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ep.1 『Barにて』

意外と重いドアを開けてまず目に飛び込んできたのは、 カウンターの頭上から逆さにぶら下がって並んでいるカクテルグラスだった。 続いて、中身にどんな違いがあるのかは僕などにはまるでわからない、 そこかしこにひしめいている無数のボトルたち。 そして耳に飛び込んで来たのは、 大音量というには些か控えめなボリュームで流れるモダンなジャズミュージック。 初めて足を踏み入れた店内は、 予想に反して…と言ったら本当は失礼なのだけれど、 お酒や内装にこだわっている、 ベーシックなショットバーと同じようにしか見えないお洒落な空間だった。 「………」 「こんにちは」 「………  ……どうも」 「この店初めて?」 「……はい…」 店員さんも、いかにも普通の人だ。 もっと、こう…テンションが高くて、オネェ言葉なんか使ってきたりするのかなって、 …そんな風に思っていたんだけれど。 やっぱり僕は、偏見が強いのかもしれない。 頭が固いとよく言われるのは、そういうところから来ているのだろうか…。 「あっちの方に初めてっぽい人たち集まってるよ~」 「本当ですか?  行ってみます。ありがとうございます」 その時の僕は、一人で抱え込むことに限界を感じ始めていた。 中学高校ぐらいまではまだよかった。 自分はまだ子供だから、恋愛というものをわかっていないのだと 思っていればよかったから。 大学生になり、未成年といえども「子供」とは思い難くなって、 自分は本物なのだと思わざるを得なくなった。 本当に、同性しか好きになれない体質だったのだ、と――。 堂々としていられたらどんなに良かっただろうと思う。 悪いことをしているわけでもないのに、 世間に対して勝手に心を閉ざしているのは僕の方だ。 けれど僕は、そんな風に凛と振舞える人間じゃない。 家族に知られたら泣かれてしまうかもしれない。 友達に知られたら嫌われてしまうかもしれない。 そう考えて自分の殻に籠ってしまう側の人間なんだ。 でも、きっとそういう人の方が多いと思う。 聞いたわけじゃないからわからないけれど、きっと、恐らく、多分。 そしてこういう店に来れば、 同じような悩みを持っている・持っていた人に会えるだろうと思った。 だから思い切って、 凄く思い切ってこうしてここまで踏み込んで来たのだけれど…… それ以前に、僕はコミュニケーション能力が極端に乏しかったのだ。 まず男だろうが女だろうが知らない人に話しかけること自体が困難だった。 事前にネットで調べて来た通り、 店に入るとすぐに店員さんが声をかけてくれたのは助かった。 僕は未成年なのでお酒も飲めないけれど、 ソフトドリンクだけでも嫌がられはしないという情報も多分本当だろう。 一番聞きたかった、初心者が固まっている席を早々に教えてもらえたので、 とにかく一目散にそっちの方に行くことにした。 「(よかった。これで少しは、いや、かなり気が楽になったな)」 ……ところが。 「(…ん?)」 少し困ったことになった。 アットホームさを重視して選んだその店は、とても狭い店だった。 カウンター席の後ろはすぐ壁になっていて、 座っている人が少しでも椅子を引っ込めるなど協力してくれなければ、 人1人通るのも難しい。 初来店の顔ぶれが集まっているらしい席はその一番奥。 距離でいえば目と鼻の先だというのに、 この距離を進むのがなかなかに厄介だった。 「すみません、後ろ通ります…」 状況に気づいていないらしきカウンター席の客に、 小さい声で道を空けてくれるよう促す。 情けないことだが、僕にとってはこれだけだって勇気のいる行動だった。 「(………  …?)」 しかし、カウンター席に座るその男は、退いてくれるどころか顔を上げもしない。 声が小さ過ぎて聞こえなかったのだろうか…? 仕方がないのでもう一度同じ台詞を言ってみる。 「すみません、後ろ通ります」 少しボリュームを上げてやった。今度は聞こえているはずなのだが…… 「(???)」 それでも男は動かない。 なぜ? 「(わざとなのか…?)」 聞こえていないはずがない。じゃあなぜ動かない? これは新参者の僕を馬鹿にしてからかっているのだろうか。 そう思ってしまうと、見知らぬ人に対する緊張よりも上回って腹が立ってしまう。 悪い癖だと思うが仕方がない。 今度は強い口調で言ってやる。 「聞こえてるんでしょう? どいてって言ってるんです」 すると…… 「嫌だね」 「………はぁ?」 男はこちらを見もしないまま、やけに明るい声で「嫌だね」と言った。 これはもう黙っていられない。 「何なんだよそれは! 嫌がらせか?」 そう言ってこちらの方から相手の顔を覗き込んでやろうと思ったら、 男はスッと立ち上がり、ようやく僕の方へ顔を向けた。 そして…―― 「通してやったら、アンタあっちの方に行っちゃうんだろ?  せっかく隣になったのに、さみしーじゃん。  俺と一緒に飲もうよ」 立ち上がったら僕より10cmぐらい背が高かったその男は、 軽く小首を傾げながらいたずらっぽく微笑み、そう言った。 「………」 それが一瞬だったのか、2~3秒程だったのか、 それとももっと長かったのか、わからないけれど… 確実に、少しの間僕は固まっていた。 「………」 「ん?」 見ず知らずの彼が見ず知らずの僕へ向けた、屈託のないその眼差しが、 これまで出会ったどんなに親しい人たちよりも、 一番透明で、一番眩しかったから――。 「………」 「もしもーし?  なに、怒っちゃった?」 「……  …! あ、いや…その……」 そこで、今まで他の客たちと談笑を楽しんでいた店員がこちらへやって来た。 一連の流れを見ていなかった店員は、 僕が今居るこの席に落ち着いたものだと思い込み、 慣れた笑顔で今更メニューを差し出してきた。 先ほど初心者の集まる場所を教えてくれたのはこの人なのに、 僕がここに座ることに疑問はないのか? 「……いや…僕、こういうところ初めてで…  不安だし…最初は同じ初心者の人と話したくて……」 「あぁ、それはちょうどよかったな。  俺も初めてなんだ」 「うそつけ」 あ、しまった。知らない人に「うそつけ」はダメだろ…。 「あっはは。意外と言う人?」 「…すみません。……つい反射的に」 「アハハ、そりゃいいや。  俺そういうコ、好きだなぁ」 ……… 「…僕やっぱり初心者の方にっ――」 「あ~ちょっと、待って待って。  俺もホントに初めて来たんだって」 「でも、普通に常連っぽい人たちと盛り上がってなかったですか?」 確か僕が店に入った時、 このあたりの席は客も店員も楽し気に騒いでいた。 それも、初めまして~とか自己紹介的な感じではなくて、 いつもの仲間みたいに、ごく自然な感じで…。 「俺どこ行ってもそんな感じだから。  初対面の人でもフツーに仲良くなれるし」 「……」 …それは羨ましいことで。 「それに多分、歳も同じくらいだし」 「なんでわかる?」 「ほれ」 彼は僕の開いていたノンアルコールメニューに被せて、 自分の飲んでいるグラスを見せてきた。 …純度100%の見事なオレンジだこと。 「未成年でここに居るってことは、18か19だろ?  俺19」 「…同じだ」 「んねっ?」 「………」 ……何なんだろう、この人は…? ――さっきから…キラキラ、キラキラ、して。 「……  …あ」 「ん? なに?」 「じゃあ、さっき言った『俺と一緒に飲もうよ』って、  オレンジジュースをってこと?」 「…ぶはっ! そんなコト!?  で今頃っ!?」 「…?」 彼が、笑っている。 今度は目と目が合っているわけでもないのに、 …なぜだろう? また僕は、瞬きの仕方を忘れたようにそこから目が離せなくなる。 ……何なんだろう……この、気持ちは? ◆◇◆◇◆ 使う路線は違ったものの、終電の時間は二人とも同じようなものだった。 それぞれの駅に余裕で間に合うように時計を確認して一緒に店を出て来た僕らは、 少しずつゆっくりになってゆく足取りを、 ブランコのある小さな児童公園の入り口で完全に止めた。 ――まだ少し時間があるから。 …口に出して言うわけでもなく、お互いにそんな顔をして納得し合う。 住宅地の中ではなく繁華街の駅近くにある児童公園は、 月明かりに照らされた姿が何となく気取っていて。 大人の雰囲気のバーで二人してオレンジジュースを飲んでいた僕らとダブって見えて、 何となく可笑しかった。 「へぇ、若い波って書いて『わかば』か。  なんか、ぽいな」 「ぽいかな…? はじめて言われたけど」 「良い名前じゃん。可能性に溢れてるって感じだ」 「何でもいいから褒めればいいと思ってないか?」 「まぁたそうやって言う」 夏の訪れそのもののように僕の前に現れたその人は、 夏が来たと書いて《夏来(なつき)》などという出来すぎた名を名乗った。 僕は本名を言ったけれど、彼の方はどうだかわからない。 「さて…それじゃ、これで解散かな」 公園への礼儀を果たすためにブランコを揺らしていた彼は、 それだけ言うとトンと軽い音で着地して、 低い鉄製の柵に寄りかかっている僕を振り返った。 「……」 「アンタ、ガード固そうだもんな。  下手にこの後まで誘って嫌われて終わりたくないし。  またどこかで会えたらいいな。それじゃ――」 そう言って軽く片手を上げると、簡単に立ち去ってしまおうとする。 当然僕も、同じようにするはずだった。 ――なのに、 「待って」 「…ん?」 「そんなことないよ」 「…」 え…? あれ、何を言っているんだ僕は……? 「本当は、昨日今日会ったばかりのような人とは、  連絡先を交換したりもしないし、また会おうともしないし、  用が済んだらすぐに帰ろうと思うけど……  君だったら……夏来だったら、話は別だ」 言葉が勝手に口から飛び出してくるような感覚だった。 頭で考えるよりも先に、衝動が僕を喋らせていた。 ――嘘みたいだ。 こんなに自然に他人を受け容れて、 それどころか、離れていくのを掴まえようとしているなんて。 自分が自分じゃないみたいで、今更パニックがやって来て、視界がぐにゃっとした時。 彼の――夏来の視線がしっかりと僕をとらえたから、すぐに焦点が定まった。 「本当に?」 「――うん」 「…じゃあ――行ってもいいの?」 「……うん」 「…じゃあ、その前に……  ――キスしてもいい?」 「……  うん」 そうか、やっぱり、と思った。 初めて視線が合ったとき、少しだけ時間が止まったのは、 その瞬間にもう、彼に恋をしてしまっていたからだったんだ、と――。

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