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Snuggle up 蜜鳥
嫌な予感を否定しつつ、思うようにならない身体を起こしてベッドの上でかけ直す。
今日本は何時だ?
コール音が続く間に日本との時差を考える。
電話に出た伯父は、焦燥した声で母親の危篤を告げた。
『母さんが?いつ…?』
『一人で家にいる時に倒れたんだ…入院して今は少し落ち着いているが、様子を見ながら来週頭に手術することになった…』
今は土曜の明け方。運良く午後一番の飛行機を取れても間に合うかどうか…。
『手術って、そんなに悪いんですか』
『ずっと我慢してたらしい。そっちから帰ってきて間に合うか分からないが、とにかく顔を見せに戻ってこい』
父は早くに亡くなり、一人で俺を育ててくれた母。人付き合いのうまくない俺が前の会社を辞めた時も、日本を出る時も随分心配してくれていた。そして自分の体調が悪いのに笑って送り出してくれたことを思い出した。
『タカ…大丈夫?』
いつの間にか覚えていた片言 の日本語でマックスに話しかけられ、涙があふれた。
****
職場には取り敢えず2週間の休みを貰い、飛行機で日本に帰国することにした。
黙々と荷物を詰める俺をマックスは何も言わずに見ていた。『日本に帰る』という事をどう理解をしているのだろうか。それすら聞けなかった。
航空券の手配から、職場やロッジの管理人への連絡、空港に乗って行ったあとの車の回収と当面の管理を頼んでいる内に夜が明けてきた。緯度の高いこの国では、夜は遅くに訪れ、朝は早くに明ける。今日程それが疎ましいと思ったことはない。
時間がない。
考える気力も、相手を思いやる余裕も、別れを惜しむ時間も足りなさすぎた。
そして、俺はマックスに対して多分一番ひどい選択をした。
職場への申し送り事項を書き出す手をふと止め、
『マックスの群れがまだいるなら…』
思わず日本語で呟いたら、マックスがまだ覚えかけの日本語で必死で答えた。
『群れ、いる、近くない。タカ、なぜ聞く?』
『群れに帰れ』
『タカ!俺ここにいる』
『だめだ、電気も水道も止める。ここも管理人に任せていくから、お前は帰れ!』
どこまで意味が分かったのか、マックスが強くにらみつける。その真直ぐな気持ちに怯んで目を反らしたが、追い打ちをかけるように言った。
『…ここはもうお前の家じゃない』
その言葉に息をのむのが分かった。
『俺、家いらない!待つ、帰ってこい!』
マックスが子どものように頭を大きく振って詰め寄ってきた。強い力で握られた両肩が痛い。マックスの指がギリギリと食い込み、彼の怒りと困惑が伝わってくる。
「…待つな、お前は…狼だから、仲間のところに、群れに帰れ…」
冷たい色の瞳が揺らぎ、マックスは唇を噛んが。
ダメだ、ここで絆されては。群れに返さなければ、人でも狼にもなり切れない、中途半端な存在のまま生きて行くことになる。
今思えばなんて思い上がった考えだったのだろう――。
****
家も車の管理も同僚に頼んで帰国したのに、全ては手遅れだった。
俺の到着を待たず容態の急変した母は、緊急手術を受け、その最中に亡くなった。遺体と対面しても、何を伝えればいいかわからない。
親不孝な息子でごめんなさい、連絡せずにいてごめんなさいと謝っても、もう許してくれる人はここにはいない。
葬儀は、母の希望通りごく内輪だけで行った。
夫は他界、子供も俺一人。それでも役所や銀行への届けなどの煩雑な手続きに追われ、ゆっくり悲しんでいる暇などなく、気が付くと斎場の喪主席で葬儀の説明を受けていた。
法要を行っている時、遠くで救急車両のサイレンが聞こえた。
久しぶりに日本の救急車の音を聞いていると、近所の犬が遠吠えを始める。屋内で飼われ、あまつさえ餌も下 も全て人間に見てもらっているのに、こんなサイレンが彼らに微かに残る本能を駆り立てるのか。
体格差のせいか狼のそれよりも甲高く神経質に聞こえる犬の声が鼓膜を震わせる。
それを聞いている内に自分がどこにいるのか分からなくなり、狼の遠吠えのように錯覚して胸の奥が締め付けられた。
母の死というストレスのせいなのか、遠い国に一方的に別れを告げて置いてきた負い目がそうさせるのか。鼻の奥が熱くなり視界が滲んだ。
あ、零れる。
感情が溢れ、熱い涙が頬を伝っていた。
休みは二週間あったが、簡単に帰国できない為日本にいる内に全て済ませる必要があることを会社に伝えると、二十日程ゆっくり休みそのまま別の国の支社に数か月出向するように指示が出た。就労ビザの手続きと人員配置の都合だそうだ。
預けておいた荷物は全て会社持ちで送ると言ってくれたが、どうせ大したものはないので戻るまでそのまま預かってもらう事にした。
捨ててしまっても問題ない。むしろマックスとの暮らしを思い出しそうなので見たくもなかった。
やはりマックスを帰して正解だったんだ。こんなあやふやな状態になっても彼に連絡を取る方法なんてなかった。電話も、住所も、住民登録もない人間(いや、狼とういうべきか)との関係が上手く行くはずなんかないのだ。
あれは正しい決断だったのだ。
そう自分に言い聞かせなければ良心の呵責に押しつぶされてしまいそうだった。
***
スーツケース二つを携えて電車で移動し、国境を超えた。
新しい住居を見つけるまでは会社とホテルの往復の毎日となったが、仕事と新しい国での不慣れな生活に忙殺されるのがむしろありがたい。
業務をこなしている内に数か月がたち、何事もなかったかのように戻るように辞令が下りた。
すでに季節がひとつ過ぎ去っていた。
「タカ、元気か。お母さんの事、残念だったな」
いつか釣り竿をくれたアレックスが心配そうな顔をして話しかけてきた。
近隣諸国出身の社員が多い中、アジアから来ている貴之に何かと声を掛けてくれる相手だった。
「ありがとうアレックス、もう大丈夫だ。荷物とか、車のことを任せっきりにして悪かったな。…あの、あの後ロッジには行ったか?」
「荷物の引き取りと、管理人との立ち合いで行ったが、何かあったか?」
「…ロッジの近くに、野生動物の痕跡はなかったかな?」
「動物?鹿や狼?」
狼、という言葉に心臓が跳ねた。
聞いてどうする、そこにマックスがいたとしても今更何ができる?
一人逡巡する俺に、アレックスは記憶を手繰る様に答えた。
「そうだな…何か餌付けでもしてたのか?」
「…いや、いいんだ。何でもない」
会話を終わりにしようとしたのに、話は続いた。
「そういえば、ロッジの裏に一枚セーターが落ちていてさ」
「え?」
「タカが落としたのかと思ってたけど、今から思うとあれば野犬か狼の寝床かもしれない。軒下で綺麗に丸くくぼんでいたんだ」
クローゼットの中に巣を作っていた光景がフラッシュバックし、マックスだと確信した。
数か月も帰らなかったんだ、流石にロッジにはもういないだろうが、無事群れに戻ったのだろうか?それとも、人間のままどこかに行ってしまったのか。
休みの度に、マックスと出かけた場所を回った。お気に入りの散歩コース、キノコの採れる小さな草原、山ほど毛布を担いで行って流星群を見た小高い丘(最もマックスはあまり興味を持たなかったが)。
狼の行動範囲は100km程度。その中で彼の行きそうな場所を訪れては落胆したり、そこにいた跡がないことにほっと安堵のため息をついたりしていた。
仕事が無ければマックスの事ばかり考えて、頭がおかしくなりそうだ。
そんなある日、国立公園でのフィールド調査の仕事が入ってきた。
アレックスと二人で、それぞれの車に乗って長距離を移動した。森林の多いこの国で夏の森はいよいよ深くなり、その空気の濃さに眩暈さえ起こしそうだ。
早朝から開始した一日予定のフィールド調査は、午後四時には終わっていた。
「日が落ちるまで少し時間がある。近くで釣りをしようかな。竿は余分にあるからタカもどうだ?」
「あぁ…」
曖昧に返す。
釣りは、マックスとの思い出が強すぎて辛いのだ。
「いや、俺はいいや」
「そうか、余分に釣れたら分けてやるよ」
器用にルアーを投げるアレックスを置いて、川沿いに少し歩く事にした。
自然の中は都心と違う音で満たされている。水が岩に当たる音、草が擦れる音、鳥や獣の気配すら音になって耳に流れ込んでくる。
遠くで咆哮が聞こえた。
細く、遠くまで届けと喉を伸ばす姿が見えるかのような、真直ぐな遠吠えだった。
どくん、と心臓が強く脈を打ち、胸の奥が切なく痺れた。
あれは狼だ。でもここは俺の家から200km以上離れている。マックスが移動する距離ではない。
「アレーックス、俺は少し森の中を見てくる!終わったら先に帰ってくれて構わない」
気付いたら大声で叫んでいた。アレックスは片手をあげて言った。
「狼の声が聞こえただろ!このあたりの奴らは人に慣れていて恐れないから、気を付けろよ!」
こっちはその狼を見たいんだよ!マックスな筈はないけれど確認しなければ、という思いだけで、うす暗い森の中に足を踏み入れてゆく。
分け入っても分け入っても鳥や、姿の見えない小動物しかいない。
ふと気づくと日が傾き気温も下がり始めていた。そろそろ帰らなければ迷子になってしまう。
元来た道を戻り始めた時、風向きが変わった。
顔や髪を撫でる風が、草の上を走って森の奥へと流れてゆく。その途端、ひときわ大きい遠吠えが森の奥から聞こえた。それに続いて次々と狼達が咆哮を上げる。
「くそっ!」
思わず声を漏らすと、離れた場所から低い唸り声がした。全身の毛穴から汗が噴き出る。
足音を立てないように走り出すと、獣の気配も動き出す。
離れて並走しているようだが、なぜか襲ってはこなかった。
よろける脚でどうにか車までたどり着き、震える手でエンジンをスタートして走り出す。
幹線道路に向かう未舗装の道を百メートルも行かない内に、ヘッドライトの中に何かが飛び込んできた。
はっとして急ブレーキを踏むが止まり切れない。鈍い手ごたえにしまったと思いながら車を少しバックさせると、光の中で尖った耳がぴくぴくと動き、はっとしたようにそれ が立ち上がった。
雄の狼だ。
一瞬思考が停止した。闇の中、フロントガラス越しにこちらを見る冷たいアンバー色の瞳に射すくめられ、まわりの風景が消えてゆく。
マックス?
転がるように車外にでると、鼻の上に皺をよせ、歯をむき出しにしながら低い唸り声で威嚇された。
気を抜いた瞬間に地面をけって飛びつかれ、草の上に押し倒された。
グルルルルルルル…
間近で見たその狼は、身体じゅうに小枝や葉っぱをつけていたが、マックスだった。
「マックス!俺が分かるか?」
グワウッ!!
大きく一声吠えると、開いた口が俺の喉元に飛びかかった。頸動脈に当たる牙。身体が硬直した。尖った歯が皮膚を押す感覚に、ここで殺されるのだと思い涙が流れた。
死ぬのが怖いのではない。マックスに気持ちを伝えられなかった事が悔しかった。
しかし喉元で荒い息を吐くマックスは唸り声と共に一旦口を離すと、再び襟元にかぶりつき、むちゃくちゃに頭を振り回してきた。上半身が地面に引き摺られ頬に擦り傷ができる。駄々をこねる子供のように、マックスは動きを止めなかった。
「っ!ちょっ、マック… …ま、てよ」
服は裂け、マックスの口から出る涎と自分の涙で胸元がぐちゃぐちゃになってゆく。
暫くしてさすがに疲れたのか、ようやく服を離して俺の身体を下ろし、はっ、はっ、はっ、はっ、と荒い息で見下ろしてきた。
暗闇に、ヘッドライトの光を反射した瞳が冷たく光る。
規則的な温かい湿った息を俺に吐きかけながら、マックスは姿を変えていった。太い前肢は無駄のない筋肉のついた腕となって俺の頼りない腕を押えていた。
思いつめた表情のマックスがそこにいた、
「タカ…タカ!何で戻ってきた!何で俺を置いて行った」
「マックス…、ごめんな。あんな風に放り出して、逃げてしまって、ごめん」
「タカは俺が狼だと言った。だから今タカを食べようと思った。でも俺は狼じゃない!人間でもない!」
はっとした。じぶんが彼に押し付けた言葉が彼の心をこんな風に引き裂いてしまったのだ。
「マックス…」
「タカを食べることできない、タカが好きだから、百年も待とうと思った!でも今ここにいる、…もう逃がさない」
人間のマックスが、再び口を開けで喉元にくらいついてきた。
甘噛みというにはあまりにも野性的なアピールに必死に抗うが、体格も力も彼の方が優位で、本当は食べる気なんじゃないかという勢いに、マックスのなすが儘となった。
****
オフロード車の荷台には再び狼に戻ったマックスが大人しく伏せて、バックミラー越しにこちらを見ている(何せ服がなかったので、人に見られても困らないように狼になってもらった。)
初めて会った時と同じだ。ただ違うのは、彼は逃げないし俺を逃がすつもりもないという事。
すっかり暗くなった月夜の道を二人で、一人と一匹で帰る。開け放した窓からは針葉樹の匂いがする風。
狼でも人でもないマックスと、そんな彼に惚れて、人間としてはちょっとずれてしまった俺を、夜の森 は分け隔てなく包みこんでいる。
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