから、いまは僕とあの家に来てくれませんか。もうお昼です。お腹、すいたんじゃないですか? 泉さんが食べたいもの、作ります。僕が作れる範囲で、ですが」
笑顔なのに不安そうな里見さんに前足を伸ばすと、ホッとした顔で抱き上げられた。
「にゃあ」
もう、人間になんて戻らなくてもいい。里見さんの傍にいられるなら、このまま中途半端な状態でいい。オシロとの関係は気になるし、胸がざわつくけれど。それよりも里見さんに、こうして抱き上げられたり話かけてもらえたりするほうが大切だ。
「来たついでに、なにか持っていきたいものはありますか」
なにもない。里見さんがいれば、あとはなにも。――このまま、ずっとネコのままでもいいって伝えたら、里見さんはどんな顔をするだろう。オシロとのキスを遠慮して過ごさなきゃならないって、渋い顔をされるかな。
玄関に向かって、大きなカバンに入れられて、里見さんがファスナーに手をかける。
「泉さん」
思いつめた顔で、里見さんが唇を迷わせた。そこから言葉が出てくるのを待ったけど、里見さんは微笑に紛らせてそれをごまかし、「帰りましょう」とファスナーを閉めた。
カバンの中で、里見さんの「帰りましょう」を反芻する。「行きましょう」ではなく、「帰りましょう」。里見さんからすれば、帰る場所なんだから当然の言葉だけれど、俺もあそこに帰っていいんだって言われた気がしてうれしかった。
玄関の引き戸が動く音がして、カバンが置かれた。ファスナーが開いて頭を出すと、不機嫌そうなオシロがいた。
「ったく。迎えに行かなきゃ帰れねぇなんて、情けねぇな。降りられない場所に登るんじゃねぇぞ」
(降りられなくって、戻らなかったわけじゃない)
俺たちの横を通って、里見さんは「すぐにご飯を作りますね」と台所に向かった。
「人間の生活が恋しくて、戻ったってぇのかよ」
ムスッとされて首を振れば、オシロはますます機嫌を損ねた。
「じゃあ、なんでぇ? 自分の住んでいた場所に戻ったって、いまのおまえじゃなんにもできねぇだろう」
(そうだ。いまの俺じゃ、なんにもできない)
「それじゃあ、なんで戻った。仁志がどんな顔したか、見せてやりたかったぜ」
フンッと荒い鼻息をかけられる。
「あいつがあんなにうろたえたのは、初音が倒れたとき以来だよ」
目をまたたかせると、前足で額を叩かれた。
「間抜けなツラしやがって。言っただろう。仁志はおまえを気に入っているってよぉ。ちょっと前に家出をして心配かけたばっかりだってぇのに、仁志が帰ってくるまでに戻ってくるぐれぇの気は使いやがれ」
(それは、ごめん)
「ったく」
(だけど、俺がいなくなったほうが里見さんもオシロもいいんじゃないのか)
「はぁ?」
片目をすがめたオシロの声が、怒気にまみれている。ケンカ慣れした気配がただよっていて、ちょっとおじけた。
「なんで、おまえがいなくなったほうがいいなんて思ったんだよ」
(それは、だって……里見さんとオシロは想いあっているだろう)
オシロが首をかしげる。すれ違い両想いを指摘して、ふたりがはっきりと気持ちを通じ合わせるのは、気持ちとしては複雑だけれど悪いことじゃない。種族を超えた恋を応援したいわけじゃないけど、それで里見さんがしあわせになれるのならと腹を決める。
(里見さんとオシロは、あんなキスをいつもしていたんだろ。俺が来るまで、ずっと)
「精をもらった、アレか。――ははぁん」
怒気をおさめたオシロが、ニヤニヤしながら俺のまわりを歩いてジロジロとながめてくる。
(なんだよ)
「なるほどな。嫉妬で飛び出して、その次は勘違いで落ち込んで、拗ねて自分の前の住まいに行ったってぇことか」
(なっ……! か、勘違いなわけないだろう。あんなキス、好きでもない相手と……ネコはどうかしらないけど、人間はしないものなんだよ)
「それじゃあ、おまえと仁志の場合はどうなんだ。しただろう? おまえも」
(あれは、不可抗力だったんじゃないのか。俺の具合が悪くなって、だからしかたなく)
「本当に、そう思うのか」
グッと顔を寄せられて、額が重なる。無言でうなずけば、盛大なため息をつかれた。
「めんどうくせぇなぁ、人間ってぇヤツはよぉ。ひとりで勝手にゴチャゴチャゴチャゴチャ考えて、思い込んじまったらなぁんも見えなくなっちまう。前に聞いたことだって、スポーンと頭から抜けちまうんだからなぁ」
あーあー、と大げさにあきれられた。
「仁志はおまえを気に入ってんだよ。だから俺様はおまえに術をかけたんだ。前にも言っただろうが。おかえりを言ってやれって。あんときの会話、忘れちまったのか?」
(忘れては、ないけど)
「ハッ! どうだか。だったらなんで、てめぇはいねぇほうがいいなんて考えたんだよ」
(気を遣われてんのかと思ったんだよ)
「俺様が気を遣うように見えるかよ」
(見えない)
「即答かよ」
オシロが苦笑する。
(だけど、里見さんは違うだろう)
ふうんと鼻を鳴らしたオシロに、肉球で額を押される。
(なんだよ)
「けしかけたつもりが、逆の効果になっちまったってぇこったな」
(けしかけた?)
「戻る方法なんざ、俺様はとっくに教えてやってんだろうが。忘れちまったのか」
(三人くらい人間の心臓を食べればいいんだろ? そんなこと、できるわけがない)
「そっちじゃねぇよ。完全にネコになるには、俺様に抱かれりゃあいい。人間に戻りたきゃあ、仁志に抱かれりゃいい。そう言ったのを、覚えてねぇのか」
(それは)
忘れていたわけじゃない。だけど、現実味がなさすぎる。里見さんが俺を抱くなんて、ありえない。
「なんでぇ、その不満そうな顔は」
(不満なんじゃない。そんなこと、ありえないって思っただけだ)
「なんで、ありえねぇんだよ。仁志だってオスだからな。おまえを抱くぐらい、わけねぇって」
(俺だって男だし、俺のほうが里見さんより体格がいいっていうか)
「仁志が女みてぇになよっちいから、できねぇと思ったのか」
(なよっちいなんて……里見さんは、繊細でキレイだから。そういう人にはふさわしい容姿の相手じゃないとっていうか、もっと華奢で中性的な相手ならまだしも、俺は平均的な感じだし)
「つまり、自分の見てくれに自信がないってだけで、仁志に抱かれるのはやぶさかじゃねぇってこったな」
(そ、それは)
「どうなんだ。仁志に抱かれるのはカンベンってぇのか。それとも、抱かれてもいいってぇのか」
口をつぐんでうつむいた。里見さんに抱かれるなんて、あり得ないと思っていたから答えられない。
「仁志がきらいか」
首を振った。
「なら、好きか」
今度はうなずく。
「なら、まぐわっても問題ねぇか」
だいぶ間を空けてから首を縦に動かすと、「そうかい」とオシロに顔をのぞき込まれた。
「仁志の匂いに発情するぐれぇだから、そうだろうとは思っていたけどよ」
ブワッと羞恥に体中の毛が逆立った。
「そう恥ずかしがらなくてもいいだろう。正直でいいこった。もう時間がねぇんだろう? だったら、とっとと仁志に抱かれて人間に戻っちまえ」
(いいのか)
ネコになったほうがいいって、説得されるか迫られるかすると思ったのに。
「軽い気持ちでやっていけるほど、ネコ社会は甘くねぇんだよ。ほら、通訳してやるから、ついてこい」
三本のしっぽを揺らして台所に向かうオシロの背中は、老成した賢者の風格がただよっていた。
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