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第8話
十二月に入ったばかりの帰り道、早瀬に話があるからと駅前の喫茶店に連れて行かれた。
「すごい急なんだけどさ、前に言ってた旅行、今週の平日とか無理?」
「え?」
唐突すぎて初め何の事だか分からなかった。そして同好会で温泉に行く前、元々二人で行こうと言われていた事を思い出す。
「いきなりすぎんのは分かってる。俺も昨日、実家からの電話で聞いたばっか。親戚が伊豆で旅館やってんだけど、いつも予約で埋まってるすごい良い部屋が空いてんだって。せっかくだから泊まらせてくれるって言うんだよ。来週になるとクリスマスシーズン入って、もうダメなんだってさ。もっと早く言えって話だよな」
話を聞くとやっぱりその事みたいだ。
けれど今日は火曜日だから本当に急な話だ。しかも平日ならあと三日間のどこかしかない。
「た、確かに急だよね。それに、すごい良い部屋ってめっちゃ高いんじゃ……」
「ああ、それは平気。俺が冬休み旅館に手伝いに行けばタダって条件」
そんな事を簡単に言うけど、そこまで早瀬に負担をかけるわけにはいかないと困っていると
「あ、俺元々そこでバイトする気だったよ。夏休みにも手伝い行ったし」
と、俺の気持ちを察したのかにっこり微笑まれてしまう。
「そんな事よりその部屋マジでオススメなんだよ。俺、朝比奈とすげえ行きたい。ダメ?」
こんな風に言われてダメと言える訳がない。
「約束だし行くよ」
「マジで!?超嬉しい!」
……そんなに喜ぶなよ。
そんな早瀬を見て、早瀬はただ旅行が楽しみなだけなんだから浮かれすぎるなと自分に言い聞かせる。
「明日……はさすがに急すぎるから明後日、大丈夫?」
「うん」
俺は即答する。今更迷っても仕方がなかった。
そして、翌々日の木曜日の昼過ぎに、駅前で待ち合わせることに決まった。
今回は早瀬が車を出すと言う。
箱根の時は土日で父親が車を使っていたが、今回は使わないそうなので出せると言ってくれた。
──とうとう来た。
ここまで来たら腹を括って友人を演じきるしかない。きっとできる、今までずっとそうしてきたんだから。
そして快晴で当日を迎え、春木先輩と天候には因果関係がない事がはっきりした。
「今日もいい天気で、良かった」
「本当、今日だけは晴れてくれて良かった」
「なんで?」
「内緒」
早瀬は悪戯っぽく微笑んでそれ以上は口を噤 んでしまった。
今回は伊豆なので、ついこの間行った箱根を通り越す道程になる。途中までは同じなので前にも通ったなと覚えている風景もある。
だけど決定的に前回と違う点は何よりも車内が穏やかだった事だ。
あれだけ騒がしかった箱根とうってかわって今度は本当に二人だけ。
静かだし、心地は良い。でも……その分意識せずには居られなかった。
どうしても隣で運転している早瀬に神経が集中してしまう。
横顔の真剣なまなざしや、ミラーに一瞬目線をやる仕草。
運転中なら当たり前のことなのに、そういったものにいちいち心臓が二段階くらい跳ね上る。
それほど速度は出ていなかったけれど、猫が道路に飛び出してきて急ブレーキを掛けた時、とっさに腕を出して支えられ、早瀬も俺も何も言わなかったけど、心臓が壊れるかと思った。
早瀬の当たり前は心臓に悪すぎる。
春木先輩たちが暴れてくれたお陰で、早瀬を見るどころじゃなかったのには結構救われていたようだ。
少なくとも半年分は余計に心臓が労働した頃、ようやく旅館に到着した。
早瀬のお母さんの妹という女将さんのお出迎えがあった。
「秋君夏休みぶり。あら、また良い男に磨きがかかったねえ。この可愛い子のせい?遠くまで、ようこそいらっしゃいました」
女将さんは悪戯っぽく微笑んで、最後は俺の方に向かって言った。
丁寧にお辞儀をされ俺は慌てて「お世話になります」と頭を下げた。
「叔母さん、久しぶり。こっちは同じ大学の朝比奈蓮、俺の大事な子だからよろしくね」
「はいはい。丁重におもてなし致しますよ」
早瀬は鍵を受け取ると、勝手知ったるで案内は断って部屋に向かった。
「ちょっと早瀬、何で親戚の人にあんな変な事言うんだよ」
話を聞きながらひやひやしていた俺は二人になると堪らずに文句を言った。
「変なって?大事な子だけど?」
ぬけぬけと言われて思わず口籠ると
「ああ言っとけばサービスして貰えるかもしれないぜ」
そんな風に煙にまかれてしまった。
でも早瀬の案内で通された部屋を見てそんな事はどうでも良くなった。
目の前一面の海。純和風というよりは和洋折衷といったインテリアで四人でも泊まれる部屋だそうだが、それにしても間取りがすごく広い。
全て間接照明で必要なところにスタンドがいくつか置かれているのみだった。日常生活には向かないほの暗さが、却って高級感を煽っている。
それに部屋にも露天風呂が付いていた。
「うわぁ、こんなのテレビでしか見たことねー」
「もっとムードのある喜び方してくれませんかねー?」
そんな冗談を聞き流して窓からの景色に感動する。
「ここ、部屋から夕日が海に沈むところが見えるんだ。それが見せたかったんだよ」
「あ、だから晴れてて良かったのか」
「そ」
もう陽は大分傾いている。後一時間しない内に沈むだろう。
「そこに座ってて」
と指差されたのは窓際にあるリクライニングチェアーだ。ガラスのテーブルを挟み海が見えるように配置されている。
早瀬がどこから持ってきたのかワインとグラスをテーブルに置く。
「……?」
「雰囲気出るだろ、おばさんに用意して貰っといた」
「出しすぎ……口説いてるみたいじゃん」
俺は焦って、ついうっかり余計なことを口走る。
「そのつもりだけど?」
早瀬が肩を竦 めてとぼけてみせる。いい加減早瀬のこういうところは慣れたいけど無理そうだ。
夕日を浴びてワインを注ぐ早瀬の姿は妙に洗練されていて一流ホテルのソムリエみたいだった。
どこかで習ったの、と言おうとしたがまたバカにされそうなので思い留まる。
けれど、視線を感じていたのか
「今日は俺じゃなくて海見てろよ」
とすました顔で釘を刺された。
夕日が赤い。眩しく赤い夕日に相対して浮かんでいる雲が濃紫の影となって、少し怖くて不思議な景色を醸し出している。
それは見つめるとゆっくりと、瞬きをする間に大きく位置を変えていて、時間の進み方すら歪められた錯覚がする。
そして速いとも遅いとも言えない速度で夕日は海に吸い込まれるように消えて行った。
沈みきった後もどちらも言葉を発することなくただ黙っていた。今見た光景をあれこれ語るのは野暮だったし、ワインでほんの少しぼうっとなった頭で早瀬の横顔を見ているだけで良かった。
やがてそんな様子の俺を見て早瀬が一言
「あんま飲み過ぎるなよ」
とだけ言ったが、夕食の時間が来るまでは会話らしい会話もせずにゆったりとした時間を過ごした。
食事は食堂に用意されるスタイルだった。ここも全席オーシャンビューでお洒落な造りのレストランだ。
普通に泊まったら一体いくら位するのか、そんな夢のない想像をする。
こんなところで二人の食事などもちろんした事がない。ぼんやりした明かりの中で早瀬ってテーブルマナーもいいな、そんな事を考え、いつも早瀬の事を目で追ってばかりいる自分が恥ずかしくなる。
おかげで料理の味もはっきりしなかった。テーブルの上のキャンドルを見つめながら俺も大倉達の事を言えたもんじゃないなと思う。
食事を終えて部屋に戻ってくると既に布団が敷いてあった。
何気なくそれを見てどうにも違和感を感じる。しばらく見ていて理解した。
「なあ、布団て、こんなにぴったりくっつけて敷くものなの?」
「さあね、サービスじゃね?」
釈然としないが敢えて離す勇気もなくそのままにして置く。
その後、露天の大風呂もあるがどうすると聞かれて、まだワインが残っている感じがあったし、せっかくなので部屋の露天風呂に入りたいと言った。
じゃあそうしようという事になったのはいいが、風呂の方に行くと早瀬も着いてきた。
「一緒に入るの!?」
「そんくらいの広さ余裕であるだろ」
「そうじゃなくて、なんで一緒に入るの?」
「じゃあなんで一緒に入らねえの?」
これじゃあ平行線だ。そして、入らない理由を説明できない俺の負けだ。
箱根の時は別々に入ったので早瀬の身体なんてその時まで見た事がなかった。
スタイルが良いのは服の上からでも分かるが痩せすぎだと思っていた。
実際には腕にも胸にも程良く整った筋肉が覆っていて男の俺から見ても均整の取れた、見惚れてしまう姿だった……俺の方がよっぽどチビガリだ。
もっと良く見たいと思ったが、さすがに理性がそれは変態だと言っていたので盗み見る、という結果的に一番変態的な行為を取って自己嫌悪に陥 る。
さらに俺にとっては都合の悪いことに、早瀬は「熱い」といって腰にタオルを巻いただけで風呂の縁の石に腰を掛け、足だけ浸けている。
ならさっさと出れば良いものを、いつまでもその姿勢でそこに居るのだ。
俺は自分の身体を晒すのも嫌で、肩まで湯に浸かって茹で上がりそうだ。
早瀬が俺に向かって口が動かすのが見えるがよく聞こえない。
波の音のせいと言うわけでもない、その潮騒 も聞こえないのだから。
あれ、おかしくないかソレ。そう考えたのを最後に意識が途絶えた。
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