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月光少年ー後編ー

      *   *   *        やかんがうるさく鳴る。ありもしない飛空船を探し回ったあの日と同じ、湿った冬の暗い台所で、月彦はお茶を淹れる。  相談したい事があると言われて来たのだが、一向に彼がその事に触れる気配がしない。いつもと同じ、本を読んだり、ぽつぽつと会話をしたり、それだけで日も暮れてしまった。僕は少しやきもきする。彼が何を言い出すのか、怖いけれど、知ってしまいたい。  夜の讃岐邸はひときわ静かだ。家人は出掛けたまま帰ってこない。通り雨だろうか、少し激しい雨が降っているのだが、大丈夫だろうか。この雨で雪も解けてくれたらいいのだが。  他人の家の台所というのは、昏い淫猥さを秘めている。どこよりも生活臭が漂うのが、そこであるからだろうか。エロティックだと思う。食と性は繋がるという話をよく聞くが、それも強ち間違いではあるまい。  讃岐邸の台所はやはり一般家庭と比べるとかなり広く、綺麗で清潔感もあるのだが、それでもやはり生活臭はある。冷蔵庫が低く唸り、蛇口からぴちゃぴちゃと水が滴る。すりガラスの向こう、で大きく育った月桂樹がざわりと揺らぎ、遠くで午後六時を告げる鐘が鳴った。 「冬はすぐに暗くなって、いやだね」  後ろ姿のまま小さくため息を吐く。丸みを帯びた後頭部の髪がさらりと揺れた。  電燈がちらりと揺れ、怪訝な顔をした月彦がこちらを振り仰ぐ。見上げた瞳の白目が潤んで不思議に輝く。呆けたように開いた唇が無防備で、僕は急に不安なきもちになった。胸の辺りがもやもやと熱くなるような、全身をかっと発熱させる焦燥感のような……。  これこそが月彦の魅力なのだと、心底思う。無意識に人を遠ざけるような行動を取るくせに、無防備で、いくらでも付け入る事ができそうだ。鉄壁と脆弱の波間がひどくアンバランスで、劣情感を誘う。  きっと他の人らは、彼の嘘に愛想を尽かしたのではない。心の底から掻き回して、素知らぬふうな顔をする彼が怖くなったのだ。正確には、そう感じてしまう自分自身が怖くなったのだろうけど。  月彦は黙々と茶器を並べる。伏し目がちの表情がとても似合う。睫毛が長いからだろうか。最近彼は背が伸びて来て、女子から人気を集めているのだそうだ。それが余計に男連中の気に障るのだろう。 「そういえば、まだ言ってなかったけど……」  月彦はぼんやりとつっ立ったままの僕を、横目で一瞥する。 「うちの裏山、祖父様が売ってしまったらしいよ」 「そうなの?」  裏山、というフレーズにどきりとした。  僕たち二人にとって、裏山はいやな意味での特別な場所になってしまったから、彼からその言葉が出たのは少し意外だった。  去年、裏山で飛空船を探して以来、月彦の口から誇大な話は聞いていなかった。裏山から讃岐邸まで帰って来た時、僕が落胆したのがよほど堪えたらしい。僕は自分自身の知らないところで彼のこころを傷つけてしまっていたようだ。  月彦は一瞬、僕の方を見つめてから、また茶器に目を落とす。そして唇を湿らせてから、口を開いた。 「僕、近いうちに引っ越すんだ」 「え……」  まるでなんでもない事のように紡がれた一言に、僕は気が遠くなった。  いつ、どこへ、なぜ。聞きたいこと、聞かなければいけない事はたくさんあるはずなのに、何から問えばいいのかがさっぱり分からない。考えが追いつかず、口を開けばわけのわからない事をわめいてしまいそうだ。渇く唇をなんとか舐め、小さく声を漏らす。ため息のような、嘆息のような、かよわい空気の振動。それだけでは何も伝わらない事は、分かりきっているはずなのに、それ以上、意味のあるものは生まれてこなかった。 「月彦……」  ちかちか、と電燈の灯りが揺れる。  電燈の紐に伸ばした月彦の白い手がぴたりと止まり、静止した。まるで彼だけの時が止まってしまったかのようで、不思議な時間の流れを感じてしまう。小刻みに点灯する生白い光が、彼の細い顎を舐める。 「なに……?」  緩慢なストロボが月彦の唇の動きを見せつける。僕はたまらなくなってしまって、電燈の紐を掴もうとする彼の腕を強い力で引いた。その手首が思いのほか細くて、驚いた。  弾みで月彦がこちらに倒れ込み、彼の手を掴んだまま尻餅をついた。戸棚に背がぶつかり、息が詰まる。密着しているせいで、月彦特有のにおいを強く感じた。よく知る香りなのに、薄闇の中で嗅ぐそれは、いつもと違い、妙な甘さを孕んでいるような気がした。  きっと今日はおかしい。酩酊しているように、手足が熱く痺れる。ひどくまどろんでいる時のように、意識がぼうっと空を舞う。 「鵤君、だいじょう……」  不安気に僕を気遣う月彦の声が、不自然に途切れた。彼の両頬をてのひら全体で覆うように掴み、乱暴に唇を重ねる。僕は、僕の知らないうちに、彼に接吻をしていた。その事実にようやく気付いたのは、何度も何度も彼の唇を食み、歯がかちかちとぶつかり合う音に正気を取り戻した頃だった。  短い間隔で瞬き始めた電燈の下、月彦の両の瞳が濡れたように光っている。彼の瞳が深い月色に輝いていたのが、不思議だった。光の反射ではありえない、あの月の色。濃い、満月の色。 「ご、ごめん、その、……、ごめん」 「いや……」  月彦は手の甲で唇を拭い、瞳を逸らす。虹彩は黒い。月色には光らない。  さっきのは錯覚だろうか。月彦の黒々とした下まつ毛に、小さな涙の粒が引っ掛かっている。なんとなく、その粒が落ちて彼の頬を滑るのが見たかったけれど、その前に彼が拭ってしまったので叶わなかった。それを残念に思う自分が穢らわしいものに思えて、慌てて視線を逸らした。  静まりかえる台所で、水の滴る音だけが大きく響く。身じろぎをするのにも緊張してしまい、僕たちは余計な力を入れながらも立ち上がる。神経がぼうっと膨張しているようだ。ストーブの赤が涙目に沁みた。 「……月彦、その、引っ越しは、いつなんだ?」  渇いた咽から、うわずる声を無理やり捻り出す。彼の顔を直視できないのは、さっきの暴走だけが原因ではない筈だ。きっと僕は、その答えをあまり聞きたくないのだ。  だって、彼がいなくなってしまえば、僕は誰と通学したらいい? 友達がいないのは、僕も同じなのだ。その辺りを第一に考える辺り、僕は本当に身勝手でどうしようもない奴なのだと思い知る。勝手にときめいて、挙句の果てに口付けをしてしまったけれど、僕は“月彦”がいなくなる事よりも、“無条件で共にいてくれる人”を失ってしまう事に、怯えている。僕は僕が分からない。彼の事を友として大切に思っているのか、そうでないのか。友を越えて慕っているのか、そうでないのか。ひどく曖昧だ。そこがまた、おそろしい。  月彦は、おそろしい。僕を最低にしてしまう魔を秘めた彼が、とてもおそろしい。 「さあ、すぐ、近い内に、としか……」  彼の声もうわずっている。少し、肩も震えている。シンクに立つ月彦の後姿だけで、僕は彼のこころを読まねばならない。  思うに、彼は彼で、僕がおそろしいのだろう。きっと、そうに違いない。  落ち着かないように、何度も自分の首を擦る。 「そう、か。どこに行くんだ?」 「遠く。ずうっと遠く。もうきっと会えないところ」  月彦は困っている。彼の幼い言葉遣いが困惑を語っている。 「東京? 親父さん、確か東京で事業展開するって言ってたろ」  首を振る。 「もっと遠く? それとも海外とか……」  何度も首を振る。肩が震えている。嗚咽は聞こえない。シンクの縁を、ぎゅうと力いっぱい掴んでいるように見える。何に耐えているのか、わからない。どこに行くかくらい、言ってくれても良さそうなものだろうけど。 「でも、まあ、会いたいと思えば、どこにいたって会えるものじゃないのか?それこそ、宇宙にでも行かない限りは」  彼は何も言わない。ただ一度、目元をぬぐった。泣いているのかと思ったが、よく分からなかった。  彼の哀しみの理由は、なんだろう。僕と同じ理由だろうか。月彦は僕の事を無二の友人と捉えてくれているのだろうか。改めて考えると、少しだけ不安になる。それは僕が、自分の内面を熟知してしまっているからだろう。純粋な友情など無いと、僕自身がすでに証明してしまっている。 「なあ、月彦。どこに行くんだ? 教えてくれないと、手紙も書けないだろう?」 「ちがう、ちがうんだよ」  生白い顔が振り返る。やはり、彼は泣いていた。頬が冷たく濡れている。 「ちがう、行くんじゃない、還るんだ。そしてもう二度と、ここには来られない。ずっと、二度と、永遠に会えないんだよ」  何度も何度も両手で目をこする。それでも顎からはぽたぽたと雫が滴った。 「何十年経っても、何百年、何百億年、どれだけ時間が過ぎても、巡っても、もう会えないんだよ」 「そんなこと……」  ないだろう、と言いかけて、言葉に詰まった。どちらかが会おうとしなければ、そうなるのだろう。そして僕は、絶対にそうはならないと言いきる事は、多分、できない。きっと誰にもできない。絶対なんて、どこにもない。 「月彦、でも。だけどさ……」  何と言えばいいだろう。かわいそうに、大粒の涙をこぼし続けるいじらしい友人に、何と声をかけたらいいだろう。  今になって思う。彼の泣き顔は、健気でかわいいけど、きらいだ。いつもみたいに法螺話をして、笑っていればいいのに、と、思う。今になって。本当に、今になって。  結局僕は、まっすぐな月彦に反発していただけだ。本当は、寂しくて寂しくて泣きだしたいのは、僕も同じだ。僕より背の低い、彼に甘えてすがりつきたいのは、僕の方だ。 「近い内と言っても、明日、明後日の話じゃないだろう?」 「駄目なんだ。もう、還る支度はとっくに出来てる。庭に、船が……」 「――――船?」 ――――裏山には、飛空船があるんだ。 ――――祖父様が、裏山を売ってしまったらしくて。  妙な符合だ。まさかあの船、なのだろうか。一年前、僕たちが裏山で見付けられなった、あの船が、庭に……? 裏山が人手に渡ってしまったから、庭に移動した?  いや、違う。そもそも船などありはしなかった。あれは月彦の法螺話で――――。  ぐるぐると色々な想像が駆けめぐる。鈍い頭痛がした。こめかみから鼻にかけて、びりびりと痺れるような鈍痛が暴れている。色々な事がありすぎて、全く自分の頭が追いついていない。どこまでも置いてけぼりにされている。 ――――月はどこまでも追いかけてくるのに。  これも違う、これはバスの中での事だ。月、月。そう、大体にして、月がでしゃばり過ぎている。  月夜の晩、突如現れた讃岐邸、月彦、風見月、襖の天女、ロバート・A・ハインラインの小説、月桂樹、月まで飛ぶ船、月色の瞳。  僕はこの時、こころのどこかで真実に到達してしまっていたのかも知れない。こころと頭は連動しない。僕はその真実を認めるわけにはいかない。  だってそうすると、月彦は、月へと還っていく事になってしまうではないか。 「月彦、お願いだ。還らないでくれ……」  月は、あまりにも遠すぎる。どこまでも追ってくるのに、月との距離なんて、僕たちにはまるで解らない。解らなければ、もうきっと、どうする事もできない。 「僕を、一人にしないでくれ……」  僕の情けない姿に混乱しているのか、呆けている月彦にすがりついて泣いた。  彼の前で涙をこぼす事なんて、初めてだ。今までは、泣くほど哀しい事もなかったのだから、当たり前だけれど。  何より、僕が驚いている。二度と会えぬと彼から告げられ、それを信じ切っている自分が、そもそも信じられない。何の確証も無いのに、本当に、二度と月彦に会えないと理解してしまっている自分が、信じられない。 「鵤君、ごめんね。ごめん。まさか君が泣くなんて、思わなかったから……」  冷たくて白い手が、僕の頭上をさ迷う。頭を撫でようとして、逡巡しているような動きが彼らしくて、少し、おかしかった。  そして思い出したかのようにポケットから何かを取り出すと、少し微笑んでから僕のポケットにそれを捻じ込ませた。何かが入った感触は無い。なんだろう、と彼の顔を見つめると、首を振られた。 「今までありがとう。嬉しかったよ、僕の話をちゃんと聞いてくれたのは、鵤君だけだったから。それだけが、僕の救いだったんだよ」  冷たい霧雨が吹き付ける。満月の光は、凍える夜気に映える。  僕は讃岐邸を辞した後も、暫く金縛りにかかったかのように動く事が出来なかった。背を玄関の扉に預け、何度も何度も息を整える。  月彦たちが越した後、この屋敷はどうなるのだろうか。少し憂鬱になる。きっと取り壊されても、哀しい。残り続けても、きっと哀しいだけだろう。  それなりに楽しい思い出が溢れているはずなのだが、それが却って辛い。  背後に黒く沈んだ讃岐邸の冷えた台所で、いま月彦は何を思っているだろうか。そして、あの襖の絵の終着は、一体どんな結末を迎えていたのか――――。  ふと、庭から不自然な光が漏れているような気がして、足を伸ばす。さくさくとした、湿った芝生が靴底に刺さる。  庭の中央から少しずれた辺り、地面が少しほんのり光っている。まるでその土の中に光り輝く何かが埋まっているようだ。少しだけ迷って、手で土を掻く。すぐに堅い、銀色の鉄板のようなものが見えた。僕は胸が不自然に高鳴るのを感じた。  銀色の鉄板には、小さな丸い目のようなランプが付いている。それがほわん、と虹色に光ったのを見届け、あとはもう何も考えず、振り返りもせず、一目散に駆けだした。暗闇の中で、生命が蠢いているような、気味の悪さに支配される。  月彦の言う、飛空船のランプは、虹色に光るのだそうだ。  目には決して見えぬ何かおそろしい異形が、ふいにマグマの胎動のように呼吸を震わせる。夢想が現実に具現したような、おそろしい気配。  僕はもう何も考えられない。考えられぬのならば、諦めるしかない。  翌日はよく晴れた。例年よりぐっと高い気温が、じわじわと雪を溶かし始めている。  讃岐邸は、朝日が昇る頃にはすでに跡形も無く消え去っていた。もちろん屋敷に棲む人間も、いなくなってしまった。  満月の晩、忽然と現れ、そして同じく満月の晩に消え去ってしまった讃岐邸の事を、誰も覚えてはいなかった。始めから讃岐邸などは存在していなかったと、みなが口を揃えて僕の事を訝しがった。月彦の事を疎んでいた同級生も、彼の事なんてこれっぽっちも覚えてなんていなかった。そのおかげと言っていいのかは分からないが、月彦に肩入れをして同級生と折り合いの悪かった僕への酷評も、全て帳消しになったようだ。たった一晩のうちに。  まるで全てが夢だったかのように、嘘だったかのように思えるのだが、僕だけはしっかりと覚えている。あの風見月が見守る、黒塗りの屋敷も、困ると幼い口調になる少年のことも、全て。  ふいにポケットが重くなる。まさぐれば、硬質な何かが収められている。  取り出してみると、、薄く丸い金属のようなプレートが入っていた。板の表面にはクレーターのようなへこみが出来ていて、それが月を象った物なのだとすぐに気が付いた。  月彦が昨夜僕のポケットにねじ込んだものだ。  僕はなんどもそれを眺め、胸に抱いた。 ――――月がどこまでも追いかけてくるよ。  彼の言葉を思い出し、胸が痛んだ。  あの時、あのバスの中で、僕は確かにこう返したのだ。 ――――月は、地球に好きな人がいるから、追いかけているんだよ。ずっと、前から。これからも、ずっと。永遠に、終わることの無い、一人だけの追いかけっこなんだよ。  掌の中の冷たいプレートに、涙の粒が乗る。  僕にこの月をくれた彼の気持ちを思うと、どうしても涙が止まらなかった。                

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