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月光少年ー前編ー
広大な山を有する裕福な彼の家は、村をまるごと見下ろせるような高台にずっしりと聳え立っている。
四季折々に紅葉する不思議な山を背に、黒を基調とした純和風の彼の屋敷、讃岐邸はまるで村のシンボルかのごとく存在していた。色落ち一つしていない、立派な黒塗りの木塀。かと思えば、豪勢な切り妻屋根には相当の年季が入っているかのような苔が生していたりして、どこかちぐはぐな、妖しい雰囲気を湛えていた。
この家の初代当主は讃岐月雄といい、いつの頃からか、ふらりとこの村にやって来て、村人の気付かぬ内に立派な屋敷を建ててしまった。当時の村人が言うには、不思議な事に、村のどこに居ても見上げられるような目立つ高台に大きな屋敷を建設したにも関わらず、昼夜を問わず一切の工事音も、況してや一人の建築職人さえも見なかったという。讃岐邸は中秋の名月の夜、忽然と姿を現したのだ。
そのような不思議な伝承の残る讃岐邸現当主の息子である月彦と僕は、村内でも数少ない同い年という事もあって、特別仲良くしていた。村から外へと出るバスは、午前六時半、十時と、午後には十四時、二十時の計四便あり、僕と月彦は六時半発のバスで一緒に学校へ向かい、そして二十時のバスで村へ帰る、という生活を送っていた。どちらの便にしろ高校生にとっては微妙な時間帯で、朝は早く着きすぎ、また閉校してから村へ帰られるまでの時間も長く、僕たちはいかに有り余ってしまった時間を有効に使うのか、毎日頭を悩ませていた。
月彦はあまり口数の多い方ではない。僕も同じようなものなのだが、彼が言葉少なめに話すようになったのは、小学校へ上がる頃だったように思う。
当時、月彦は“法螺吹き”とあだ名されていた。どうして彼がそのように称されるようになったのかと言うと、ただ単に、月彦自身が誰にでも見破られるような、瑣末でいい加減な嘘を吹聴して回っていたからに他ならない。
家の納戸には二メートルもある大蛇を飼っているだとか、実は自分の生まれた星は地球ではないのだとか、そういった類の“法螺話”を、彼はよく口にしていた。
在校生が全員で十名にも下らぬ学校での事なので、その話をいち早く聞きつけた上級生が半信半疑で讃岐邸へと押し掛け、納戸が空であり、更には讃岐邸には大蛇どころか犬猫さえいないという事実を突き止めた頃には、もう誰一人として月彦の話に耳を傾ける者はいなくなっていた。僕はその騒ぎを尻目に、それでも月彦の口は真実を語っているのではないかと勘ぐったりもしたが、もちろん月彦の語る話が全て出鱈目なのだと知るのにさほど時間はかからなかった。なんといっても、僕もよく騙されたのだから。
だけど、それでも僕は月彦の事を見損なったり、嫌悪したりはしなかった。それよりも、彼の語る途方もなく広大で煌びやかな話が、田舎の村でのちっぽけな生活を忘れさせてくれるような気がして、無理やり月彦に語り部をせがんだ事さえあったほどだ。
僕はきっと、誰よりも月彦の話を信じていなかったのだろう。月彦はそれを分かっていて、それでも僕に夢幻の話をしてくれた。その時の彼の心境を考えると、今になってようやく胸が痛む。
僕は毎朝、月彦を家まで迎えに行く。そこから二人、寝ぼけ眼で高台を下りバス停へと向かう。休みの日はもっぱら、讃岐邸で過ごす。あまりにも広大すぎる屋敷なので、何度行っても新鮮なのだ。特に約束を取り付けていなくとも、彼の家へ赴けば、大抵月彦が出迎えてくれた。出不精らしい。
それに今日は、月彦が前もって僕を誘ってくれていた。なんでも、話したい事があるのだそうで、そう前置きされると、どうしても身構えてしまう。
本当はこの時、少しだけいやな予感がしていたんだ。何か急激な変化がもたらされそうな、そんな予感が。
今日も当然のように黒光りする讃岐邸の重々しい玄関扉を開け、月彦を呼ぶ。不思議な事に、讃岐邸には呼び鈴がなかったので、玄関先に置いてある大きな真鍮のハンドベルのようなものを鳴らして家人を呼んだ。僕はいつもベルを鳴らしてから月彦が出て来るまでの間、物珍しそうに辺りを見回してしまう。
上がり框から真っすぐに見える、大きな陶器の花瓶に活けられた花々は、いつも美しく客を迎え入れてくれる。月彦の母親が活けたのだろうか。美しい婦人に丁寧に活けられれば、花ももっと美しくなろう。僕はわけのわからない事を考えながら、精巧な螺鈿細工の施された、黒漆の梁を呆けたように見上げた。
艶々とした梁に浮かぶ眩く繊細な細工を、視線でなぞるように視認する。虹色に輝く紋様の、その一つ一つがいまにも芳しく匂い立つようで、不思議な心地になる。まるで異郷の地へ迷い込んでしまったようだ。
讃岐邸は、やはりどこかちぐはぐだ。まず初めに目を疑ってしまうのが、濡れ光ったような瓦屋根の上に身を翻す、三日月を模した風見鶏。がっしりとした和風の屋敷にはあまり似合わないと思うのだが、家人はどのような意味合いを込めてこの風見鶏を据えたのだろうか。いや、もはやそれは風見鶏とは呼べないのではないだろうか。風見月、とでも言おうか。夜風にくるくると回るまがいモノの月というのも、なかなか意味深長で、僕は気に入っている。
讃岐邸は、いやに“月”というものに執着しているようだ。それは、讃岐家の人々の名におしなべて月という漢字が使われている事からも窺える。一種病的なその徹底ぶりも、讃岐邸の神秘性を際立たせているのではないだろうか。
月と讃岐邸。そういえば竹取りの翁、かぐや姫、あの話に出て来る老夫婦の姓も讃岐だった。
長い廊下をばたばたと駆けて来る月彦ごと讃岐邸の玄関を振り仰ぎ、わけもなくため息を吐いて見せた。どうしてかここ最近、月彦の事を考えると妙な気持ちになる。からだの中を激しく濁流する、二つの感情。彼にもっと触れて、それこそ骨が折れるほどに抱きしめてみたいのか、それとも二度と関わり合いの無いよう遠ざけてしまいたいのか、僕には分からない。この激情をどう消化していいのか、さっぱり見当も付かない。身に余るほどの感情にとらわれ苦しむくらいなら、いっそ全てを投げ出したい。とにかく、日がな一日狂おしい。
* * *
僕が月彦の法螺話にひどく振り回されたのは、今から一年と少し前。十五の頃。やはり冬の事だった。
例年よりぐっと冷え込み、積雪の量も多い年である。ちょうど三箇日が過ぎると同時に、僕は祖父の大きな長靴を履いて讃岐邸へと足を運んだ。
急な石段を有する讃岐邸までの道のりは険しく、普段なら十分で着く筈の距離を、倍の時間をかけて歩いた。冬の村はどこか寒々しい。木戸をしっかりと閉じ、村人が家からあまり出ないせいだろうか。深々と積もりゆく雪は少し湿っぽく、僕の髪を存分に濡らした。
「月彦。月彦。鵤 だけど……」
いつものと同じく、ずっしりと重量のあるハンドベルを鳴らしながら声を張る。寒々しいほどの大邸宅に間抜けのような声音が染み渡り切った頃を見計らったかのように、やがて廊下の奥から慌ただしい足音が響いてきた。こっちまで寒くなりそうなほどに薄着をした月彦が、眦を下げながら駆けてくる。
「寒い中ごめん、冷えただろう? さあ、どうぞ上がってくれ」
月彦は僕からジャンパーを受け取ると、弾んだようにさぁさぁと奥座敷へと招いてくれた。綺麗に磨き上げられた床が汚れては悪いなと、靴下を脱ごうか迷っている間にも、彼はずんずん奥へと進んで行ってしまい、僕は仕方なく濡れた靴下を履いたまま、それでも少しだけ気を遣って、無駄に爪先歩きで彼の後を追った。一足歩くごとにぐずぐずになった靴下が濡れた音を立て、うんざりした。後で讃岐の奥方に謝り、拭き掃除をさせて貰おう。
意外と性根が真面目な僕を置いてけぼりにして、月彦はすっかり奥座敷に行ってしまったようだ。こうも家の中が広いと、夜中トイレに行くのも一苦労だろう。特に冬なんて、廊下がひどく冷え込むものだから、トイレで用を足して自室に帰るまでにもう一度くらい尿意を覚えても良さそうなほどだ。
「鵤君、まだ?」
果てしなく続く廊下の一番奥、その襖から月彦が顔だけ出してこちらを怪訝そうに窺っている。はいはい、と返事をして廊下を小走りで進む。
廊下の片側は襖で仕切られており、もう片側は縁側になっている。襖には今では珍しい、襖絵が描かれている。それも黄梅院の襖絵のような、繊細で奥ゆかしいが、圧倒的な絵だ。きらきらと輝くのは、砂金だろうか。表面がざらざらとしているように見えるので、そうなのかもしれない。襖の絵柄は、これは天女だろう。浮世絵なんかによく見られる、瓜実顔の美女が一貫して描かれている。不思議に思い手前から改めて見ると、どうやら物語調になっているようだ。手前から奥に進むに従って、天女は暗い表情になり、美しいかんばせを隠してしまう。流れる涙を樹脂だか硝子だかの粒で表現してあるのは、素直に感心した。
どうやらこの襖に書かれているのは、かぐや姫の物語に似ているもののようだ。月から舞い降りた天女が人里で歌い、舞い、楽しく暮らしていた。しかしある時、月からの使者が天女を迎えに来てしまう。天女は泣き暮れるが、結局は村人達の懇願も空しく、元居た月の世界へと消えてしまうー―――、のだろう。どうしてそこまで来て最終局面が不確かなのかと言うと、恐らくは月に帰る天女が描かれている筈の最後の一枚が、見えないからだ。正確には、月彦の部屋の襖がその最後の一枚なので、襖を開けたままこちらを睨む月彦のせいで見られないのだ。
「随分熱心に見ているけれど、君に絵のことなんて分かるの?」
と、失礼な事をのたまいながら、しびれを切らした月彦が唇を尖らせる。
「分かるさこれくらい。それよりもこの襖絵、最後はやはり、天女は月に帰ってしまうのか? 最後の一枚は、月彦の部屋の襖だろう?」
見せてくれ、と襖に手をかけたのだが、その手は月彦の冷えた手にはたき落されてしまう。
「帰らないよ……」
不機嫌そうに月彦はそう言い、ばつが悪いのか、視線を逸らせた。
一体何をそんなに怒る事があるのか、僕にはちっとも分からない。きっとこの時、金持ちの坊ちゃんの考える事は庶民とは違う、とか、法螺吹きの言う事はよく分からない、とか、そんな事を考えていたんだと思う。いつもよりも少し意固地になっていた。
彼の、瞼の上で切りそろえられた前髪が揺れる。その下で困ったように伏せられた睫毛の奥の瞳も揺れる。やがて、僕が何も言いださない事に焦れたのか、月彦は僕の手を掴んで無理やり部屋の中へと引きずり込んだ。
「まあ、そんな事はいいじゃん。何か飲もうよ、喉渇いた」
月彦は、困ると少し口調が幼くなる。それが面白くて、ついつい、いつも彼を困らせたくなってしまう。彼は極度の人見知りで、友達も僕しかいない。仲の悪い生徒は多いのだけれど、それは一重に月彦が法螺吹きだからに過ぎない。その人見知りたるや、担任教師とさえ満足に話ができないほどだから、相当だ。
いつも学校ではつっけんどんでムスッとしている月彦が、僕の前ではこうして困ったように上目遣いでこちらの様子を窺う。機嫌を取ろうと四苦八苦している。その事実が、僕の優越感を満たす。いじらしくて、健気で、かわいいと思う。
だけれど、これが恋だとは思っていない。少し、妙な気持ちになるだけだ。
彼の淹れてくれた紅茶を飲み、いつも通り、真偽を計ることさえバカバカしいようなおとぎ話を聞く。
なんでも、讃岐邸の裏山に、月までひとっ飛びできる飛空船が停泊しているのだとかいう、SFめいた話を興奮気味に語られてしまった。ライトは虹色に光るんだとか、宇宙に散らばる星の破片を拾えるアームだとかが付いているらしい。
僕はふうん、と相槌を打ちながら、これまた螺鈿細工の入ったカップに口を付ける。純粋に面白いと思ったので、割りと真剣に聞いていたつもりなのだが、月彦はこれ以上ないほど不安気な顔で、大きく振っていた腕をぱたりと落とした。
「嘘だと思ってるでしょ」
「半信半疑ってところかな、でもまあ話としては面白いよ。あのばかでかい裏山なら、飛空船くらいすっぽり隠せそうだし」
SFは好きだしね、そう付け加える。
僕がSF好きになったきっかけは、月彦から借りたロバート・A・ハインラインの“月は無慈悲な夜の女王”を読んだせいだ。ここにもまた月が。月、どこまでも月がまとわりついて来る。
――――月はどこまでも追いかけてくるのに、どうやって逃げろって言うんだ。
いつの事だったか、学校からの帰り道、バスの中で月彦はそう言って怯えたようにマフラーに顔を埋めた。あれは寒い日だった。テレビではオリオン座流星群飛来のニュースがやっていたから、やはりこれも冬の事であっただろう。村で唯一の古いバスに揺られ、狭い座席で肩をくっつけてひそひそ話をしていたあの頃。さて、僕は彼の言葉になんと返したのだったか。
「本当にそう思っている? 少し、あやしいよ」
「まあだって、ねえ」
それを無条件で信じろという方が怪しいよ。そう言えばきっと彼は泣きだしてしまいそうで、ぐっとこらえる。なんとかしてでも信じさせようとしているのか、じっと考え込む月彦の頭を一撫でし、僕は残りの紅茶を飲み干した。
「なら、行ってみるか? 裏山へ船を見に、さ」
「え……」
「なんだよ、いやなのか?」
雪は降っていないし、裏山はきちんと毎日除雪されているらしいから、そこまで危険と言うわけでもないだろう。すでに立ち上がって行く気になっている僕の腕を掴み、月彦は困惑したように口を歪めてうつむく。
「……でも。もし飛空船が無かったらさ、いや、あるんだけど、見つからなかったとしたらさ」
「うん?」
「僕は自分の事を嘘つきだって証明する事になるじゃないか」
まあ、そう言う事になるのだろうか。納戸の件で彼は孤立してしまったのだから。
「そうしたらさ、もしさ、もしだよ、船が見つからなくて、僕が嘘つきだって事になったらさ、鵤君は僕の事を嫌いになるでしょ」
「いや、そんな事くらいで嫌いにはならないでしょ、普通」
「でも、嫌われたくないから行きたくない」
月彦の法螺吹きっぷりはすでに熟知しているから、今更何をか言わんやだ。そもそも月彦の事を嫌いではないという前提で話を進めているのもどうかと思う。まあ、なんだかんだで月彦の事はきちんと好いているので、彼の前提は間違ってはいない。
「そんな、隅々まで裏山を歩き回るわけじゃないし。たまたま僕らが見回ったところに無かっただけかもしれないだろ。散歩の延長というか、単なる暇つぶしくらいの感覚で行けばいいじゃない」
尚も渋る月彦の腕を引き上げて立たせてやると、不安気な瞳と視線がかち合った。どうしたらそこまで哀しい顔ができるんだ、と問いたくなるような彼の顔を両手でわしゃわしゃと擦る。白い頬が上気すると、僕の体温も上がってしまう。愛玩動物に接する気持ちは、きっとこんなだろう。
「それに、もしも船があったら、今まで月彦の事をばかにしていた奴らを見返す事ができるんだぜ。なら、行ってみる価値はあるでしょ」
月彦の瞳が数回揺れ、頭ががくんと揺れる。派手な頷き方だ。彼はなんだかんだ渋りつつも汚名の払拭に燃えているようで、僕より先に大股で部屋を出て行ってしまった。僕は壁にかけてあった彼のコートと自分のジャンパーを一緒くたに抱え、その小さな背を追いかけた。
数時間後、僕達はほうほうの体で讃岐邸へ転ぶように帰って来た。結論から言うと、もちろん裏山に船など存在しなかった。いや、僕の言った通り、あの広大な裏山のどこかには存在したのかも知れない。ただ単に僕たちが見付けられなかったのかもしれない。だけれど、半日以上も探し回って、あらかた山も探索したのだから、九分九厘“無かった”と言いきっても良いだろう。
月彦は酷く焦った表情で僕を何度も見上げる。その視線がなんだかひどく可哀想で、ちりちりとした視線を感じながらも、それに気付かないふりをしていた。僕自身も落胆していたのかもしれない。慰める言葉も、冗談を飛ばす力も湧いてこない。どうしていいのかも分らない。
「あるんだよ、本当に。あるんだ。船は、あるんだけどな」
陽の当らない、陰った台所で、月彦はやかんを火にかける。茶葉の匂いが、石油ストーブで茹った空気に蒸される。彼の後ろ姿の小ささ、クリーム色の襟付きシャツから覗く首の細さに、僕は息苦しさを感じた。
結局、月彦は嘘つきだ。今日、この時点でその事実は詳らかとなってしまったというのに、必死に涙をこらえている彼の姿を見ていると、どうもそれだけではないような気もするのだ。だから何かが変わるということでもないけど。
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